<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

明日は濠干しのお祭り

2015年10月17日 19時04分19秒 | Weblog

明日はわが聚落のお祭り。稲田に水が要らなくなったので溜め池の水を抜いて「濠干し」をする。かなりでかい溜め池なので、水を抜くにも数日はかかる。水を抜くと養魚していた魚たちが顔を見せる。これを網で掬い取る。鯉、鮒、鯰、鰻、鮠、小海老などが獲れる。男たちは魚獲りに精を出し、女たちはこれを料理してくれる。鯉のアライ、鯉の味噌汁、鮒の煮付け、海老の掻きフライなどが列べられる。これに甘い小豆餡をまぶしたぼた餅、秋野菜のお浸し、豆腐料理、吸い物などが添えられる。これで酒を飲む。まあ、農家の収穫祭のようなものだ。

我が家には利益を出せるようなまとまった田畑はない。だから農家ではない。だから、おまけに参加をさせてもらっている格好だ。でも、わが集落で農家で飯を食っている家は少ない。働き手はすでに高齢化してしまっているし、農家の後を継ぐ者は皆無に等しい。偶に若い人がいても、みな他所に働きに出てサラリーマン化していて、農業はアルバイト的だ。もうほとんどの田畑はJAなどに農業委託をしているようだ。(これで日本の農業問題、ひいては食問題は大丈夫なのだろうか? 決して決して大丈夫ではあるまい)

さぶろうは川魚が苦手だ。生臭いのがどうもいけない。捕って来てすぐに料理をするものだから、臭みが抜けないままなのだ。だから折角の料理なのだが、出された魚料理にはほとんど手を着けない。小エビの掻きフライだけは別だ。これは酒の肴になる。すぐに酔ってしまうので、あとはぼた餅を食べておしまいだ。酒飲みの人の相手にもなれない。聚落の人が集まって懇親する、ここがこの祭りの大事な役目のようだ。

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遅い速いの差はあるが

2015年10月17日 11時19分03秒 | Weblog

彼仏光明 無量 照十方国 無所障碍 是故 号為阿弥陀    仏説阿弥陀経より

彼の仏の光明は無量なれば十方国を照らすに障碍する所なし。この故に、号して阿弥陀と為すなり。

十方:四方(東西南北)と四隅(北東・北西・南東・南西)と上下の方角。

十方国:阿弥陀仏を中心の軸にして十方の方角に仏とその仏を思慕する衆生(往生をした者はたちどころに成仏しているから、実質は聖なる衆、つまり菩薩・如来たちである)の住む国々がある。宇宙中隈無く諸仏の世界があるということだろうか。

阿弥陀仏は光明を放っている。諸仏(とその人民)のまします尽十方の国々を照らしているからその光明の明るさは凄まじい明るさでなければならない。しかも、通り一遍の光であれば、障害物にぶつかった場合には影を造ってしまうが、遮るものがないのであるから、直線的だけではないことになる。

十方国を照らしてどうするのか。そこに国を造るのである。仏の光明が諸仏と諸仏の住む国々(ここにはみな衆生が仏を思慕して住んでいる)を造っているのである。なぜそこに国を造るのか。諸仏とその人民が活動をするためである。活動が促されているということか。諸仏はどんな活動をするのか。そこにもここにも新種の歓喜世界を建設する活動である。

十方の国々を造るにはどうしても阿弥陀仏の光明が不可欠だったのである。光明に照らされるとそこに諸仏の国々が出現してきたのである。だからこの国々の材質材料は阿弥陀仏の光明だったことになる。

この阿弥陀仏の光明は、もちろんさぶろうにも届いている。無所障碍なのだから、当然である。阿弥陀仏に光明は、さぶろうをも明るく照らしている。照らされて照らされて仏に成るように促されているが、それと気がついていない。では、それと気がつくにはどうすればいいのか。そこに苦しみが悲しみが加わって来るのである。

ここは娑婆世界(苦界)であるから、苦が媒体になっている。AがBになるための触媒になっている。人間が菩薩や如来(仏)に変化しようとする際にはこの娑婆世界(=人間界)の苦しみ悲しみが大きな役割を果たしているのだ。

遅い早いの差はあるが、光明が尽きることはないのである。のろのろじっくり時速20キロもいいし、一気呵成に速度を付けて100キロで、この世を走り抜けてもいいのである。阿弥陀仏の放つまばゆいばかりの光の中でわたしたちは次の世界へ、そのまた次の世界へ渡って行くのである。

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