<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

わたしが何をどれだけ恐れようとも

2015年10月12日 22時10分06秒 | Weblog

せしめられて、せしめられて来た。生まれるときにもそうであった。仏の智慧と慈悲によってわたしがここに生まれせしめられた。わたしはここで光を浴びた。智慧の光と慈悲の光を浴びた。せしめられてせしめられて、そうしてここで金色の色に輝くことができた。わたしはここを死んで次へ生まれて行くことになるが、これも同じく仏の智慧と慈悲によってそうせしめられて行くばかりであった。わたしは、こうして次へ次へそうせしめられているという不可思議とこれを思う歓喜をしていればそれでよかったのである。行けども行けどもそうせしめられて行くので、行けども行けどもわたしはただ仏陀の色の金色に輝いていくばかりなのだ。わたしが何を恐れようとも。どれだけ恐れようとも。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

願われて願われていた

2015年10月12日 21時57分29秒 | Weblog

願われて願われて願われていたのだ。何もかもがすでに仏によって願われていたのだった。わが臨終のときもまたこの通りであった。願われて願われていた。命が終わる時にもその後にもそのように願われて願われているばかりであった。わたしの願いが入る隙すらもないほどにすでに仏によって願われていたのだった。わたしに残された唯一はこれを信じて安心をすることだけであった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虚空尽きず 法界尽きず

2015年10月12日 09時04分17秒 | Weblog

浄土宗経典「発願文(ほつがんもん)」

願わくば弟子等、命終(みょうじゅう)の時に臨んで、こころ顛倒(てんどう)せず、こころ錯乱(しゃくらん)せず、こころ失念せず、身心にもろもろの苦痛なく、身心(しんじん)快楽(けらく)にして、禅定(ぜんじょう)に入るがごとく、聖衆(しょうじゅう)現前(げんぜん)したまい、仏の本願に乗じて、阿弥陀仏国に上品(じょうぼん)往生せしめたまへ。彼の国に至りおわって、六神通(ろくじんずう)をえて、十方界に入(かえ)って、苦の衆生を救摂(くしょう)せん。虚空(こくう)法界(ほっかい)尽きんや、我が願も亦かくの如くならんや。(後略)

「虚空法界が尽きることはない」

今日はここがことさらに嬉しい。

虚空が尽きることはないように、法界(仏界)が尽きることもない。法界が尽きることがないように、仏の願文が尽きることはない。ゆえに、人の命終の時に発せられる発願文もまたいまに生きて有効である。ゆえに、このときにわがこころも顛倒せず。錯乱せず。失念せず。ゆえに身心に苦痛なく、快楽(けらく)して禅定に入るが如し。ゆえに聖衆は現前して阿弥陀仏国に往生を果たせり。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする