<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

反則金7000円が惜しいよお

2015年10月02日 10時47分06秒 | Weblog

ぷ。忘れないうちに反則金7000円を払いに銀行に行って来なくちゃ。誰も来ていない閑散とした田舎の三叉路でさぶろうは一時停車を怠った。(標識も見えていなかった)。後ろにつけていたパトカーに「止まりなさい」と停車を命じられた。反則の切符が切られた。お叱りがあった。情けなかった。言い訳ができなかった。言わなかった。

払いたくないんだけどそうもいくまい。これだけあれば400円のゴボウ天うどんが17杯も食べられるのになあ。(彦ちゃんうどんといううどん屋さんのゴボウ天うどんはスープの味がいい)1日1杯だと17日間食べられる計算だ。喰ったうまかったと思って支払いに行こう。17日目には恨みも(戒めも)忘れていよう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

食の慎み

2015年10月02日 10時23分33秒 | Weblog

慎莫問味濃淡 慎莫論品多少 此是保命薬餌 療飢与餓則足    享保年間、浄土真宗僧・法霖の「対食の偈」より

慎んで味の濃淡を問うことなかれ。慎んで品の多少を論じることなかれ。此は是、命を保(やしな)う薬餌なり。飢と餓とを療(いや)せばすなわち足るべし。

己を慎んでいさえすれば、味が濃い薄いということもない。品数が多い少ないと不平を言うこともない。口にする物はただこの命を養うための薬であって、飢餓を療養するもの。これで足りているはずだ。    (いいかげんなさぶろうの訳)

さぶろう、これを読んで大いに反省す。己を慎む。まずこの一項目からして守られていない。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

作業ズボンには6つのポケット

2015年10月02日 10時08分49秒 | Weblog

さあて、作業ズボンに履き替えて外へ出よう。畑が待っている。

この作業ズボンにはポケットが6つついています。左右の尻、腰横の左右、左右の膝に。

ポケットに何がはいっているか。お尻の両サイドにはタオルとちり紙、腰横の左右には眼鏡、玄関の鍵。左右の膝には? 飴玉と携帯電話。弟から日に一度電話が入ります。

作業に飽いたらさらりとサイクリングに出ます。何をするにも一人だからわがまま勝ってです。強制も義務もありません。老人はのんびりしたもんです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

所有を決め込む者は偽者

2015年10月02日 09時50分18秒 | Weblog

雷神:爺さん、お前の持ち物はたったそれくらいか。

爺さん:へえ。わたしの所有にしなくともいいことが分かりましたので、できるだけ身軽にいたしました。

雷神:ほう。じゃ、誰の所有だったのだ、それは。

爺さん:無所有者の所有でございました。

雷神:なにもかにも要らぬというのが無所有者なのか。

爺さん:所有を決め込む者は偽者でこの者は所有ができないのでございます。

雷神:所有を決め込まぬ者がおるのか。

爺さん:天地万物は本来無所有す。

雷神:爺さんは戯(ざ)れ事を言う者よなあ。

爺さん:ケチな野郎で、これだけがまだわたしの所有物なのでございます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安心はその後にどう転んでも決定している

2015年10月02日 09時23分10秒 | Weblog

即心念仏安心決定(そくしんねんぶつあんしんけつじょう)す。   天台学僧光謙の言葉より

即心に念仏して安心は決定したり。

念仏は仏陀の念(おも)うことである。仏陀の名を称名することである。そして仏陀に成りきってしまうことである。ここでゴール地点である。ここに立ったのだからもう安心は決定したのである。その後天変地異の災難に遭ってぐらぐら揺れても倒れても迷っても後退してもそれでもそれでいい。安心はすでに決定したのであるから、この事実は歪むことはない。

安心はわたしの安心ではない。わたしの安心はすぐに地崩れを起こしてしまう。それでわたしの安心をわたしのこころの箪笥にしまっておくのはやめにして、念仏の安心を仏陀の箪笥に預けてしまおうというのである。後で引きだして来て確かめ、また預かってもらっておけば足りる。

安心という黄金は手持ちにするとどこぞに置き忘れてしまうもの。金子(きんす)といっしょだ。仏陀の銀行に預かってもらっていれば安心安全である。それじゃ、物足りぬという方もおられよう。その人は安心の一時貸し出しを受ければいいのである。安心という手荷物を預けてしまえばぶらりの旅に出てもよかろう。てぶらの物見遊山も安心である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

制御不可能ならばその努力を放棄すべし

2015年10月02日 09時00分05秒 | Weblog

人の死は人が制御できるものではありません。それが証拠に人は誰もが行く末死んでしまうのであります。わが為すコントロールが不可能ならばいっそすっぱり放棄したらどうでしょう。制御できないものを制御しようとするから悲しみ苦しみがいや増してきてしまいます。

ですからこの制御の努力はうっちゃるしかないのであります。そしてそれは他人ごとにしておくのです。俎の鯉の悟りはできないかもしれませんが、無駄な努力に尊い人生を浪費してしまうのは愉快ではありません。人の死は、有り難いことに、仏陀のお慈悲の範疇にありますから、仏陀におまかせをしておくに限ります。

といってもねえ、これは理論の理屈。いつまでたっても、人の死は、わが死も親しい者の死も悲しく苦しく恐ろしいもの。これをかいくぐって俎の鯉に変身ができません。仏陀の教える真理の経典を読んでいるのなら、今すぐにでもそっくり手放してもいいはずなのですが、それが困難を極めて、さぶろうは相も変わらず戦々恐々とした毎日であります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最中(もなか)

2015年10月02日 08時40分35秒 | Weblog

最中(もなか)が好きでございまして朝からもうこれを口にしているのでございますよ、さぶろう老人は。ここの菓子屋の最中の餡には柔らかい餅が含まれているので、小豆の餡と餅とがうまく練り合って相互をより一層おいしくさせているようでございます。嗜んでちびりちびり舌に載せて転がしているのですが、最中は亀の甲羅ほどの大きさもなくてすぐに一個がなくなってしまいます。もう一個に手を延ばしてみるのですが、何でも「一度にたくさん」よりは「分けて少しまた少し味わう」のが利口というもの。後は熱めのお茶を啜ります。老人の胃袋は次第次第に小さくなっているのかもしれません。この芸当でいいのでございます。ああおいしかったおいしかったの現在完了をしばらく継続させておいて、食べたという過去の事実を嗜んでいればそれで老いの感覚器官は欺されて、そこそこ満たされて来るのでございます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

乳房

2015年10月02日 08時30分40秒 | Weblog

張り切っているものを見たい。隆起している二つの山を見たい。山の頂には赤い噴火口。ここは力が内から漲ってきて溢れ出しているところだ。見ているだけではすまされなくなって、じかに指がここを登りだした。触れて、張り切ったいのちの躍動というものの存在をそこに確かめ、次から次に襲ってくる非存在の不安をかき消そうと努めている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地上は何処も光の怒濤

2015年10月02日 08時23分59秒 | Weblog

東の空のカーテンが左右上下に一斉に開かれたものだから、地上は何処も光の怒濤だ。黄金の明るい波頭が立って押し寄せて、さぶろうの家の庭の港は、もうから満潮になった。カモメならぬ鵯が鳴いて騒ぐ。嬉しくてならぬのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ホトトギスを摘んで戻って来た

2015年10月02日 08時15分16秒 | Weblog

6時40分。室内でのラジオ体操が終わってそのまま玄関を出た。畑の野菜を見て回った。朝露に足下が濡れてしまった。薄紫色のホトトギスを摘んで戻って来た。小瓶にいけて台所のテーブルに飾り、家内(やうち)を秋にした。朝ご飯の後のデザートは栗の甘煮だった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする