期するところは弘通(ぐつう)に在り 誰か惜しまん浮漚(ふおう)の身 良寛禅師
わたしは川面を浮いて流れる漚(おう 泡に同じ)のようなもの。泡の身を惜しんでどうしようか。わたしのやるべきことは法華経の弘通(広く伝えて行くこと)だ。道元禅師の教えを実践することだ。ひいては菩薩の利他をして苦悩の衆生を救済することだ。
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はい、さぶろうは我が身の泡の、行く末を惜しんでばかりです。そんなことをして、あたら大切な今日のひとときを過ごしています。泡ではあるけれども、泡を惜しむことはわたしのするべきことではありません。
泡が利他をすることができるというのも真実。泡が菩薩の行をすることもできるというのも真実。泡が法華経を弘通することもできる、これも真実。さぶろうは、しかし、そんな菩薩の行はできない。良さまではない。さぶろうは今日はほんわかして石蕗の花を見ている。良寛さまの浮漚の戒めがぐさりと刺さって痛い。