ぬえの能楽通信blog

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『敦盛』~若き世阿弥の姿(その15)

2010-03-14 02:34:09 | 能楽
『敦盛』~若き世阿弥の姿(その15)

ワキ「これに付けても弔ひの。これに付けても弔ひの。法事をなして夜もすがら。念仏申し敦盛の。菩提をなほも弔はん 菩提をなほも弔はん

この「待謡」の終わりに笛が再び「ヒシギ」を吹き、これよりノリの良い登場音楽である「一声」が奏され、そうして いよいよ後シテが登場します。

後シテ「淡路潟かよふ千鳥の声聞けば。寝覚めも須磨の。関守は誰そ。如何に蓮生。敦盛こそ参りて候へ。


淡路潟に通う千鳥の声で浅い眠りが覚めてしまう…そんな関守の番人のように須磨に夜を明かしているのは何者だ。…金葉集の歌を下敷きにした非常に詩的な表現で、直実がいまだ逗留しているのを確かめる敦盛の霊。

このところ、節付けもとっても落ち着いていて、ちょっと若い敦盛には似合わない感じもするのですが、そこを若々しく聞こえるように謡うのが演者に要求される技量というものでしょうね。そうして敦盛は本性を現し、直実に対して名乗ります。

この名宣リも、果たしてどうやって謡うべきなのか…彼は怒っているのか、復讐のために現れたのか、それとも別の意味なのか… 稽古を積んでいくうちに、ぬえはこの曲のシテは意外に広い解釈を許す曲なのだな、と感じ始めました。

ワキ「不思議やな鳧鐘を鳴らし法事を勧め。まどろむ隙もなき内に。敦盛の来り給ふぞや。これは夢にてあるやらん。
シテ「何しに夢にてあるべきぞ。現の因果を晴らさん為に。これまで現れ来りたり。
ワキ「一念弥陀仏即滅無量の。罪障を晴らす称名の。法事を絶やさず弔ふ功力に。何の因果は荒磯海の。
シテ「深き罪をも弔ひ浮め。
ワキ「身は成仏の得脱の縁。
シテ「これまた他生の功力なれば。
ワキ「日頃は敵。シテ「今はまた。ワキ「まことに法の。シテ「友なりけり。


ここで敦盛は直実の前に現れた理由を語りますが、それがまた抽象的。「現の因果を晴らす」とはどういう意味なのでしょう? 小学館の『全集』に所収の現代語訳では「現世の罪によって死後に報いを受けているのを晴らそうがために」という解釈ですね。これまた不分明な現代語訳ではありますが、おそらく「現世で殺生戒を破ったために死後に畜生道に墜ちて苦しんでいるのを、僧となった蓮生の回向によって助かることを期待して」という意味で思います。

でもまた、単純に「現世であなたに討ち取られた」その怨みを晴らし、直実に復讐するために現れたとも考えられます。「因果」を法語ではなく俗語として使って作詞されたのかも。まったく考えられないことではありません。

このように、享受者それぞれによっていろいろな解釈を許す能なのかもしれません。