間違わないでいる者がいるのか。間違っていないという確信はどこまで正しいのか。「おのれ一人は間違いを起こさずに生きて来た」などということがありうるのか。
表に出したものは修正を加えることで善を繕うことはできるかもしれない。しかし、己の内側に隠しているもの、表に出さなかったものはさまざまに矛盾をはらんでいるのではないか。己の闇の部分を透視されたらそこは蛇蝎の巣窟になっているのではないか。
人をあれこれ論(あげつら)うとき、人の間違いを正面切って非難するときにふと、「では己はどうなのか」という自問が起こるはずである。そして忸怩たる思いになるのではないか。
「そんなことが言えた己ではなかった」という答が喉元に上がってくるのではないか。己を勘定に入れず攻撃を押し通そうとしていた己に対して猛烈な羞恥心が涌いて来ることもあるのではないか。
では他者に対して一切批判めいた口を挟まないことは正しいことか。それも疑問だ。人は立場上で相手を断罪する義務を負うことがあるかもしれない。それで師の面目を保ち、友人との友情を育まれ、社会正義が構築される場合だってあるだろう。
では、己の間違いを指摘されることはどうか。指摘されて己の道を糾してもらうのなら、そこに憤りを覚えないでもいられるはずである。己の方が間違っていたという受け取りは難しい。しかし己が完全完璧ではない以上、その指摘はありうるのである。
間違っていないとする自負、ないし自己認識は、傲慢に陥る危険性も含んでいるが、自己を安定させるだろう。そう言う面は否めないはずだ。己は間違いを多く含んでいるという自己観察は、しかし、己を謙虚にしてくれるだろう。その方向には他者の受容の道が開かれるだろう。
ここまであれこれ考えて来たが、さぶろうは仏陀の道を進もうとするときに己の邪悪性、罪悪性が大きく立ちはだかって来て、自力ではその躓きの大岩を越えていけなくなるのだ。ところが仏教は「間違ったこころを抱く者はこの道を進むべからず」とはしていない。「間違いの泥沼に沈んでいる者よ、汝こそはこの仏陀の門を開け」としているのである。