ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

扇の話(その21) ~どの鬘扇? なぜ修羅扇?<10>

2008-03-16 08:46:40 | 能楽
『鵜飼』はこのように、修羅扇を持つことにも一種の演出上の利点があるのですが、さきほど例に挙げた『昭君』『錦木』『船橋』となると。。これはどうにも似合わない、と ぬえは思っています。ことに『錦木』は修羅扇で「黄鐘早舞」を舞うことになるのですから。。

もちろん修羅扇で舞を舞う曲には『敦盛』『生田敦盛』がありますが、『錦木』はこの二曲とはまったく性質を異にしています。ご存じ『敦盛』でシテが舞う「中之舞」は、一ノ谷の戦陣で決戦の前夜に一門があい集って今様・朗詠に興じた、あまりに悲しい酒宴の再現の場面です。また『生田敦盛』の「中之舞」は自分の遺児と再会した敦盛の霊が、平家の末路の物語を我が子に語ったあと、再会を喜んで見せる舞。

一方、恋に焦がれて三年の間、女の家の門に錦木を立てて愛の証としたが、その思いを遂げられずに命を落とした男。錦木とともに埋められて「錦塚」の主となった男の亡霊が、僧の回向によって成仏するのみか、なんと会うのを拒否していたその女との邂逅さえ成し遂げる、という不思議な物語の『錦木』。「黄鐘早舞」はその喜びに舞われる舞です。

う~ん、『生田敦盛』は愛する者に会えた喜びが舞という形になった、と考えられるから、舞の意味は『錦木』と同じような性質であると言えなくはないのかも知れませんが、やっぱり『生田敦盛』はその舞の前に栄華を誇った一門が全滅に向かっていく壮大で悲惨な物語がシテによって語られている。ここが『錦木』との大きな違いです。要するに『敦盛』『生田敦盛』は、まずシテが「平敦盛」である事がとっても重要で、彼は平家という悲劇の一族の没落のひとつの象徴と、誰もが無意識に捉えるのだと思います。負修羅扇の波濤に入り日図は、まさに敦盛個人というよりは、彼がその背後に背負っている平家の悲劇の象徴でしょう。

結局、運命的に滅亡することが定められている、そういう存在に負修羅扇は似合うのではないかと思います。そういう印象がこの扇には色濃く投影されている。だから個人的な問題を扱って、その中にテーマが収まってしまうような『錦木』や『船橋』『昭君』に負修羅扇を使うことに ぬえは違和感を感じるのかもしれません。

こう考えてみると『錦木』『昭君』『船橋』の三曲のシテは、ともに男性で、しかも もとは人間であったのが、恨みなど何らかの思い残す事があって亡霊としてこの世に舞い戻った、という共通点があります。こういう曲は もちろんほかにもあって、たとえば『通小町』などが好例でしょう。しかし『通小町』のような静かな印象の曲では、やはり、というか装束附けを見ても修羅扇を使う選択肢ははじめからないようですね。すなわち上記の三曲はシテの性格のほかに「激しい所作が見どころの曲」という特徴があるわけで、このへんが負修羅能や『殺生石』『鵺』という一連の曲以外の能で負修羅扇が使われる要件だと考えることができるでしょう。

つまり。。そういう能に似合う、専用の扇というものが、能にはないのです。

実際の話、面がこれほど膨大な種類を持ち、装束もその配色や文様に心を配れるほど多岐に渡って作られていると思うのに、扇は意外なほど図柄のバリエーション少ないな、と ぬえは実感として思います。装束の場合にしたって、種類自体はそれほど多いわけではないのに色や文様が非常によく練られていて、その曲にふさわしい装束やその曲専用の装束もあるのに、それに比べれば扇は非常に選択肢が限られていて、上記のような、ちょっと そぐわないような流用が普通に行われている、というのが実情だと思います。

そういえば以前、ぬえの他門の友人が『船橋』を勤めたときに、やはり負修羅扇に違和感を持って、彼は金地に雷紋かなにかの図の扇を新調していました。えらいことに彼、終演後に その扇は彼のお師匠さんの家に寄贈したんだそう。なるほど、『船橋』は遠い曲だから自分ではもう一度勤める機会が来るかどうかわからないし、次にこの曲が上演されるときにシテを勤める同門のために、誰でも使えるようにしてあげた、というわけですね。これまた見識というべきでしょう。