朝寝をして昼寝をした。朝は朝寝。昼は昼寝。どちらも深い眠りだった。不快がなかった。快を徹底した。珍しい。今夜はこの分では真夜中まで眠れないかも知れない。何を思って過ごそう。珠子を思って過ごそう。この世の何処にも存在し得ない珠子、美しい珠子の白い肌を貪っていよう。秋の空に広がる羊雲のようにやわらかくやさしく白い肌を。さぶろうは仏教の五戒に阻まれているから、しかし、これを盗むのは、千年に一度の恋のように、容易ではない。
触れ合う。肌と肌を触れ合う。愛する者、いとしい者に触れ合っていたい。肩と肩でいい。指先と指先でいい。これが触の欲望である。肌を持つ者、皮膚を持つ者にはこれがある。ごまかしようがない。ごまかしにごまかして過ごしているが、正直なところを語ろう、欲望はいっこうに消滅をしない。生きている限り、皮膚を持つ限り、欲望は消滅をしない。恐ろしい。触れ合っていったい何をたしかめたいというのだ。生きていることそのことか。死んではいないというその有り体か。性というのは確認のためにあったのか。
今日から10月。燻(くすぶ)って燻って10月となった。遠くへ行きたい。一人で放浪をしたい。これが適っていない。燻って燻っている。酸素不足の燻(いぶ)しのようにへなへなと燻って、薄紫の煙が出窓の隙間を洩れている。一方の竈で鍋が煮えたっていても、もう一方がこのありさまだ。ざまあない。遠くへ行きたい。明日、天候不順だったとしてももう我慢ができない。しかし、さぶろうに彼の願いを支えうるだけの財がない。
白鳥はかなしからずや海の青空の青にも染まずただよふ 若山牧水
これは白鳥の歌ではない。漂泊の牧水は海の青にも空の青にも染まって、青々と染まって、一々ことこまかに応対して悲しがっていたのである。
余人を以て代えがたし。わたしの幸福の実感を、なんだそんなものか、そんなにちいさなものでいいのかなどとと揶揄したって、こればかりはわたしの所感。余人が感じうるものではない。おのれの内に広がる海の広さに匹敵している。広ければいいというものでもない。狭い海であっても、そこを満たしていれば幸福なのである。黒ムツの魚を久しぶりの久しぶりに食べた。おいしいおいしいと舌鼓を打って食べた。
幸福の図体が鯨みたいに巨大でなくったっていい。水たまりのボウフラくらいだっていい。巨大な鯨の幸福を否定するものではないが、ボウフラのさぶろうは水たまり大で幸福を嫌と言うほど味わえるのである。鯨を体験できなかった人間の、それは負け惜しみかもしれない。客観視して負け惜しみかも知れないのだが、それでもそれでいいのである。胃袋が小さくなったさぶろうには、もしも提供されるとしても、鯨の幸福は棲めないのである。年を取った。年を取った。雨音が軒端を叩いている、その音楽で楽しめるのである。
小さな幸福一個を噛みしめて長々と食べるという食べ方もある。これでも十分においしい。若い頃は大きな幸福100個が揃わなければ見劣りがすると思っていた。そうではないことが、今頃になって分かった。幸福にイクオールで結ぶ方程式などはなかったのだ。そこに揃っていないなら、見出したらよかったのだ。さぶろうはもう70才になっていた。
5時半というのにもう暗くなってきた。雨は止まない。さっき城原川の川土手を車でドライブした。水嵩を増した濁流が渦を巻いて激しく流れていた。ケーキ屋さんを回った。これまで洋菓子も置いていたお菓子屋さんへ行ったらここにはもう和菓子だけになっていた。それでまた菓子屋さんを探して回った。田舎だから何軒もあるわけはないけど、やっとあった。娘はチョコレートがのったのが好きだからこれにした。家内は林檎パイ、さぶろうはチーズケーキにした。合計3個。今日から娘が新しい職場に行って働くことになった。これを祝ってやりたいのだが、仰々しくじゃなく、あっさりそっと何気なく方式を選んだ。
キャベツ苗もおいのちさんだから大切にしてあげなければならない。バングラデイシュのように人口過密だと住みにくいだろう。そう思って今し方、種床に種を蒔いて育てたキャベツ苗を広い畑に移植してやった。小雨の降りしきる中を。人間で言えばもう小学校に上がるくらいだ。でも一株だけで終わった。雨が風を伴って大粒になったからだ。濡れてしまった。住所変更した新天地でキャベツ苗さんは天からのもらい水ももらってしっかり根を下ろすことができたにちがいない。ああ、よかった。さぶろうはおいのちさんに感謝されることを今日1個だけした。
さぶろうはすぐに仏教経典に走って行く。ここが安全地帯だからである。なにしろ仏陀の書なのだ。大学の頃福岡の町には市街電車が走っていた。乗り降りする停車場に<安全地帯>と表記してあったのを思い出す。ここにいれば、トラックやバス、乗用車、自転車などのビークルから守られていた。仏教経典には必ず仏陀が登場してくる。仏陀はガンジス川の砂の数ほどもおいでになってわれわれを見守っておいでになるから、経典類もさまざまで豊富だ。しかし、みな釈迦牟尼世尊の教えられた人生の指南書である。安全地帯への地図が添えられたのが経典である。此処は遠くて近くて、近くてなかなかに遠い。
仰ぎ願わくば上来虔(つつしん)で唱題読経若干、鳩(あつむ)る所の功徳に依って、除病延寿離苦得楽と守護したまへ。令百由旬内無諸衰患。受持法華名者福不可量。諸余怨敵皆悉摧滅。得聞是経病即消滅不老不死。家に讃経の勤め有らば七難必ず退散せしめんのみ。南無妙法蓮華経。 日蓮宗経典「除病祈祷文」より
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わたくしはこれまでお題目を唱え法華経をこころから信じて読経して参りました。こうして法華経の功徳を頂いてまいりました。ご守護があってわたしは病にも倒されず命を延ばして苦しみを楽しみに切り替えてくることができました。有り難いことでございました。
法華経の経典にはこう見えています。「あなたの住んでいるところから百由旬ひゃくゆじゅん 広さの範囲)以内にもろもろの衰えや患いがないようにいたしましょう」「法華経の行者の受ける幸福ははかりしれません」「あなたに恨みを抱く敵があれば恨みを打ち砕いてあげましょう」「法華経を聞くことができる人の病を取り除いてあげましょう。そして永遠の命を授けてあげましょう」と。
こうして在俗のままでも、法華経を讃えて読経をしていれば七種の災難災禍は退散して行くでしょう。どうか法華経に南無してお暮らしください。 (いい加減さぶろうのいい加減な解釈)
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人はこの世をさまざまに病んで暮らしている。法華経は人の病を癒やす良薬である。そうあらねばならない。病む者がいるのなら良薬を授けてあげるのが仏陀と仏陀に従う行者の勤めである。日蓮聖人はそのようにお考えであったのではないだろうか。聖人は除病祈祷文をお書きになられた。