今日の地元紙に「教員超過勤務 休職5,000人」「デジタル対応 休憩ゼロも」という見出しが躍っていました。
休職5,000人とは、精神疾患で病気休職している教職員ですが、僕の周りには耐えきれなくて退職した皆さんも多数いらっしゃるので、合わせたら凄い数になるかも。
休憩ゼロは、教員の半数が勤務時間中の休憩時間がゼロだったという調査結果。
現職時代、学校は、教員は疲弊しきっていると感じていましたが、一層進んでいるのかも。
新聞では、デジタル対応などで業務が拡大しているためと書かれていました。
この記事を読みながら思い出したのが、東井義雄先生が1957年の著書「村を育てる学力」で書かれた「『村を育てる学力』と『村を捨てる学力』」。
まずは、学校って誰のために何のためにあるのか?と改めて。
“未来を担う子どもたち育てる“ということなんだろうけど、どんな地域の、どんな国の未来を思い描きながらどんな子どもを育んでいきたいのかなあ?
大人に地域のビジョン、国のビジョンが示せないのに、子どもたちにおんぶにだっこじゃあ、、、
また、喜びは伝播していくものだろうと思うけど、子どもたちって、疲れきった教師や疲弊した教育現場から何を学び取るんだろう?
まさか、可愛そうな教師の姿を示して、思いやりや愛、福祉の大切さを伝えようってんじゃないだろうけど(^^;;
喜びが溢れ出すような生き生きとした先生に触れ合えてこそ、学校に行きたいと思うんじゃないかなあ?
それとデジタル対応、何のために学校現場にデジタル導入するんだろう?という極めて素朴な疑問。
AI の進展によって、もうすぐ、今の職業の7割はなくなるだろうと言われる時代、デジタル導入で目指す学力向上って学校の先生が不要になるということじゃないの?
全国学力調査の意図って、テスト学力の競争を煽ること?であれば、デジタル導入は極めて妥当だろうけど、教師にデジタル教育の研修を課すより、望む保護者に研修した方が賢明だし、早道じゃあないのかなあ?
いろいろ考えてみると今の学校現場って、教師が疲弊しながら「村を捨てる学力」を育てようとしているように思えてなりません。
僕は、テスト学力を伸ばすことから、子どもたちの人間力を育てる取り組みにシフトすることこそが、「村を育てる学力」に繋がるのだろうと。
極論のようですが、学校は読み書きそろばんのみ必修、あとは教師が個性を競いながら子どもの人間力を育てることに注力してもいいのだろうと思います。
テスト学力は必要と思う子どもと親に任せてもいいんじゃないかな?
ただ、高校大学は門戸を限りなく広げる。