<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

命終のときの発願文

2015年10月27日 14時06分06秒 | Weblog

誰の命もいつかは終わる。健康を誇っていた人もそうでない人も、権力をほしいままにした人もしなかった人も、おごり高ぶった人も落ち着き払って暮らした人も、この例にもれず、死の時を迎えることになる。

命終の時にのぞんで、こころ顛倒せず、こころ錯乱せず、こころ失念せず、身心にもろもろの苦痛なく、身心快楽(けらく)にして、禅定に入るがごとく、聖衆現前したまい、仏の本願に乗じて、阿弥陀仏国に上品(じょうぼん)往生せしめたまえ。かの国に至りおわって、六神通をえて、十方界に入(かえ)って苦の衆生を救摂せん。   浄土宗経典 「発願文」より

いままさにわが弟が命の終わるときに臨んでいる。

1,弟のこころが顛倒することがありませんように。

2,弟のこころが錯乱することがありませんように。

3,弟のこころが失念することがありませにょうに。

4,弟の身心にもろもろの苦痛がありませにょうに。

5,弟の身心が快楽(けらく)でありますように。

6,弟が禅定に入るごとくでありますように。

7,弟の前に明王や菩薩や如来などの聖衆が出迎えてくれますように。

8,仏の本願に乗じて上品往生をとげることができますように。

9,彼の国に至り着いたあとに利他救済の6神通力を得ることができますように。

10,十方界に飛翔して苦悩の衆生を救済する活動に入ることができますように。

これから弟の寝ている病院のベッドに行って夕暮れまでを付き添います。阿弥陀如来の本願があって、この10項目はことごとく成立を見るという約束ができていますから、わたしがことさらに発願をしないでもいいことですが、眠っている顔を見ているとついつい願ってしまいます。

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十分な成立

2015年10月27日 11時44分22秒 | Weblog

ここはわたしだけが生きているところではありません。人間だけがいきているところでもありません。片手の小指の爪先に乗る少量の土にだって微生物が生きています。わたしが微生物よりも大であるから優れているというわけでもありません。少ない食べ物で生きていける微生物はわたしよりも環境を汚しません。

ここはわたしだけが生き死にをしているところではありません。人間だけが死ぬことができるというのでもありません。大袈裟にしないで死んで行ける種類もいます。そっちの方が多いかもしれません。お浄土を別に構えていたりできないのもいるでしょう。覚りだ迷いだと右往左往する贅沢も与えられていないかもしれません。それで十分成立している芸を身につけているようです。

ここに一本の渋柿の木が立っています。これもここの住人です。彼は念仏を称えません。念仏を称えなくとも春夏秋冬の季節を渡って行きます。彼は恐怖心から走り出すということもありません。平然としたものです。これで生き死にができます。それで十分成立しているのです。

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虎の威を借る狐

2015年10月27日 10時57分59秒 | Weblog

わたしは底の浅い人間です。勉強をしていません。ですから、どこまでもわが慰めごとに終始しています。人様に読んで頂くようなことはよう書けません。疑念がふつふつふつふつ沸き上がってきて困るけれど、解決が見えません。それで、何かそれらしいなあと思える教えに接すると、もう一にも二にもなく飛び込んでしまいます。ですから、皮相的で感情的です。しっかりした根拠がありません。よくこんなぐうたらの、いい加減ですませられるものです。

わたしには正しい主張というものがありません。それで、いきおい、これを埋めねばなりません。自己所産がないのですから、わたしの<正しい主張>の構成比は必然的に少ないものになります。その分を仏さまのお慈悲に補ってもらうしかないわけです。自己主張ができないのですから、仕方がありません。わたしの気圧が低いとわたし以外の高い気圧が埋め合わせをしてくれるのです。お天気に似ています。

わたしはわたしの中の圧倒的に大多数の仏さまの智慧とその実践に、ほれぼれとすることになります。わたしはわたしの城を簡単に明け渡してしまいます。これはずるい策かもしれません。こちらには軍備も武力もないからです。これでのうのうとします。「虎の威を借る狐」然です。

お日様が射してくるとあっさりこれに我が城を明け渡してしまいます。「ああいいなあ。お日様は明るいなあ。あたたかいなあ」でケリが付くのです。これで日向ぼっこです。仏さまの智慧とその実践がこのお日様の光に凝縮されています。わたしの浅い底はこれでもうきらきら輝き出すのです。

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落花生の掘り上げ

2015年10月27日 10時46分26秒 | Weblog

ややや。降って来たぞ。もう、まやかしどころじゃなくなった。雨音がかなり激しくなった。

畑に出て落花生を掘り起こしていたので、濡れてしまった。さっき、作業を中止して戻って来た。シャツが湿ってしまったので、新しいのに着替えて、それでさっぱりした。落花生はまあまあの収獲だった。店に出ているものに比すれば随分見劣りがしそうだ。まあいい。これは我が家で食するもの。ビールのつまみにはこれで十分だ。泥をよく洗った。しばらく干しておく。さぶろう老人はこうして朝のひとときを過ごした。遊び戯れて足りた。

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瞑想の宇宙遊覧飛行

2015年10月27日 08時59分54秒 | Weblog

夜中、瞑想をして遊んでいる。夜明けが多い。4時前後。お布団の中で。目を閉じてイマジンする。イマジンは距離をいとまない。だから、すぐに飛び立って行く。銀河まで。太陽系の惑星を後にしてそこからはまっすぐ銀河団まで。光のエネルギーが夜店を作って待っていてくれる。何処も此処も星々がきらきらしていて明るい。急がなくともいいから、途中途中を楽しむこともできる。そして宇宙の意思というところに辿り着く。ここは愛のエネルギーで満ちあふれている。仏教では愛は欲愛と混同されやすいから、これを慈悲と呼んでいる。慈悲は利他救済の意思と活動のことである。慈悲のエネルギーは団子粉に似ているから、ここでその団子粉に転がって遊んでみる。体中が真っ白になる。瞑想だから簡単にそうなる。なっているところを想像するわけだから。他者を利他する能力は神通力という能力である。この能力が付与されると困っている人の救済ができる。これでやにわに身心に活気が湧いてくる。ふかふかする。やわらかになる。融け出してしまいそうになる。ここでUターンだ。実際に活動をするわけではない。そのために宇宙遊覧をしたのでもない。このエネルギーは、しかし、帰還中に失われたわけではない。体内に貯蔵されているから、何かに使ってみてもいい。でも、この役目は菩薩や仏陀がなさることなので、無用と言えば無用だ。瞑想は1時間から2時間つづく。瞑想は、両手を加勢させることもある。この方が睡魔に邪魔されずにすむようだ。

 

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昆虫の国 ファンタジー国

2015年10月27日 08時47分25秒 | Weblog

蜜蜂マーヤによく似た小さな花虻が赤い花の花群れの間を数匹飛び回っている。腹部に縞模様がある。愛らしい。ここがメルヘンの世界であることを主張してみずからが演出してくれている。案外、そうなのかもしれない。ここはファンタジックなメルヘン国なのかもしれない。花虻がさぶろうのいる現実界を訪ねてきたのではなく、さぶろうがファンタジー界を訪ねて行ったのかもしれない。そう思って見たりする。そこがここなのかもしれない。そこがここである、というのがひどく新鮮に映った。弟は病がいよいよ重篤になって行くというのに、そんなことには我関せずとしている不思議な昆虫世界。昆虫のおだやかで平和な国が、ここに建設されている。

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高菜漬け丼

2015年10月27日 08時40分19秒 | Weblog

高菜が育ってきた。間引きをした。漬け物桶を使って一夜漬けにしてもらった。今朝、これを取り出したときに、いのちが放つ青い香りがぷんと鼻を突いた。粘膜が刺激され、食欲に繋がった。包丁でこまめに刻んでもらった。鰹節をたっぷり落として、醤油にまぶし、これを新米の炊きたてのお椀にのせた。さしづめ「高菜漬け丼」というところだ。ご飯があっというまに空になった。

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「お先に」

2015年10月27日 08時28分52秒 | Weblog

夕方日が暮れて弟の付き添いを交替した。帰る間際に弟の両手を握って「じゃ、帰るよ。また明日ね」と言うと、閉じていた目をかすかに開いて「お先に」と応えた。「おいおい、お先にはないだろう。帰るのはこの僕だから」僕は慌ててそう返した。弟は片手をわずかに挙げて、細くなった指でピースマークを作っておどけてみせた。心中「お先に行くからね」の台詞を用意していて、何処かで発話するのを待っていたのだろうか。目を覚ましている時間が次第に減っていく。意識が混濁していくようだ。

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墓石にはこう刻まれてしまうだろう

2015年10月27日 08時04分46秒 | Weblog

祈るな。諸仏諸尊に祈られて祈られている者が、その上の祈りをするな。我が祈りは、利己の祈りである。欲しがり、欲張りの祈りである。我が利益事ばかりを祈って、いい気になって、それで信仰を気取っている。仏を商い取引の相手にして、祈る。こうしてください、ああしてください。そうしたらあなたが仏であることを信じます。この商談を恥じない

一生を生きて、その一生をあらかた全部我が利己に浪費してしまった。「我利我利亡者のこの男はたった一人の幸福を追って、終わった。活動面積の狭い男だった」さぶろうの墓石にはこう刻まれてしまうことだろう。祈るな。ほしがるな。いただいているものを拝受せよ。過分のいただきものはお返しせよ。お返しなんかするもんか、と、またまたごねる。

 

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ツクネ芋の鉄板焼き

2015年10月27日 08時01分39秒 | Weblog

お隣から掘り上げたばかりのツクネ芋をいただく。巨大でどしりと重たい。水を流して洗いに洗い、表面をごしごし擦って砂を落とす。これを鉄板焼きにしてもらった。おいしかった。箸が動いて夕食の膳が活気づいた。厚さ1cm弱。ペットボトルの底くらいの面積。やや塩をきかせ油を引いてほんわかほんのりに焼き目を付けてあった。これがおいしくてぱくぱくパクついた。朝食にまで残りをほしがった。

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