ゴールデンウィークもいよいよ終わりですね~。基本的にお客さんが集まりにくくて催しが少ないこの時期、能楽師はヒマなことが多いですが…ぬえも確かに催しはなかったこの1週間でしたが、稽古に出たり、結婚式に出演したり、間近に近づいている催しの地謡を覚えたり、その合間に溜まった事務仕事をこなしたり…と、なんだか普段よりも忙しかったです。
今日の話題は、そんなゴールデンウィークに入る前…で申し訳ないのですが、先日伊豆に行った際にちょっと足を延ばした「河津七滝」についてです。
ぬえ、こう見えても伊豆には10年以上通っているのですが、その行き先は長岡の周辺に限られていまして、その先となると、なんと修善寺にさえ行ったことがありませんで…いや、かつては能舞台を持つ修善寺の旅館での催しなどで修善寺という町を知らないわけでもないですが、催しのために訪れるとなると実際上は舞台にしか行かないわけで…
で、今回は稽古までの時間があったので、ずっと行ってみたかった「河津七滝」に行って来ました。「七滝」と書いて「ななだる」と読むのが特徴的ですが、いや、実際に行ってみるとなかなか見応えのある滝でした。
タイトル画像は七つある滝の一つ、初景滝(しょけいだる)という滝です。『伊豆の踊子』の像が建てられていて、観光名所として完璧な構図ですね~。ん~、『伊豆の踊子』には ぬえ、ヨワイなあ。
じつは ぬえ、学生時代は国文学を専攻していまして、卒論は「川端康成と大正モダニズム」というものでした。意外でしょう? 古典文学ももちろん好きだったし、ぬえが能を学生時代に初めて見たきっかけも『平家物語』だったのですが。じつは大学1年から卒業までずっと「近代文学研究会」に籍を置いておりました。当時の先生とは今でも交流がありますし、図書館の使い方や論文の探し方を身につけたのは大学時代の大きな収穫でしたね~。もっとも「枕草子研究会」にも「準会員」のような格好で時折参加していまして、こちらでは主に変体仮名の読解を学びました。これもその後とっても役に立っています!
そんなわけで川端康成にはちょっとヨワイ ぬえなのでありました。川端康成の代表作の一つの『古都』は京都の美しい情緒と人を描いた小説ですけれども、それが短編の『片腕』と同時進行で書かれていたことを知ったとき…その衝撃は忘れられません。あのへんからかなあ、人間の奥深さについて強く興味を持ったのは。
ちと脱線しましたが、これが河津七滝のうち最大の「大滝」です。この滝は上流に遊歩道があって、滝壺に向かって流れ落ちてゆく水を上から眺めることもできます。近くには有名な「河津ループ橋」もあって、見どころは尽きませんね。この日は朝早くに行ったので、観光客もほとんど まばら。静かに見て廻ることができました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/b3/8e52f517f1cd76f01d6acb977b8bdb6e.jpg)
さて能のお話も少し。この河津という場所、能の『小袖曽我』や『夜討曽我』と縁の深い場所なのです。要するに能というよりその本説たる『曽我物語』の舞台なのですね。『曽我物語』は、十郎祐成・五郎時致の曽我兄弟が父の敵である工藤祐経を頼朝主催の有名な富士の巻狩りの折に討ち果たす、という物語で、近世に赤穂浪士の仇討ち、いわゆる「忠臣蔵」の事件が起きるまで、仇討ちといえばこの『曽我物語』の方が人口に膾炙していたのではないかと思います。そんな影響下で能の中にも「曽我物」と呼ばれる一連の能が作られ、曾我兄弟はシテやツレとなっているわけですが、じつは兄弟が名乗る曽我という姓は、夫を殺されて幼い兄弟(幼名を一萬、箱王といった)を抱えた母が再婚した先の姓なのですね。殺された父は河津三郎祐重で、当地の出身であったそうです。今となっては『曽我物語』のあらすじも ほとんど知られていないでしょうから、謡のお稽古をしてる方も初めて『小袖曽我』の詞章を見ると ちんぷんかんぷんだったりするらしいですね~
ちなみに五郎の名「時致」は烏帽子親である北条時政から一字を頂いたもの。また、能『小袖曽我』で晴れて敵討ちに出かける兄弟が母の前で相舞を披露しますが、原作では十郎が笛を吹き、五郎が一人で舞っています。
こうして中伊豆の山の中を進んでいくと、ついには海に出ます。ここは東伊豆にあたりますが、だいぶ下田に寄ったところで、今井浜というあたり。南に進むと、なぜかそこだけ白砂の美しい海岸があって有名な白浜がありますが、このあたりは夏には渋滞で大変~。それを過ぎると下田、そして伊豆半島の最南端には絶景で知られる石廊崎があります。