<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

誰か惜しまん わが浮漚の身を

2015年10月29日 11時32分25秒 | Weblog

期するところは弘通(ぐつう)に在り 誰か惜しまん浮漚(ふおう)の身    良寛禅師

わたしは川面を浮いて流れる漚(おう 泡に同じ)のようなもの。泡の身を惜しんでどうしようか。わたしのやるべきことは法華経の弘通(広く伝えて行くこと)だ。道元禅師の教えを実践することだ。ひいては菩薩の利他をして苦悩の衆生を救済することだ。

はい、さぶろうは我が身の泡の、行く末を惜しんでばかりです。そんなことをして、あたら大切な今日のひとときを過ごしています。泡ではあるけれども、泡を惜しむことはわたしのするべきことではありません。

泡が利他をすることができるというのも真実。泡が菩薩の行をすることもできるというのも真実。泡が法華経を弘通することもできる、これも真実。さぶろうは、しかし、そんな菩薩の行はできない。良さまではない。さぶろうは今日はほんわかして石蕗の花を見ている。良寛さまの浮漚の戒めがぐさりと刺さって痛い。

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清風明月 是れ真怪 

2015年10月29日 11時07分02秒 | Weblog

「清風明月 是れ真怪」        東洋大学の創始者 仏教学者 井上円了の言葉より

清風が吹いてくる。名月が夜空に上がる。これほど奇っ怪なものがあろうか。「老狐幽霊は怪物に非ず」の句がこの前に来ている。井上円了は幽霊好きだったらしい。「化け狐とお墓の幽霊、そんなもんに驚くわけにはいかないぞ。ほんものの摩訶不思議はそこにある清風と名月だ」さらに突き詰めて言えば、この己こそは真の神秘、摩訶不思議体だったのだろう。今おれが生きているというこの事実、この説明不可能な事実こそは神秘中の神秘。驚いても驚いても驚き足りまい。

1兆個の清風明月というお慈悲に遇っておきながら、どうだ、まだおれはその生のとっぺん先の、幽霊のような死を恐れている。おまえ、ほんとうに清風明月に遇って来たのか。おまえに足はあるか。おまえはふらふらふらつくばかりの幽霊か。

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吹きっさらしの雪溜まり

2015年10月29日 10時46分09秒 | Weblog

おれはもてない男だったなあ。つくづく。一生涯こうだった。その分、女の人にやさしいことをしたこともなかった。おあいこか。さしつ、さされつ、だもんね。おれは男性。性を持つ人間。なのに、やるせがなくて過ぎてしまった。女の人にやさしくしたいし、やさしくされたい。これは回りの男性と変わらなかったはずなのに、おれのしていることはついに逆方向。寒さが募る冬になると、不接触の我が身がつ~んと冷たい。女身を抱かない老いの身はふきっさらし。雪溜まり。

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鉄の棒と寝ている

2015年10月29日 10時33分01秒 | Weblog

麻痺の左足が冷たいよお~。おこたであたためても、あたたまらない。鉄の棒の左足。血流が滞って、燃焼の熱が伝わってこない。冬の夜はこの鉄の棒と寝ているようなもの。お布団の中でもあたたまらない。つ~んと冷たい。足首も足の脹ら脛も膝小僧も太股もつ~んと冷たい。女の人の、情け火の燃えるマグマ溜まりがほしくなるけど、それを期するの不自然で不道徳。硫黄の噴き出る熱い温泉に行って小半時も浴していたらよかろう。

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仏さまと平等の死を死ぬことができる (=同入円寂)

2015年10月29日 09時54分41秒 | Weblog

同入円寂 平等大智    真言宗経典「舎利礼」より

どうにゅうえんじゃく びょうどうだいち

お釈迦様が入滅されました。よって、わたしもまた同時にこの円寂といふ(仏と)平等なる(宇宙の)大智に入ります    

これはさぶろうの自己解釈です。曲解です。

「入円寂」をなさったのは釈迦如来です。これがあるために、わたしもこれに肖(あやか)って同じ円寂に入ることができるようになりました。仏さまがわたしのお手本です。導き手です。わたしはこの平等の大智(わたしが入円寂できるようになったこと)にあずかれます。この仏のお慈悲=宇宙の根本意思に感謝を捧げます。「舎利礼」の文言はここで閉じている。舎利とはお釈迦様の遺骨(遺された教え)をさしています。

仏さまは仏さまの功徳をそっくりそのまま分かち与えてお終いになります。けちられません。ご自分と平等を信条となさいます。それで「同入円寂」が適うようになっています。円寂は仏さまの覚りのご境界、真如界です。ですから、いまここに射して来ているやわらかな秋の日の光は、仏さまの光明と同じものです。別物ではありません。大智慧がここで実現しているのです。

仏さまが滅度されましたのでわたしが滅度するのです。仏さまが入涅槃されましたので、わたしもこれに準じることができるようになりました。わたしが死ぬのは仏さまをお手本としたものです。仏さまと平等なのです。この大智慧、大慈悲にお礼を申します。

 

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仏さまに相手をしてもらって大満足

2015年10月29日 09時30分56秒 | Weblog

仏加持故 我証菩提    真言宗経典「舎利礼文」より

ぶっかじこ がしょうぼだい 

仏が(我を)加持したまふが故に 我は(仏の)菩提を証拠す

仏さまとわたしがやったりとったりをして遊んでいます。まるで、合計4本の手で児戯の「せっせえのよいよいよい」をしているようです。仏さまがわたしを「それでいいんだよ」「恐がることは何もないんだよ」「安心していればそれでいいようになっているのだよ」と言いながらにこにこして見守っておられます。でありますから、こうして、わたしは仏さまの智慧のお示しになる通りにしていればそれですんでいます。何事もなくすんでいます。これが仏さまの菩提を証拠していることになります。わたしは仏さまに相手をしてもらって大満足でした。

仏の護念によってゆったりとした地球時間を過ごさせていただきました。わたしはまもなく次の地点へ向かって出発をします。

「菩提を証拠す」というのは、仏の加持(大慈悲)に身をゆだねて、安心をしているということでした。秋の日の、やわらかな光がわたしの延べた足下に射しています。

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そんな閑はないぞ

2015年10月29日 09時04分47秒 | Weblog

「そんな閑はないぞ」とぼやきながら、一休憩。「まあまあ、そう言いなさんな」とこれも独り言。おこたに温まって蜜柑を剥く。6時半のラジオ体操を済ませて、農作業の服に着替えて外に出た。まずは伸びていた小葱を摘んで竹篭に盛った。それから裏へ回り山茶花の木にぶらさがっている隼人瓜を、脚立に捕まって、もぎとった。7個も。それから長崎白菜のやわらかい若菜を間引きした。たっぷり。これを洗って揃えて、前の家の3軒にお分けした。よろこんでもらえた。8時過ぎになってやっと朝ご飯。松茸ご飯が炊けていた。味噌汁はスープなし。大量の野菜がほとんどみんなスープを吸い取ってしまっていた。余りにも余りにも野菜が収穫されすぎて、これを食べてこなすのに一苦労というところだ。食後の果物は柿。包丁で皮を剥いて16等分した。新聞に目を通す。午前中の内にサイクリングにでも出たい。空豆、絹莢エンドウ豆、実エンドウ豆の苗の植え付けもまだすんでいない。それなのにこうして炬燵に足を延べてゆっくりする。日の光は部屋の中へ深々と侵入してきてここで屯している。

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お手本は如来さま これに従う

2015年10月29日 06時20分22秒 | Weblog

お手本は如来さま。これに従う。如より来ること、如に去ることを我が身を以て示された。これに従えばいいのだ。すると汝も如来、我も如来。山川草木もみな如来如去。お手本は如来さま。

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松茸ご飯の素を買って来てご飯

2015年10月29日 06時09分42秒 | Weblog

ご飯がもうすぐ炊きあがる。松茸の香りが匂って来るよ。ここまで匂って来るよ。お布団の中までもだよ。お腹がぐぐぐぐと鳴るよ。赤松の林の中にいるようだよ。

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如来 如より来るものは真如なり

2015年10月29日 05時50分59秒 | Weblog

如より来るものは如来のみに非ず。虚空もしかなり。光明しかなり。色もしかなり。声もしかなり。峯も渓の響きもしかなり。みなことごとく如来なり。如より来る。汝も我も如より来り、如に去るものなり。ここも真如界なれば去るところもまた真如界なり。われらともに如来如去。三千大千世界は我を待って恒に如来如去す。

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