サイクリングに出た。久方ぶりで北の方角へ。北は背振山脈がなだらかに聳えている。これを仰ぎながら走る。仰ぐというのはいい気持ちだ。顔を上げている姿勢がそもそも健康的なのだ。朝日橋を渡って聚落の奥に潜む薬師如来堂に参詣した。ちんまりしたお堂だ。お大師さまも祀られている。お遍路さんの札所だ。お堂の前には小川が流れている。袂の水辺にミゾソバの花の群落を見つけた。花は服に付けるボタン風でピンクと白が入り交じっている。実に清楚だ。あまりの美しさに息を呑んだ。お薬師如来からのビッグプレゼントに思われた。
サイクリングに出た。久方ぶりで北の方角へ。北は背振山脈がなだらかに聳えている。これを仰ぎながら走る。仰ぐというのはいい気持ちだ。顔を上げている姿勢がそもそも健康的なのだ。朝日橋を渡って聚落の奥に潜む薬師如来堂に参詣した。ちんまりしたお堂だ。お大師さまも祀られている。お遍路さんの札所だ。お堂の前には小川が流れている。袂の水辺にミゾソバの花の群落を見つけた。花は服に付けるボタン風でピンクと白が入り交じっている。実に清楚だ。あまりの美しさに息を呑んだ。お薬師如来からのビッグプレゼントに思われた。
あんまりたくさんは要らないんだなあ。さぶろうを静かにおだやかにさせる分にはあんまりたくさんは要らないんだなあ。そこに光があって、アスパラガスの柔らかい薄緑の茎や葉がゆうらりゆらり揺れていればいいんだから。今はそれ以上やそれ以外を欲しがらなくていい。(いままでどれだけ欲しがってきたことだろう)そこにあるものの価値を再発見していられる。ここがいいなあ。のんびりしているだけでいいというところ。今日はここの居場所に一人でいる。
シジミチョウが石蕗の黄金に止まって二枚の羽をひらひらさせている。羽の色がこれまた黄金なのでよおく見ていないと彼女の妖しい容姿が確認できない。もうすぐお昼だ。光が降ってそこら中に跳ねて、そして律儀に返している。里は秋を深めて、さぶろうを静かにおだやかにさせている。
さぶろうの言っていることはまるで唐人の寝言だ。ぶっだんさらなんがっちゃーみー。だんまんさらなんがっちゃーみー。何を言っているかさっぱり理解ができないだろうなあ。そりゃそうだろう。みんなさぶろう宛の独り言だもんなあ。読んでもらおう、人様にわかってもらおう、なんぞという不届きはおこしてはならない。不届き者になってはならないんだよなあ。
そりゃそうなんだけど、今日はお天気がいいなあ。空が澄み渡って、透明で、伸ばした手の、拳がそっくり宙を抜けて行くようだなあ。
こんないい日和の日にあの人はどうしているんだろうなあ。まだ美しい人間をしているんだろうかなあ。秋空のように白い透き通る素肌をしているんだろうかなあ。ともあれ、さぶろうごとき老醜はとても相手なんかしてもらえないだろうなあ。そりゃ無理もないことだよなあ。なら、めえめえ羊雲が相手だ。そうらまた唐人の寝言だ。
さぶろうは果報者である。
聞けないはずの仏法を聞いたのだ。遭えないはずの仏に遭ったのだ。受けるべきはずがない仏のお慈悲を現に今受けているのだ。お慈悲の秋空が真っ青に広がっていて、今日はやたらに深い。
これまでのさぶろうの苦労が木っ端微塵になって吹き飛んでいくなあ。
さぶろうはこれでもずいぶん苦労をしたと思っているのだ。それでときどきでかい大きな顔をするのだ。お慈悲の質や量からするとほんのわずかな芥子粒ほどの苦労だったのに。
わはっは、なんだなあ。けらけら笑っちゃうよなあ。
受け難き人身をうけて、あひがたき本願にあひて、おこしがたき道心を発(おこ)して、はなれがたき輪廻の里をはなれて、生まれがたき浄土に往生せんこと、悦びの中の悦びなり。 浄土宗経典 元祖大師御法語「一紙小消息」より
*
悦びの中の悦びに遭っているのなら、悦ぶほかにないではないか。
第一の悦び:おれはこの世に仏を仰ぐべき人間になって生まれて来た。
第二の悦び:おれは阿弥陀仏が立ててくれていた本願の対機であった。
第三の悦び:おれは仏陀の教えを聞いてこの道を歩いている。
第四の悦び:おれはもうすぐ輪廻の里、迷いの世界を離れることが約束されている。
第五の悦び:おれは阿弥陀仏の浄土に往生を果たすことが決定している。
第六の悦び:どの一つを取ってみても至難であったのに、これを仏陀のお慈悲を蒙って悉くクリヤーしてきた。
第七の悦び:おれはそれを悦んでいる。
第八の悦び:おれは仏陀のお慈悲を悦ぶ身になっている。
第九の悦び:こうせしめられるほどの自分を結果できた。
第一〇の悦び:これでこの世に生まれて来た甲斐性がすべて完了した。業績過分であった。パーフェクトだった。
*
では、さぶろう、おまえほんとうに悦んでいるか。そのうちの一つでも悦んでいるか。顰めっ面のさぶろう、答えに窮す。
さあて、今日は何をしようか。それが見付からない。どうしてもしておかねばならないということもない。してもしなくてもいいことばかりなので、決断が付かない。なら、朝寝、昼寝か。
お天気がいいなあ。秋日和だなあ。畑に出て秋野菜の間引きをするとするか。昨日の夕食の小松菜がおいしかった。わんさか喰った。今日は幼くやわらかいチンゲンサイの料理をして熱燗を飲むとするか。
それにしても閑だなあ。光が降る降る。
この2,3日、弟が昏睡状態に陥った。どうなることかと思った。昨日見舞ったら話が普通にできた。あれこれ幼い頃の話をした。おだやかだった。今日も行ってみよう。胸板の厚い弟だ。バタフライの選手だったころの話でもしてみよう。痛みは強い薬のおかげで感じないで済んでいるようだ。
鱗雲:さぶろう、おまえがしょっちゅう口にするその仏を見せろ。
さぶろう:へえ。仏はこのさぶろうでございます。さぶろうをさぶろうにしているはたらきでございます。さぶろう、生きろ生きろという声と働きとお力がさぶろうに集中してきて、さぶろうを仏にしております。
鱗雲:仏はさぶろうのことか。
さぶろう:へえ、他の何処かにいる仏ではありませんでした。
鱗雲:仏はさぶろうを前引き後押しをしているばかりではなかったのか。
さぶろう:へえ、それだけではなかったようなのでございます。さぶろうひとりでは到底さぶろうになることができませんでした。上も下も右も左も近くも遠くも、ぐるりも、渦巻も渦巻の中心も、さぶろうをさぶろうにしようとして力を尽くしておりました。
鱗雲:ということは?
さぶろう:へえ。さぶろうをさぶろうひとりにしてはおかなかったすべての慈悲もすべての智慧もすべての光もみなわが仏さまでありました。
鱗雲:では、おれもさぶろうの仏ということになるのだな。
さぶろう:へえ、さようでございます。まちがいなくお味方で、親しく力を尽くしていただいておりました。
ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、疑いなく往生するぞと思い取りて申すほかには別の仔細候らわず・(中略)念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、(中略)ただ一向に念仏すべし。 浄土宗経典 法然上人「一枚起請文」より
「一代の法」=お釈迦様が一代かかって説かれた夥しい経典のこと。
*
疑いは知より生ず。知は仏をも疑う。わが知を笠に着て仏の指し示す「念仏往生」「極楽往生」を疑う。わが知が仏の知を上回ると思い込んで疑いに懸かる。
愚鈍のわれにして智者のふるまいをす。愚鈍を恐れて知恵者を装う。
このわが傲慢の行く末を案じ給う阿弥陀仏あり。六字の名号を差し向けられたり。極楽も往生もこのわずか六字の念仏に含みおかせられたり。
*
庭に石蕗の黄金が咲いている。明るくあたたかく咲いている。光を疑わず光を浴びている。石蕗は知に拠らず才に依らず疑いに由らず。即身に即心に光に同化している。
そんなことをしないでもよかった。ああ、よかった。そんなこともできないのかと自嘲したこともあったけれど、すっかり老いてしまったいまでは、そんなことに手を染めなくてよかったという見方に変わっている。なるべき静かに生きていたい。大金持ちの贅沢もしないでいい。肩で風を切る大見得も張らなくていい。偉そうな物言いもしなくていい。庭の片隅に小さなホトケノザが薄紫の花を着けて風に戦いでいる。秋の日を受けている。これでいい。この静かさがいい。
どうしてさぶろうは草のように静かに生きられなかったのだろう。おれは強いんだぞ、おれは賢いんだぞ、おれは偉いんだぞ。おれは物持ちなんだぞ。口がこうやって威張り散らそう威張り散らそうとしてきた。草ではないぞ、人間だぞということを言いたくて、草よりも大袈裟な振る舞いに出ていたのだろうけど、過ぎてしまえばそれが何だったというのだろう。あれもこれもが今は静かに恥じられてくる。