畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

越前大野城訪問記

2023-08-13 10:33:30 | 歴史

今回紹介する城は福井県大野市にある「越前大野城」です。

 越前大野城は、四方を山々に囲まれた大野盆地の真ん中にある亀山城(標高249m)にある平山城です。「北登り口」「南登り口」「西登り口」と城への登り口が3ヶ所あります。南と西の登り口は大きな駐車場があります。北と南は緩やかな坂で登城できますが、西は急な階段が続きます。今回の私は時間があまり無かったので「西登り口」から登城しましたが、天守閣の正面の写真が撮れなかったので、余裕がある方は「越前おおの結ステーション」から登ることをお勧めします。ここんは、多目的広場兼駐車場のほか、物産販売所・藩主隠居所(休憩所)やまちなか観光拠点施設がある場所で、大野市が中心市街地活性化の核として整備しました。「結ステーション」の駐車場にとめて、大手門広場から写真を撮ると天守閣が正面から取れるビュースポットです。

「西登り口」の急階段はこんな感じです。この先もまだまだ階段が続いています。筋肉痛になりそう。

 急階段を登り終えて休憩所に着きました。ここはある程度広い平坦面があるので曲輪かと思いましたが、講堂や体育館からなる「学びの里めいりん」や「大野市民俗資料館」がある場所が二ノ丸・三ノ丸で、そこから上がってくるための枡形のような役割の場所のようです。やはり戦国時代と近世・江戸時代は仕組みが違いますね。

 休憩所に「土井利忠」の銅像がありました。土井利忠は大野土井家7代目藩主で、幕末期の44年の治世で藩政改革を成し遂げ財政再建を成し遂げたほか、4万石の小藩ながら藩校「明倫館」の開校、洋学校の開校、西洋医学の採用、西洋砲術の採用、蝦夷地開拓などを成し遂げたという。

 銅像の場所と同じ場所にある休憩所。この休憩所には「幕末の大野藩の偉業」という大看板が建っています。この看板は古そうなので、昔から土井利忠の偉業はここ越前大野城で伝えられているんだなと感じます。

休憩所を出て斜面を登ると石垣が現れました。

 遊具があるこの場所は「武具蔵跡(ぶぐくらあと)」です。この場所は本丸のすぐ下です。戦国時代だと、ここが本丸防衛の最終拠点になるのですが、そこは平和が長く続いた江戸時代。麓に二ノ丸・三ノ丸があるので、平時には山の上で扱いにくいこの場所は居住空間や防衛空間ではなく、武器の保管庫として役立ててたのでしょう。

いよいよ本丸に入ります。こちらのの門は模擬の薬医門です。ですが雰囲気もありますね。麓の二ノ丸の鳩門は光明寺に、不明門は真乗寺にそれぞれ移築されている。

武具蔵からは本丸がトイレに隠れて見られません。やはり「結ステーション」から登ればよかった…。

天守は1968(昭和43)年に造られた模擬天守です。石垣は江戸時代のものです。

越前大野城の入城料は大人1名300円です。

 越前大野城の最寄りは、電車ならJR越美北線の「越前大野駅」から徒歩で30分ほど。私は中部横断自動車道で行きました。「大野IC」から車で7分です。写真の遠くに最近開通した中部横断自動車道の福井県区間も写っています。中部縦貫自動車道は福井北JCTから大野ICまでは2017(平成29)に開通しました。さらに先の道路が2026(令和8)年までに開通し、東海北陸自動車道につながる予定で、大野市の交通の便もよくなる見通しです。

 模擬天守内は資料が展示されていますが、写真撮影禁止なので、最上階からの遠景の写真を。この最上階には「天空の城 越前大野城」という文字が貼られていますが、結構高さがあるなかでこの文字見えるんでしょうか?それともドローン用なのでしょうか。

 越前大野城はの築城者は金森長近です。1575(天正3)年に織田信長の命で金森長近と原政茂が大野郡の一向一揆を収束させました。その恩賞として、 大野郡の3分の2を長近に、3分の1を政茂に与えました。そして1576(天正4) 年に金森長近は大野盆地の中心にある亀山に平山城の城郭を造り、城下の防御施設とともに、商工業の発展も考えて麓に短冊状の城下町をつくりました。

その区割りが現在も受け継がれて、大野市の町は平安京のように短冊形になっているようです。

 越前大野城は「天空の城」という言葉をよく目にします。「天空の城」と言えば兵庫県にある「竹田城」が有名です。この「越前大野城」も標高249mとかなりの高さをほこり、隣の犬山城から雲がかかって天空の城に見えることから、そのように言われるようです。

私が訪れた日は、雲がなく「天空の城」になりませんでしたが、受付の売店で、「天空の城になっている越前大野城のプラモデル」が展示されていました。このような幻想的な写真が撮れると絵になりますね。

 さらに売店で「大野市限定商品 奥越前の水」が300円で売っていました。限定に弱い私はすぐに購入。でもなんで「水が特産」?と思っていたら、大野市のパンフレットに書いてありました。

「周囲を1000m級の山々に囲まれた大野盆地は、地下が水瓶のような地形で、山に降った雨や雪が地下に浸み込み、その水が市内に湧き出します。この大自然によって育まれてきた地下水が古くからこの地の文化を育ててきました。」

越前大野城の受付横にあるこの模型は二ノ丸御殿です。

 この説明文をみると、近世の平山城は山頂の本丸に藩主の居館を建てられず、麓に二ノ丸・三ノ丸が造られ居館となる御殿が建てられることが多いという。江戸時代になると、山頂の天守は施錠され入ることもほとんどなかったと言います。だから休憩所のところの曲輪に建物なども建てなかったのでしょう。

 さて、越前大野城を後にするが、受付で頂いた「越前おおのまち歩きマップ」で気になった「義景公園」へ行く。

ここは越前大野城から車で5分ほどのところにある。この場所は1573(天正元)年に織田信長との戦いに敗れた朝倉義景が自害した場所である。

 華やかな一乗谷の町からこの奥越前で朝倉義景が死去してここに墓所がある理由は何だろうか。

 織田信長との戦いで劣勢に立たされた義景に対し、従弟である朝倉景鏡が自分の故郷である大野に逃れて再起を図るように促したという。そこで大野郡の六坊賢松寺に逃れたところ、織田軍に通じた朝倉景鏡の襲撃に合い自害したという。一乗谷という都心から奥越前に逃れて自害することは誠に無念であったことだと想像に難くない。

この「義景公園」には「ふくいのおいしい水」に指定された「義景清水」がある。

ここで飲料用水として水をくめる。先ほど越前大野城で購入した水は、本日の気温が37℃であったことからすでに飲み干していた。ちょうどそれに水を入れてのんだ。「奥越前の水」とは違った味がした。やはり名水というのは場所によってちゃんと味が変わる。

さて、大野市の見どころはここで終わりなのだが、ぜひ紹介した場所がもう1つ。

大野市から車で40分強の池田町にある「かずら橋」。池田町は町の9割が森に囲まれている人口2300人(2023年現在)の町。この町は小学校に子どもを入学させると「マイ机」がもらえ卒業と同時に家庭の持ち帰ることができる。またアドベンチャーパークもあり、自然を生活にも観光にも生かしている町。

そこにある「かずら橋」は全長44m、高さ12mの天然のツルでできた吊橋。2007(平成19)年に四国旅行に行った際、時間の関係で行けなかった徳島県三好市にある「祖谷のかずら橋」。ここは平家落人が住んだという伝承がある。それと同じような「かずら橋」があってしかも福井市からも車で40分くらいの距離なので、ここは行こうと決めていた。

通行料は大人1名300円。一度払うとその日は何度でも通行可能だとか。この橋結構揺れる。そして板と板の間が結構広いところがある。足の横幅より広いすき間がある場所もあるので、足が突き抜けることはある。だが体が貫通してしまうことはないので安全上の心配はない。むしろ心配だったのは、デジカメやスマホを落とす可能性。せっかくこの福井旅行で得た写真を落とすことはできない。皆様も落とし物には注意です。橋を渡ったら気分は、平家落人でした。


丸岡城訪問記

2023-08-13 07:45:40 | 歴史

今回は、福井県坂井市にある丸山城訪問記をお伝えします。1575(天正3)年に織田信長が一向一揆を平定するために城を築かせることにした。その命を受けた柴田勝家の養子である勝豊は最初豊原に築城したが、1576(天正4)年に丸岡の地に移して築城した平山城がこの丸岡城です。

丸岡城の近くは図書館やふれあい広場などもあります。毎年10月には「丸岡古城まつり」が開催され、メインイベントの時代行列「五万石パレード」では鎧兜姿の武将が人形山車や子ども奴など総勢400人を従え練り歩くそうです。模擬店などもたくさん出店されるそうで、地元に親しまれている場所だということがわかります。

 丸岡城の天守閣は1934(昭和9)に国宝に指定されました。しかし、1948年(昭和23)年の福井大地震により天守閣が倒壊して国宝ではなくなってしまいます。そこで国の重要文化財に指定されたことから元の材料を生かして1950(昭和30)年に修復し再建されました。丸岡城は「北陸唯一の現存天守」と言われるが、国宝再指定に向けて再建されたことがネックになっていました。しかし、現在でも7割の部材が江戸時代の物が使われていることが調査で明らかになりほぼ往事の姿を留めていることが「北陸唯一の現存天守」と言われる所以で、地元民も「丸岡城天守を国宝に!」なることを切に願っている。

 ちなみに、このお土産物屋さん。「一筆啓上茶屋」と言われる。その名前の由来は「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という本多重次が陣中から妻に宛てた手紙にちなんでいる。それが故に「日本一短い手紙の館」という資料館も併設している。

丸岡城は入場料は大人1名450円。丸岡歴史民俗資料館の料金も共通です。

入場券がちょっと凝っていると思っていたら、坂井市丸岡町は織ネームや織テープなどの細幅織物の産地で、全国の7割を生産しているのだそう。タグやワッペンなど幅広く使われるだけに、このような入場券になったようです。入場券から興味を持たせるというのは面白い趣向だなと思いました。

受付の後ろはこのような広場になっています。

受付近くにある展示を見ると、この場所はもう本丸の1部だったことがわかります。

この受付の展示では丸岡城のポイントを学ぶことができるので、先に見ておくことをお勧めします。

このイメージ絵を見ると、受付の場所は埋門(うずみもん)と不明門(あかずのもん)の間の曲輪にあたります。駐車場は東の丸です。丸岡城を有する丸岡藩は5万石とそれほど多くないので城の規模も中規模である。しかし、18世紀初頭に藩主有馬氏は外様から譜代に格上げされ、老中も輩出する家柄であった。

さて、そろそろ天守閣へ向かいましょう。

天守への階段は非常に急で手すりもありません。登城の際は気をつけてください。

天守閣の屋根にある鯱。現在は木彫銅板張りのものが乗っていますが、1940(昭和15)年の修理の際は日中戦争中であり物資の銅が足りず石で屋根上の鯱が造られたそう。その鯱がここに展示されている。

では入場します。

復興天守や模擬天守ではなく現存天守なので、長野県の松本城のような急な階段です。防御施設だけに全然バリアフリーではありません。

本多重次と成重親子のイメージ図があるのは、1613(慶長16)年に本多成重がこの地に4万石を与えられたからです。丸岡城の城主は柴田豊勝(関ヶ原西軍に与したため没収)以降、今村氏(流罪)→本多氏(改易)→有馬氏と続いて版籍奉還・廃藩置県を迎えた。

 模型でみると中規模の丸岡城で、二ノ丸の御殿がかなり巨大であることがわかります。さらに城の内堀が全国的にも珍しい五角形の形をしている。天守の最上階からはこの特徴的な五角形の内堀が一望できそれは素晴らしい眺めであったと思われます。老中も輩出している藩だけに格式にこだわったのでしょうか。

丸岡城天守閣の最上階から西をみる景色です。遠くに連続高架橋が見えます。北陸自動車道は城の東側なので、あの連続高架橋は開通前の北陸新幹線です。2023(令和6)年春に北陸新幹線の金沢-敦賀間が開業しますが、もうほとんどできあがっていますね。

次に丸岡歴史民俗資料館に行きます。入場料で入れます。

この丸岡歴史民俗資料館の辺りは城の裏門だったようです。できればこの堀も再現してくれると城としての見栄えが格段にあがるのですが、もうすでに周辺が図書館などで開発されているので難しいですね。また、資料館の奥にある空き地にはこんな計画があるようです。

坂井市は2006(平成18)年に坂井町・春江町・丸岡町・三国町が合併してできた市です。ここに丸岡観光センターを作って旧丸岡町の観光掘り起こしを狙っているのでしょう。中世史にはあまり関係はありませんが坂井市と言えばここも有名な観光スポットです。

「東尋坊」です。この巨大な岩は、火山のマグマが冷えて固まってできた巨大な柱状の岩です。

私の世代だとサスペンスのエンディングで使われる場所のイメージで、船越英一郎と片平なぎさが登場しそうです。

その世代でなくても、この巨大な岩には圧倒されます。ぜひ坂井市や丸岡城に行った際には立ち寄って欲しい場所です。


朝倉氏一乗谷遺跡~西山光照寺・下城戸~

2023-08-12 19:51:35 | 歴史

一乗谷の町の外にある「西山光照寺」を訪れます。

 この寺院の台座が石垣でしっかりと作られている。おそらく発掘調査を基に石垣を復元したのだろう。道路の横にある白いアスファルトは中世当時の通路が発見された場所のようだ。

 西山光照寺はこの時代隆盛を極めた天台宗真盛派の大寺院だった。この寺院は朝倉一族の争いに敗れた鳥羽将景(朝倉孝景の叔父)の菩提を弔うために建てられ、盛舜上人によって再興されたと伝えられる。境内だった場所に至るところには大きな石組みの水路もあり、写真の場所はかなり大規模な山門があったと思われ、寺がかなりの規模であったことが物語られる。そしてこの写真の背後には、40体の大きな石仏が向かい合っている。

石仏の前は大きな池であったようだ。一乗谷史跡には石仏が多く存在する。故人の供養のために造られたと考えられ、戒名や生没年月日が記されたものも多くあると言う。一乗谷は町の外まで施設があり、かなり平和的に発展していたと考えられる。

 

次に、一乗谷の町の北出入口である下城戸。

下記写真は「下城戸」といって、一乗谷の町に入る門である。

 中世史跡は近世の城下町と違い戦乱の世のため防戦意識が高い。そこで、メインストリートも曲がっていたり、このように門の存在もある。その門の外に博物館の遺構展示室にあった石敷遺構があり、おそらく川湊として使われたものだとしている。外部から入ってくる人を直接一乗谷の町に入れない工夫なのだろう。

下城戸から少し南に入ったところ。現在の道路の下に往事の通路の遺構が見て取れる。ここにも側溝が見え、下城戸からすぐ近くの町の外れではあるが、しっかりと町が整備されていたことがうかがわれる。

町割りもしっかりとされているようで、一乗谷の発展振りがここでもうかがわれる。

この建物からは甕の跡が大量に発掘されている。これは町家群のような紺屋なのか、それとも食料倉庫だったのだろうか。

すこしずつ南に向かいます。

石組みの壁に側溝をまたぐ石段。これは誰かの屋敷なのだろうか。

かなり大きい石が使われているし、規模が大きい。ここはなにがあったのだろうか…と思うとちゃんと説明する看板があった。

この地区からは、複数の墓地跡や五輪塔があったことから寺院であったと推測された。しかも字(あざ)という住所が「雲正寺(うんしょうじ)」という名前であったことから、墓地跡から広がる雲正寺という寺院があったと想定されたと言う。何も文書がなくてもここまでわかるのだから、発掘調査に加えて、地元の伝承だとか地名って大事なんだと改めて認識した。

 では次に復元街並みの北側出入口に向かいましょう。


朝倉氏一乗谷史跡~義景館(2023)~

2023-08-12 19:13:45 | 鉄道

一乗谷史跡で最大規模の館。それが朝倉氏5代当主・義景の館である。


 土塁や濠を含めた敷地面積は10,628m2にも及ぶという。この館の外濠から荷札と思われる木簡が発見され、そのために義景館だとわかったのである。この上の写真は館背後にある山から撮影したものであるが、ここからでも義景館の広大さがよくわかる。写真の左下にあるガラス板は、館内の花壇や池庭を間近で見るための設備である。


 別稿で諏訪館庭園を紹介したが、この義景館にも東側山裾に庭園が発掘されている。庭園は大内氏館、大友氏館、朽木氏館、京極氏館、江間氏館などでも発見されているが、朝倉氏の庭園は素人目にもわかりやすいほど、文化水準の高さを感じる庭園になっている。発掘調査の成果とも言えるが、やはり100年もの安定した朝倉氏の治世が安定していたことによるだろう。

この池庭を再現したのが、博物館のこちらの写真である。こう見ると間近に屋敷があり、そこから眺める景色であったことがよくわかる。


池庭の上には水路がつながっていた。池庭には常に水が張ってあったのだろう。その導線も含めてかなり考えられた館である。



 次に館の中庭にある上記写真の草陰。これは庭園跡にある花壇跡。現存する日本唯一で最古のものであるらしい。

この花壇を再現したのが、博物館のこちらの写真である。写真は会所の縁側から撮ったものである。会所の来客が必ず見る眺め。朝倉氏が豊かな生活をしていたことだけでなく、客人をもてなす心もあった。そして、客人に文化水準の差を見せつけることにもなったと想定できる。

 館跡には2008(平成20)年にはなかった義景公墓所があった。この礼拝堂は2012(平成24)年に作られたそうだ。博物館の新設もそうだが、地道な発掘調査が研究推進を産み、ここまで中世遺跡を地元で盛り上げる結果となったことが本当に頭が下がる思いだ。


 敷地全体は広いが、建物は少し東方向に偏っている。これは、徐々に改築・増築されたものではないか(特に足利義昭下向時)といわれる。主殿・会所・台所・厩などなど、これが大名屋敷の規模なのだと考えると、能登畠山氏の七尾城の居館にもこのようなものがあったのだろう…と想像するだけでも楽しい。

 戦国大名の屋敷がこれほど詳しく発掘された例はないのではなかろうか。しかし、平面展示だけではなかなかイメージできない。そこで、一乗谷朝倉遺跡博物館に模型と一部復元がある。

 そういえば、この義景館は2007(平成19)年のNHK大河ドラマ「山本勘介」で使われた武田信玄の館のセットのつくりと似ている(山梨県北杜市にある風林火山館)。きっと参考にしたんだろうなぁ。この模型をみると、建物の密集度はかなりあるが、勝沼氏館のように「ハレ」(もてなしの空間)と「ケ」(生活の空間)の空間に分かれていることがわかる。



 義景の館の門は、当時のものを復元したものではない。松雲院の山門が移築されているといい、現在のものは江戸時代中頃に建てかえられたものだ。よく見ると、土塁と同じ高さであるし、門も大名屋敷にしては間口が狭い。平面復元もいいが、この義景館は復元されないのだろうか。大名屋敷をこの目で体感したいものだ。


倉氏一乗谷史跡-町並み復元~諏訪舘庭園(2023)-

2023-08-12 17:13:40 | 鉄道

復元街並みの町家群を抜けると、武家屋敷遺構があった。

 この武家屋敷はかなりの広さなので、ここも上級武家屋敷のようである。ここは大きな主殿の遺構が見つかっているので平面展示されている。ぜひ遺構が見つかった屋敷を復元展示して体感できるようにしてほしい。


 町並み復元の最後には、医療機関とみられる医者宅跡があった。この跡では調剤器具や調剤した薬品の跡がみつかった。この医者は相当もうかったのであろうか。かなり宅も広かった。他の史跡でも中国の元の時代である『湯液本草』の写本が発見されるなど、医薬の知識も高い水準であったことが推測される。平和で大規模な一乗谷の町だからこそ、発展したといえよう。

ここで有料の復元街並みは終わり。南側の出入口です。


チケットを持っていればその日は再入場無料。再び戻ってもう一度復元街並みを楽しんでも良いし、川を渡って反対側の景色を堪能するのも良いでしょう。

 出口には、定番のみやげ物屋&食べ物屋もあります。2008(平成20)年に行った時は、武藤様と一緒に昼食で「越前朝倉そば」を食べる。武藤様曰く「やはりここは戦国そばでなければ!」。福井は「おろしそば」が名物でおいしく頂いた。お土産に朝倉戦国大名饅頭も購入した。

 さて、次は川を渡って、まずは一乗谷の町の南口の上城戸へ行く。

上城戸は城の南口の出入口である。後ろに見えるのは一乗谷小学校の5・6年生が、総合の時間に郷土学習の一環として「これを読めば朝倉氏遺跡博士に!?」という冊子を作ってたようで博物館に置いてありました。

上記の地図を見ると、上城戸の両脇の山が迫っている。この上城戸の長さは105mあったそうで、自然の力を利用した城門であり一乗谷の町の南側の防御を図ったそうだ。

 上城戸の土塁から北側を見た写真である。遠くに復元街並みの南側出入口が見える。現在はただの平坦地が広がっているが、発掘調査でこのあたりに町屋跡や道路跡が見つかり、上城戸のすぐ近くまで町が発展していたようだ。

一乗谷川を渡り反対側の諏訪館庭園を目指す。


 この川は今はさほど水量が無いように見えるが、往事は船が行き来できるだけの水量があったようだ。一乗谷の北口には川湊もあり、きっと町内の交通(物資運搬)としても使用されていたと思う。

 2008(平成20)年当時には諏訪館庭園跡の隣ではなにやらブルーのシートがあり発掘調査中のようだ。一乗谷史跡の発掘調査が始まったのが1967(昭和42)年からだが、復元史跡が完成するなど一応の成果をみせた現在でも発掘調査を行っているのが、今での研究が盛んになっている理由なのであろう。

 七尾城跡も2020(令和2)年から発掘調査を行っている。地道な調査がさらなる研究を発展させることは間違いない。さて、こちらの遺構はなにやら側溝のような石組みの跡が。ここにはどんな館が建っていたのだろう。


 諏訪館庭園跡。ここは、朝倉氏5代当主・義景の夫人の小少将のために作った館であると言われる。この一乗谷史跡の中で一番大きい庭園だ。1967(昭和42)年に復元整備されて、1991(平成3)年に導水路が整備されて水の流れる往時の景観が再現たという。朽木庭園もよかったが、これはまた規模大きく違うし、落差も大きく滝を表現したと考えられる水が落ちる風景がすばらしい。心なごむ。庭園跡もただ発掘するだけでなく、水の流れを復元して再現するという方法もあるなあと納得。近江京極氏の庭園である上平寺庭園もこのように復元すればいいのに…と思ったりする。
 それにしても、この一乗谷史跡を訪れて改めて室町・戦国時代における庭園造営について考えさせられた。それまでは、庭園=高い文化水準+高い経済力ということくらいにしか考えなかったが、実際の庭園跡に接し、この庭園はなんのために作られたのか、それが重要なのではないかと考えるようになった。例え庭園主が趣味で作ったとしても、多くの人にその庭園を見てもらいたいと考えるのが普通である。ならば、その庭園には多数の来客があったことが推測される。庭園だけ独立して存在するというのはありえないので、庭園の周辺の館には建物が存在し、その建物から見られることを意識して作庭が行われる。ということは客人はその建物のどこから入って来たのか、間取りを考えても楽しい。復元史跡や庭園跡を訪れるとまるで、戦国時代の人の息遣いが聞こえてくるかのような迫力がある。ここでもまた現地調査(フィールドワーク)の大切さを感じたのである。
 さて、次は越前朝倉氏一乗谷史跡のメインとなる場所。朝倉氏館に行く。