ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

扇の話(その20) ~どの鬘扇? なぜ修羅扇?<9>

2008-03-15 02:34:39 | 能楽
再び扇の話題にもどして。。

今度は修羅扇についてです。前述しましたように「修羅扇」には修羅扇と言えば2種類があって、ひとつは俗に「勝修羅扇」と呼ばれる松に旭日図の扇で、『屋島』『田村』などの「勝ち修羅能」に用い、一方の「負修羅扇」、すなわち波濤入日図の扇は源平合戦で敗者となった平家の公達などの役が持ちます。

「勝修羅扇」は『屋島』『田村』そして『箙』の三番にしか使わないと思いますが、問題は「負修羅扇」。これは はなはだ用途が広い扇です。修羅能のほとんどを占める平家の公達、つまり「負け組」の役が使う扇だから「入り日」の図で、この図が持つイメージから、平家と同じく滅ぼされる運命を持った役に流用されているのですが、どうもその役が使うのが本当にふさわしいのか、首を傾げてしまうような例もあるのです。

修羅能以外で修羅扇を使う曲。。それは最後には滅ぼされてしまう、怪物のような役が後シテである曲で、その後シテが持つのです。

なるほど、負修羅扇が似合う曲もあります。『殺生石』や『鵺』はシテが運命的に破滅を背負っている。これならば修羅扇も合うでしょう。しかし『鵜飼』や『昭君』『錦木』『船橋』となると。。どうかなあ。。『鵜飼』の後シテは謡本では「閻魔王」とされていますが、実際には「獄卒」の一介の鬼というべきでしょう。しかしこの役は化け物ではなくて、冥界で亡者の生前の善業悪業を裁く閻魔王に仕えて、悪業を働いた者に罰を与える官吏。その役に負修羅扇はちょっと似合わないのではないか、とも思います。

それでもまあ『鵜飼』では後シテが「金紙を汚す事もなく」と修羅扇を自分の前に立てて見る型があります。ここだけは修羅扇が似合いますね。このあたりの詞章「されば鉄札数を尽くし、金紙を汚す事もなく」とは、人間が生きている間に行った行為はすべて閻魔庁に記録されていて、悪業は鉄の札に書かれ、善行は金の紙に記される、という言い伝えのことで、すなわち彼が言っているのは「鵜飼という殺生を生業とするこの者の記録は、鉄札に記した悪業は限りなく、善行を書くべき金紙には一行の墨の跡さえない」と、前シテの生前の行いを責めているわけです。

しかしこの鬼は、亡者が生前になした ただ一つの善行~僧に一夜の宿を貸したこと~も ちゃあんと見ていて、その利益で亡者を極楽に送る、と宣言するために登場するのです。だから公平な彼はある意味で善神の一種と考えるべきでしょう。そこに修羅扇は似合わない、と ぬえは考えるわけですが、一方 「金紙を汚す事もなく」と扇を立てて見るこの型のとき、修羅扇は「利く」のですよね~。このとき扇は閉じたままなのですが、そうすると負修羅扇は金色の地紙が、中に描かれた文様よりもはるかに目立つのです。まるで金無地の扇に近い印象さえ受ける。。まさに「金紙」をこの場に持ってきて、それを確認しながら亡者の生前の行いを言い立てているよう。説得力がビジュアル面からも補強されて、あの小ベシ見の真摯な表情と相俟って、独特の効果をあげていると思います。

あるいは『鵜飼』は、この型のためにわざわざ修羅扇が選ばれているのかも知れませんね。。これは ぬえの推測に過ぎませぬが。