頻繁にトイレに通っています。もう水便です。夜が更けたというのに。これじゃやすめません。昼間、お祭で冷たいビールを飲み過ぎたようです。夕食は軽くお茶漬ですませましたから、食当たりではないはずです。仕方がないから、昼間の続きで、枕元の本、鈴木大拙の浄土論を読み進めるしかありません。これがだんだん面白くなって来ました。老人だから起きていても寝ていてもどちらでもいいのです。一日全部が自由時間なんですから。
楽しいこと、それを喋っておくれでないか。へえ。楽しいことでござんすかい。ようございますとも。
では、極楽浄土の暮らしをちょいと。前倒しにしてちょいと。
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極楽でございますから、それは楽しみの頂点の頂点。
あんまり楽しいから、人間世界にそのまま持ち込んでも眩しすぎて目が潰れてしまいましょう。
だからその10000分の1ほどを。ええ、ええ、それでもう十分ですよ。
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極楽では、はい、会う人ごとに笑みをこぼします。こぼそうとしなくても同じです。何がそんなに嬉しいのか何がそんなに楽しいのか、分からないのに笑みがこぼれます。
その笑みはここでも作れます。いかがしましょう。
さぶろうは、それで10000分の1というくらいの極楽の笑みを頬に作ってみた。それでもう十分であった。放心の笑みをすればそれがそれに一番近かった。
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楽しくするのに、楽しさの10倍、100倍、1000倍、10000倍、それ以上倍、とてつもなくそれ以上倍などというのがあるのだ。
どうです、期待が膨らみましたか。今日のところはここを喋っておしまいにします。
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極楽の極の楽しみ。極楽無限。肉体が知るセックスなんかよりはもっともっともっと楽しいもの。そうと知ったら早く早くそれを体験してみたい。しかしそれは、死後のお楽しみ。死ななければ体験ができない。
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仏国土の光明無量・無際限。仏国土の寿命無量・無際限。仏国土の極楽無量・無際限。これを考えてみたことがあるだろうか。
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光明は無量で無際限ある。寿命は無量で無際限ある。極楽は無量で無際限ある。だったら? もう量ったりはできなから、量ったりはしないのだろう。ただただ受けて肯定して称賛しているだけだろうか。
威張っていたらそのときはそれでいい。でもほんとうに威張れるのか。それを思うと忸怩としてしまう。お前、仏陀の前に出てもその調子を通せるのか。自問する。通せそうにはない。自分は、仏陀の前に出たら、一言だって発せられないだろう。はい、はい、はいしか返せないだろう。1%ほどの正当性があったとしても残りはそうじゃない。仏陀からの見方ではどうなることか。99%の非正当性では、とうてい威張る気にもなれないだろう。それを先取って、せいぜいいまを威張ったりするのだろうか。秋の日が山茶花の質素な花を賞でている。
やさしかったなあ、博子先生は。小学校4年の担任をして頂いた。可愛がってもらった、それだけが記憶にある。わたしの名を呼んで呼んで下さった。「さぶろうさんさぶろうさん」と今でもまだ呼ばれている気がする。小学生の頃のさぶろうは先生に従順だったかも知れない。先生を敬って敬っていたのかもしれない。先生と生徒とが直流電流で流れ合っていたのかもしれない。今日は村祭りで先生のご子息さん(66才)に出会った。話ができた。先生を思い出した。先生の音声が、言葉ではなく音声が、耳にまっすぐ聞こえてくるようだった。あの頃、つまり小学生の頃には、師弟というのはあんなふうにあたたかい愛情で結ばれていてよかったのだった。それを思ってしんみりになった。それが今はどうだ。砂漠じゃないか。そんなふうに思われて恥じた。
こころに罣礙(けいげ)なし。罣礙なきがゆえに恐怖(くふ)有ることなし。一切の顛倒(てんどう)夢想を遠離して涅槃を究竟(くきょう)す。 仏説摩訶般若波羅蜜多心経より
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恐怖させようたってそうはいきませんぜ。おいら、それが恐くも何ともありませんから。恐いぞ恐いぞと言い聞かせてどぎまぎさせようったって、もうそうはいきませんぜ。おいらはすでに涅槃界の住人。娑婆世界のしきたりとは縁を切ってございます。涅槃界って、どこにあるんだ? 地球を含めた宇宙のようなところです。地球に住んでいながら宇宙にも住んでいる。これと似た原理です。わたしは広々としたところ、涅槃の宇宙に足場を置いてゆっくりしているのです。
生死恐怖。恐怖の本体は生死であったのか? 生きるも死ぬも恐い恐い。この顛倒した恐怖感。ここを遠離ればいいのだ。遠いところにあるようだけれども涅槃界も同時転回をしているのだ。恐い恐いを脱ぎ去ってしまえ。そうすればその実体がなかったということが納得されるだろう。脅すのはよくないや。でも脅されるのもよくないや。罣礙(網に捕まった被捕縛のからまり)の一人二役か。
石蕗の黄金が秋日を受けている。さらりとしている。恐い恐いがない。恐怖を超克した者のすがたをしています。
ああ、病重篤の弟よ。超克のときを過ごして充実している弟のいまわの時間よ。石蕗の黄金色の時間よ。
わたしが活躍をしないと大空が秋を造ってくれない/とすればたいへんだったけど/そんなこともない/そんなこともないというところがいいなあ/わたしのために造ってくれたわけではないのだけれど/まるでそうであったかのようなやさしい秋の大空/これを見ている/空のこころの青が澄んでどこまでもどこまでも広がっている/それっきりのやさしい秋の/それっきりで過ごしていてもいいというやさしい秋の/こころの大空/
あれこれ考えましたが/結論はこうです/なんにもしない/じっとしている/じっとして秋を見ている/空の上の秋を見ている/何をしようかあれこれ考えましたが/結局ここで行き止まりです/行き止まりはふつうは狭くなっていますが/ここの行き止まりは大空の広さほどもありますから/ゆったりしていることができます/
どんなに貧しくしていたって/どんなに病が重篤になっていたって/どんな不都合に立ち至っていても/これならできます/英雄でなくったってこれならできます/不安と恐怖に苛まれていたってこれならできます/人に仰がれていなくったってこれならひとりでできます/何にもしない/じっとして秋を見ている/空の上の秋を見ている/
もうすぐここを去って行くので、このしばらくをわたしはどうやってすごせばいいのか、ふっと考えていて、それから、ああもういい加減まわりに意地悪をするのはやめようと決心をした。やっとだ。他者の悪口を言うのをやめにしよう。憎悪の圧力を弱めていよう。他者に害意を覚える混濁を水で薄めて洗い流してしまおう。どんな動きもしないでいればいいのだ。どれもみんな消極すぎるけれど、こうして縁側に出て、日当たりに足を延ばしていることにした。すると深くなった秋の大空から日が射して来て、わたしの足裏をやさしく包んだ。
覚有情。かくうじょう。覚有情の働きをしている当体。
有情は生存する者の意。情(こころの働き)を持つ者の意。生きとし生けるものの総称。衆生に同じ。梵語(サンスクリット語)Sattvaの訳語。
われわれ有情は互いに相手を覚有情させている存在であるかもしれない。善悪の手を変え品を変えながら相手を覚有情させている存在であるかもしれない。愛憎の手を変え品を変えながら相手を覚有情させている存在であるかもしれない。それと知らずそれと知らさず。
今日あなたのこころが一片の秋の白い雲になってわたしに届く。わたしはあなたを見つめる。あなたは暫くの間青空の浜辺をゆうらりゆらりして、それからまた去って行ってしまう。それっきりなのだが。
きみは/きみを咲かせているけれども/それでは終わらないで/わたしのこころを開かせてくれる/野の花よ/野菊よ/きみによってわたしのこころが開く/わたしの胸にある扉が両開きに開くと/ここから秋の風が吹き入れてきて/わたしは風と共に/大きな世界に飛び出して行ってしまう/野菊よ/ああ/薄紫の小さな秋よ/秋の凜々しい活躍よ/慎み深いほどの小さな利他の行よ/なんじ覚有情よ/
「覚有情」: ボデイーサットバーの訳語。菩提薩埵とも訳される。有情を目覚めさせる活動をしているもののこと。もともとは成仏以前の釈迦、修行中の釈迦を指した。後には拡大解釈されて、仏道を歩む者をも指すようになった。我々は互いに善悪の手を変え品を変えながら相手を覚有情させている存在であるかもしれない。