ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

「狩野川薪能」の稽古(その6)

2006-07-07 23:32:13 | 能楽
伊豆の国市に到着しましたー。

明日が「狩野川薪能」の本番で、今日は子どもたちに最後の稽古をするために、前日から当地に入ったのでした。ふむ。先日東京で緊張しながら『船弁慶』の申合を終えた子方も、今日は明るく稽古に来ましたし、子方の演技もよく出来ていた。これで明日は安心でしょう。また仕舞を勤める中学生たちも、今まで出来ていなかったところもよく克服して、これまた今までで最もよく出来た稽古となりました。ましてや、その中の何人かは「間違っちゃった。。」と無念そうにしていた。そりゃ、細かい点を挙げればそれぞれ間違いが全くない訳ではないのですが、ぬえはまた完璧を求めているつもりもなくて、全体として仕舞に対しての理解とか、興味があればよいのです。もちろん催しの当日だけは舞台人であってほしいから、そういう心構えのようなものが出来上がるように仕向けて来ました。それらはいずれも結実を見たと思います。「間違っちゃった」というのも、ようやく自分の演技に意識がハッキリと向いてきた証左と考えれば喜ぶべき発言でしょう。

そして<子ども創作能>『江間の小四郎』。もうすでに ぬえは完成度に安心しきっているこの曲では、ぬえは今日は観客に徹して、地謡の助吟さえしなかった。小学生の立ち方と、中学生が主導する地謡。もう、笑っちゃうぐらい良くできていて、安心して見ていました。。と思ったら ぬえは後見の仕事としてお役の子が腰掛ける床几を出すことも、曲の終盤でお役の子に扇を渡すのさえ忘れちゃったい。 。。そしたら、『船弁慶』の子方の子が、普段『江間の小四郎』の稽古も見ていたのでしょう、ぬえの代わりに後見の仕事をしてくれていた。。小学生にフォローしてもらってどうする>ぢぶん

さて『船弁慶・前後之替』。(~~;)

地謡「主上をはじめ奉り一門の月卿雲霞のごとく波に浮かみて見えたるぞや」のところは常よりもグッと静かになり、その地謡の中で半幕にて後シテが姿を現します。幕の中にてシテは床几に掛かり、右肩に長刀をもたせかけて、非常に荘重な登場です。シテは幕内で「そもそもこれは桓武天皇九代の後胤。平の知盛 幽霊なり」とこれまた極シッカリと謡い、「あら珍しや、いかに義経」と面を切り子方を見込み、「思ひも寄らぬ浦波の」と正面を見、地謡がさらにシッカリと「声をしるべに」と謡う中で後見は半幕を下ろし、シテは幕内で長刀を右手に持ち直します。

地謡「出で船の」から突然急調になり「手掛かり早笛」でシテは幕を上げて舞台に走り出ます。常座で右足から二足に飛び出し、すぐに地謡は返シの「声をしるべに」と謡い出す。さきほどまでの静かで荘重な趣から一転して、シテは怒りに心を燃やして水上を走り出る、という演出で、常の『船弁慶』の演出(シテは早笛で登場してから常座で「そもそもこれは~」と謡い出す)と比べると、非常に劇的な舞台展開です。ぬえはこの小書のこの部分が大好き。

「潮を蹴立て」と足で波を蹴る型があったり、『前後之替』には印象的な型が多いのですが、反面、舞働は普通は『前後之替』ではナシとなります。ところが ぬえの師家では舞働は「有無両様」になっていて、そうであるならばナシにする手はあるまい。今回も舞働は舞わせて頂きます。

舞働が終わって一拍子で子方が「そのとき義経」と謡い出し、シテの長刀と太刀を合わせます。ワキがそれに割って入り、死者に対して武器はものの役に立つまい、と数珠を揉んで明王を勧請すると、たちまち怨霊は力を失います。『前後之替』では地謡はここで位を締めてシッカリ謡い、シテは力無く橋掛りへ退散します。弁慶の号令で間狂言が船を漕ぎ出すと、再びシテは長刀を構えて船に襲いかかり、義経はその眉間にひと太刀を浴びせると、シテはついに幕の中へ走り込んで消え失せます。

橋掛りに退散した後シテは、常の『船弁慶』では橋掛りで長刀を捨てて、今度は太刀を抜き持って義経に迫るのですが、『前後之替』の場合は前述のように太刀は「抜けない」真之太刀を佩いているので、最後まで長刀で戦います。ここは ぬえは得物を替えて太刀を抜く常の型も捨てがたい、と思う。

明日の薪能は雨天が予想されるために残念ながら伊豆長岡のホールに変更となりました。
それでも明日、ぬえが一年で一番好きな催しが始まります。子どもたち、がんばって。

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「狩野川薪能」の稽古(その5)

2006-07-05 23:22:01 | 能楽
昨日、東京にある ぬえの師家のお舞台にて「狩野川薪能」の『船弁慶』の申合が行われました。

この玄人能の子方は<子ども創作能>『江間の小四郎』と同じく、伊豆の国市の小学生の中から ぬえが抜擢して出演してもらっています。2月から稽古を始めて、先日の韮山高校で行われた小学生対象の「古典芸能教室」では後場だけを上演して、お客さまの前で演じる経験を積んでもらいました。そして昨日はワキ方や囃子方を招いての申合。本番さながらのリハーサルで、子方は伊豆から東京までわざわざ来てもらい、装束を着付けて出演してもらいました。ま、いろいろありましたが、まずは成功したと言えるでしょう。少なくとも ぬえは彼女(今回の義経役の子方は小学6年生の女の子)が薪能の本番で大成功を収める事を信じています。

さて『船弁慶・前後之替』の演出について。

先日、この稿で後シテの装束が変わる事を書きました。いわく常の場合の法被・半切ではなく、狩衣を衣紋着けに着て、太刀は「真ノ太刀」と呼ばれる公家太刀になるのですが、実際の演能ではさらに、この後シテを「白式」にする事があります(正確には、装束を白式にするのは「重キ前後之替」の小書のときなのですが、「前後之替」はそれに準ずる装束になる事があります)。

「白式」とは装束のすべてを白一色に統一するもので、狩衣も白、半切も白、そして中に着る着付けの厚板も白地のものを使うのです。非常に重厚で位のある出で立ちとなるのですが、その意味は一様ではないようです。白式の装束で演じられる能には ほかにも『融・白式舞働之伝』とか、有名なところでは『鷺』がありますね。また金春流などの『翁』でも時折白式で演じられるのを目にします。しかし、『鷺』や『翁』などの白式には浄衣としての出で立ちが連想されますが、『融』や『船弁慶』ではそれと同じ意味ではないでしょう。少なくとも『船弁慶』の後シテは怨霊ですし。。(^^;)

なぜ怨霊の中でも『船弁慶』の後シテに白式が用いられる事があるのか? 確証はないですが、おそらく後シテである平知盛その人に由来しているように ぬえは考えています。どうも『船弁慶』の後シテというと、長刀を振り回す恐ろしい「化け物」のように考えられてしまいますが、知盛はじつは平家の公達である事はややもすると忘れられがちなのではないでしょうか。知盛は勇猛果敢な人物で、水島合戦では大活躍して源氏軍を敗退させ、壇之浦での最期では兵船の碇を引き上げてそれを引きかづいて海に身を投じた事が『大原御幸』で語られています。また『平家物語』ではそのとき彼は「見るべき程の事をば見つ」と最期に当たって有名な言葉を残した事が語られています。それでも彼は清盛の四男(宗盛の弟で重衡の兄)で、経正や敦盛とは従兄弟にあたるのです。

小書つきの『船弁慶』で後シテが白式の装束を着る事がある事は、知盛が『融』のような殿上人の貴人であった事を強調し、お客さまにそれを再確認させているのかもしれませんね。ぬえも自分の「独立披露能」で『船弁慶』をはじめて勤めたときに、師匠からは「後シテが荒すぎる。もっと上品に演じるように」と何度も注意を受けました。

前述のように『船弁慶』で装束が白式になるのは「重キ前後之替」の時で、「前後之替」では通常は小書がない時の法被を狩衣に替えることそれ自体が大きな変化です。しかし、時により、「重キ…」に位を譲って、白一色にはしないながら、それに準ずる装束にする事があります。今回も狩衣と厚板は白地ですが、半切は紺地にする事にしました。『船弁慶』の後シテは黒頭を着ますし、この装束の色の取り合わせは「モノトーン」になるように意識しました。

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「狩野川薪能」の稽古(その4)

2006-07-04 01:27:00 | 能楽
今回の『船弁慶』は「前後之替」の小書つきでの上演です。じつは~~意外や意外、ぬえは小書がついた能のシテを勤めるのはこれが初めてなのです。小書能自体も『石橋・大獅子』のツレ・子獅子を勤めたことがあるほかは皆無で、まあ『乱』を『猩々』の小書と考えれば、これのシテを勤めさせていただいた事が唯一の例外かしらん。能のシテを勤める機会が少ないわけではないと思いますが、『羽衣・和合之舞』さえ正式な演能の催しとしては勤めた事がありません。あ、舞囃子では『松風・見留』を勤めた事があったっけ。。(/_;)

さて その「前後之替」ですが、常の場合とどこが違うかというと。。

前シテは「袖うち振るも恥ずかしや」のあとのイロエがナシになり、すぐにサシとなります。初同(最初に地謡が謡う箇所=『船弁慶』では上歌「波風も」)とクセは常より少し静かめになるのが本来ですが、現在ではあまり意識されていないように思います。もっとも、「前後之替」ではクセの中で「御身の咎のなき由を」とシテが子方に向いて打込をしながら下に居る(=座る)ので、常の通りに地謡が謡うと、型が少し苦しくなります。ぬえの師家ではクセの中で、もうひとつ違う型も伝わっているのですが、これは実見に接したことがありません。

中之舞は二段ヲロシでシテが子方を見込んでシオリをする型があり、これが「前後之替」の前シテの特徴的な型として有名ですね。ヲロシの囃子の寸法も少し変わり、笛も独特の譜を吹きます。この部分の型にも、シテが舞台にいるままで子方に向きシオリをする型や、舞の二段目で橋掛りに抜けて一之松でシオリをする型、さらにそのシオリも立ったままでする型と、下居してシオル型があります(現在ではほとんどの場合、一之松で下居てシオリ、の型で勤められるようですが)。なお初段ヲロシあとにツマミ扇をする型が時折行われる事があり、さらに ぬえが調べた限りでは、イロエ掛り中之舞で勤める事があるそうです。実見はしていないのですが、このやり方ならば、クセの前のイロエが省略される事にも意味が出てきますね。ただ『熊野』『松風』と同じ型でイロエ掛り中之舞を始めるのは『船弁慶』では ちょっと無理が出てくるようには思いますが。。中之舞のあと、さらに常とは少々型が替わって、やがて中入となります。

さて今回 ぬえが勤めさせて頂く後シテは、これは常とはかなり型が変わります。まず装束が変わって、常の場合の法被・半切ではなく、狩衣を衣紋着けに着て、太刀は「真ノ太刀」と呼ばれる公家太刀になります。この「真ノ太刀」は非常に豪華で、『雲林院』や『小塩』、また『融』に小書がついた場合に、また女性の役でも『西王母』のほか『井筒・物着』や『杜若・恋之舞』などでも使われます。もちろん『船弁慶』で使う「真之太刀」と『井筒・物着』のそれとは少し大きさや装飾が異なったものが選ばれますが。。しかし「真之太刀」の特徴は、じつは刀身を抜くことができないところにあるのです。

無論『井筒』や『融』で太刀を抜くはずもないのですが、『船弁慶』では常の場合は、後シテ平知盛ははじめは長刀を持って義経に立ち向かうのですが、途中で長刀を捨てて、太刀を抜き持って奮戦します。これは常の太刀を身につけていからこそできる型で、「前後之替」の場合は刀身が抜けない「真之太刀」を着用しているため、徹頭徹尾 長刀だけで戦います。

。。ちなみに。仕舞や舞囃子の『船弁慶』(後)ではシテはやはり長刀だけを使います。これは仕舞・舞囃子では長刀は使っても、わざわざその上に太刀までは着用しないためで、つまり仕舞・舞囃子の時には実際には「前後之替」の型で演じるのです。常の演出ではなく小書の演出で仕舞・舞囃子を勤める曲は。。おそらく『船弁慶』だけではないとは思いますが、希有な例でしょう(もっとも似た例はほかにもあります。『安宅』『正尊』『木曽』の「三読物」は、常の上演では省略<または連吟>となる事になっていて、その上演はそれぞれの小書「勧進帳」「起請文」「願書」が付けられた場合に限る事となっています。しかし、これらの曲では「読物」の箇所が「聴き所」として演出の中心的な部分を占めていて、これを省略する事は実際には皆無。そこで能はもちろん、素謡であっても小書の演出で上演されるのが普通になっています。。しかしながら、この「読物」の場合は能でも素謡でも、必ず番組に小書を明示する事になっているので、仕舞・舞囃子の『船弁慶』のように、番組に断りがなくとも小書の型で演じるのは、やはりあまり例は多くないと思いますが。。)。

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【本日のお題】
  今日はサイト開設の準備のために、所蔵の面や小道具をずう~~~っとデジカメで撮影していました。やっぱり自宅でキレイに撮影するのは難しい。ベランダに出て撮影したんですが、後ろに家並みが写り込んだり。。面や小道具でさえこの始末なのに装束の撮影なんてどうすれば。。? 広いおうちが欲しいのよん。。
。。というわけで、これは撮影した所蔵の面の一つ「筋怪士<すじあやかし>」です。今週末に迫った「狩野川薪能」の『船弁慶』ではこの面を使います。

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【おしらせ】
  『朝長』おわりました の画像を更新しました

「狩野川薪能」の稽古(その3)

2006-07-03 00:20:55 | 能楽
今日は昼間は国立能楽堂の研修舞台で素謡会があり、終演後に「狩野川薪能」での ぬえのお役、『船弁慶・前後之替』の後シテの稽古を師匠につけて頂きました。

『船弁慶』という曲は見た目も華やかで、やはり人気曲の一、二位を争う、と言われるだけの事はあります。思い起こせば ぬえが内弟子から独立した時に『独立披露能』で上演する曲として選んだのが、この『船弁慶』でした。そのときは初役だったので小書はつけていませんでしたが、前シテにはクセや中之舞があって舞どころも多く、後シテはうって変わって長刀を振り回す派手な型の連続です。間狂言も大活躍で、これはお客さまも喜ばれるでしょうし、ふだん地謡の席から見ていてもとっても面白いお役ですね。

この『船弁慶』という曲、本当はとっても長い曲で、小書がついて、まったく省略なしに全曲を上演すると2時間は掛かるのです。従って、というわけでもないのでしょうが、能楽堂でのフォーマルな催しであっても、間狂言の部分を中心に、何カ所か省略して上演する事が多いようです。舞や登場の囃子が短く演奏される事はほかに例があっても、場面として省略する機会が多い、というのは、考えてみるとほかの曲ではほとんど例がないのじゃないかしら。

ちょっと解説しておきますと、『船弁慶』の能がはじまるとお囃子方と地謡が登場して「次第」の囃子が奏され、子方(義経)を先頭にしてワキ(弁慶)とワキツレ(義経の郎等)が登場します。ワキとワキツレは次第~サシを謡い、子方も短い謡を謡って、再びワキとワキツレの謡が道行を謡って一行は摂津の大物浦に到着したことになります。子方は脇座で床几に掛け、ここで現在では多くの場合、ワキはすぐに静(前シテ)を同行させるのはよろしくない、と子方に向かって彼女を都へ帰すよう進言するくだりになります。

ところが本来はここでワキは間狂言(浦の者=船頭)を呼び出して、船出までの間の宿泊を頼むのです。間狂言はワキと問答して宿泊と舟の用意の手配を引き受け、「奥の間」へ通るようワキヘ答えます。このやりとりがあってからワキは静の同行を止めるべく子方に応対することになります。で、この部分のワキと狂言のやりとりを「宿借り」と称していて、省略する事が多いように思います。ちなみに、中入でワキは間狂言との問答の中で「最前申しつけたる舟をば用意せられて候か」というような問答をするので、この「宿借り」を省略すると、やや辻褄が合わなくなってしまうのですが。。

ついで省略される場合がある場面は、中入のあと、舟の作物が出て海上に船出した場面です。ここで間狂言は舟を漕ぎながら「さて武蔵殿にちと訴訟申したき事の候が。これは何と御座あろうずるぞ」と申し出て、いずれ将来に頼朝と義経との仲が直ったときに「この西国の海上の舵取りを某一人へ仰せつけらるる」ようにと弁慶に取りなしを頼みます。「訴訟」と呼ばれる場面で、弁慶はそれを引き受けますが、間狂言はさらに「必ず御失念なきよう」と念を押したりと、少々生々しいやりとりが交わされる場面ですが、時折は省略される事があります。

さらに、天候が急変して大波が舟に襲いかかり、間狂言の船頭は寄せる波を叱りつけて鎮めようとします(このところで囃子方は「波頭」と呼ばれる急迫する演奏で荒い波を表現します)が、このときワキツレが船中に迫る怨霊の気配を感じたのか「いかに申し候。この舟には妖怪(アヤカシ)が憑きて候」と弁慶に報告します。弁慶と船頭はすぐに「船中にて左様の事をば申さぬものにて候」とワキツレをたしなめますが、このやりとりを「妖怪(アヤカシ)」と呼んでいて、これは謡本にも記載されている部分なので むやみには省略はされないとはいえ、場合により省略されることもあります。

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【本日のお題】

トップの画像は、「狩野川薪能」で上演される<子ども創作能>『江間の小四郎』の登場人物 江間の小四郎(北條義時)の墓がある「北條寺」(伊豆の国市)の山門です。前回の稽古の機会にお参りして、創作能の報告をし、併せて子どもたちの舞台の成功を祈願して参りました。 ぬえはこの創作能の作者のひとりだし、ご挨拶はキチンとしなきゃね。小四郎の役を勤める小学生にも、事前にご挨拶に訪れるよう言っておきました。

ぬえが訪れたときは紫陽花がとてもきれいでした。

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