<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

汝こそはこの門を叩け

2016年08月19日 17時31分54秒 | Weblog

間違わないでいる者がいるのか。間違っていないという確信はどこまで正しいのか。「おのれ一人は間違いを起こさずに生きて来た」などということがありうるのか。

表に出したものは修正を加えることで善を繕うことはできるかもしれない。しかし、己の内側に隠しているもの、表に出さなかったものはさまざまに矛盾をはらんでいるのではないか。己の闇の部分を透視されたらそこは蛇蝎の巣窟になっているのではないか。

人をあれこれ論(あげつら)うとき、人の間違いを正面切って非難するときにふと、「では己はどうなのか」という自問が起こるはずである。そして忸怩たる思いになるのではないか。

「そんなことが言えた己ではなかった」という答が喉元に上がってくるのではないか。己を勘定に入れず攻撃を押し通そうとしていた己に対して猛烈な羞恥心が涌いて来ることもあるのではないか。

では他者に対して一切批判めいた口を挟まないことは正しいことか。それも疑問だ。人は立場上で相手を断罪する義務を負うことがあるかもしれない。それで師の面目を保ち、友人との友情を育まれ、社会正義が構築される場合だってあるだろう。

では、己の間違いを指摘されることはどうか。指摘されて己の道を糾してもらうのなら、そこに憤りを覚えないでもいられるはずである。己の方が間違っていたという受け取りは難しい。しかし己が完全完璧ではない以上、その指摘はありうるのである。

間違っていないとする自負、ないし自己認識は、傲慢に陥る危険性も含んでいるが、自己を安定させるだろう。そう言う面は否めないはずだ。己は間違いを多く含んでいるという自己観察は、しかし、己を謙虚にしてくれるだろう。その方向には他者の受容の道が開かれるだろう。

ここまであれこれ考えて来たが、さぶろうは仏陀の道を進もうとするときに己の邪悪性、罪悪性が大きく立ちはだかって来て、自力ではその躓きの大岩を越えていけなくなるのだ。ところが仏教は「間違ったこころを抱く者はこの道を進むべからず」とはしていない。「間違いの泥沼に沈んでいる者よ、汝こそはこの仏陀の門を開け」としているのである。

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真っ直ぐ立っていないで倒れてしまへよ

2016年08月19日 16時52分25秒 | Weblog

今まさにたふれんとする潮波(うしほなみ)ますぐに立てりたふれてしまへよ

木下利玄  大正8年歌集「紅玉」より

彼は山陰地方へ旅に出た。そこで日本海の波浪の打ち寄せるさまを見た。岸へ向かって潮が気丈に押し寄せてくる。己を崩すことなく、実直に。波頭を真っ直ぐに立てながら。そして大きく崩れて果てる。その瞬間を己のこころのカメラに写したのだろう。動的であってしかも静的である。そしてそれほど己を律儀に頑なに堅持することはないではないか、崩れるときが来たら思い切り崩れてしまへと結論づけて、歌が閉じられる。波音が高くなって終わる。なんとも不思議なダイナミックな構成になっている。潮波はそのまま作者の生き様の投影かもしれない。

生涯で彼はこどもを3人も次々に亡くしている。彼の孤独癖はさらに深まって行っただろう。学習院時代に志賀直哉、武者小路実篤らと文学的交流を持ち、明治43年「白樺」が創刊された。後、北原白秋らの「日光」同人に迎えられた。

歌を詠むと言うことはそこに己を見ることかもしれない。己にはそう見えるのだ。それを客観化することで、己の向かうべき方向が明瞭になってくるのかもしれない。

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村里に泥棒猫をり

2016年08月19日 14時51分15秒 | Weblog

村里に泥棒猫をり 秋刀魚焼く風を盗んでをれば楽しき     李 白黄

焼き秋刀魚の臭いを盗むぐらいの泥棒猫だから、なんとも「ちょこざい」である。鼻を近づけて風を吸うのを密かな楽しみにしている。なんと小物か。いや、生涯その小物を通すとなれば、それはそれ、小物にしておくには聊か勿体ないかも知れない。

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秋艸道人・会津八一に憧れる

2016年08月19日 14時27分50秒 | Weblog

文献に拠れば、会津八一は明治14年新潟市に生まれ、昭和31年同じ新潟で没している。秋艸道人(しゅうそうどうじん)・渾斎(こんさい)の号がある。早稲田大学英文学科在学中に恋をしたが破れ、その後は生涯独身を通した。初め句作に傾倒した。大学卒業後は帰郷し英語教師となった。明治41年奈良を旅して美術への関心を深め、短歌に転じた。大正15年より母校早稲田大学に戻り、東洋美術史を講じた。法隆寺の研究などにより文学博士となった。歌集には「南京新唱」「鹿鳴集」「山光集」などがある。昭和20年大学を辞して故郷新潟に戻った。書が巧みであった。骨太な、骨格のある文学人である。

秋艸道人は若い頃からさぶろうの憧れる人である。何かというと此の人の元へ急ぎ足で戻って来る。歌を読んで安らぎを得ている。だがしかし聊かの理解も及んでいるわけではない。泥棒猫が塩鰯を盗むようにして、彼の歌集に分け入って、高尚な作品を盗み読んでいるばかりだ。

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我が短歌鑑賞 会津八一の歌

2016年08月19日 14時01分08秒 | Weblog

すゐえん の あま つ をとめ が ころもで の ひま にも すめる あき の そら かな

会津八一「南京新唱」より

ここは奈良薬師寺東塔である。塔の九輪の最上部に火焔の形をした水煙が嵌められている。水晶体の水煙には火を調伏する力が宿っている。ここに「あまつをとめ」つまり天女が彫られている。飛天たちは笑みを浮かべながら舞を舞っている。もちろん薬師寺の境内に臨席している菩薩や如来たちをお慰めするためである。彼女は透明な薄衣を着ている。それが風に戦ぐ。「ひま」とは「隙間」すなわちほんの小さな空間部のことか。天女の羽衣には衣手、袖がある。袖が戦ぐ度に隙間ができる。その微かな隙間にも秋の空が澄み渡っている。というのである。東塔の九輪は高いところにあって、それほど細部がくっきりと見えているはずはないが、作者はそれを見て取っているのだ。想像を駆使することでそこにそれが開陳する。高い塔の、九輪の水煙近く、そこを荘厳するべく青く澄んだ秋の空が、一気に神々しいまでの美しさを加えているではないか。

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薄切り韓国南瓜の味噌汁

2016年08月19日 11時25分10秒 | Weblog

朝ご飯は、薄切りの韓国南瓜と茸入りの味噌汁、小葱入りの卵焼きロール、ビーフン麺入り胡瓜の酢物、それに餅米・山菜のおこわご飯だった。量はお椀に半分ほど。デザートにカシウリを数切れ食べた。西瓜入りヨーグルトまでは食べきれなかった。老爺は朝からこれだけの贅沢を摂取した。今日くらいはサイクリングに行かなきゃね。

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欲望肥満症・幸福肥満症・快楽肥満症も苦である

2016年08月19日 10時17分56秒 | Weblog

人間には五蘊盛苦(ごうんじょうく)という苦しみがある。

「五蘊盛苦」の元のパーリ語は、「パンチャ・ウパーダーナ・カンダ・ドゥッカ」(pañcupādānakkhandhā dukkha)という言葉である。 「パンチャ」は「五つ」、「ウパーダーナ」は「執着する、固執する」、「カンダ」は「要素(蘊)」、「ドゥッカ」は「苦」という意味なので、 「五つの要素に執着する苦しみ」というのが原文の意味である。(以上、ネット検索に拠った)

「蘊」とは、梵語skandha、「集合体」の意。「陰」とも書く。「五蘊」は現象界の存在の5種の原理を指す。すなわち、色(しき)・受・想・行(ぎょう)・識の5つである。物質と精神の諸要素を含めている。

色は物質・肉体。受は感受作用。想は表象作用。行は意思・記憶など。識は認識作用。

この世の一切の存在は五蘊から成り立っている。それ故に無常であり無我であると説かれている。(以上、電子辞書に拠った)

つまり執着する苦しみである。我が身心にさまざまなエネルギーが蓄積され過ぎてそれが夜昼構わず盛んに活動をして来る。これの自己管理が出来なくなったとき、処理ができなくなったときにふつふつと苦しみが起こる。早く言えば持て余してしまうのだ。

旺盛な性欲、滾り起こる生命興隆力などもそうだ。プラスが多すぎている状態だ。上手に活用しているときにはいいが、これが腐敗し出すと腐敗臭に手をこまねいてしまうことになる。かといって棄てるに棄てられない。価値があるからだ。

喩えて言うなら、ご飯を炊いているときの釜とご飯と火の勢いのようなものだ。火が強すぎると釜の中のご飯は焼け焦げてしまう。弱すぎるとご飯は立ち上がらない。火の勢いは己の欲望のすさまじさだ。これを材料にして燃やして生命維持を謀っているが、適度でなければならない。適度でなければならないが欲望は強いので不必要分まで貯め込んでしまうのである。

お坊さんは精進料理を作る。カロリーの高い肉や魚などは摂取しない。僧坊の生活を送るには野菜だけで十分だと計算したのである。体内に摂取したエネルギーが昂じると排出の必要が生じる。身心はバランスを取らねばならないからだ。だから貯め込まない工夫をする。意志強固であれば制御できるかもしれないが、己の制御能力の低さに苦しむのである。妄想が湧き起こって悶々とするのである。

プラスなものはどれだけあってもよさそうなのに、そうはいかない。貯め込みすぎると巧く行かないのである。プラスなものでもそれを消化した後には排便排出をしなければならない。そうでないと新種のプラスは流入してこれないのである。しかし、刺激は次々に起こって来てそれを摂取したがる。

盛んなのは食欲、性欲だけではない。名誉欲もそうだ。金銭欲、出世欲、支配欲もそうだ。あればあるほど欲しがるからパンクしてしまうのだ。体力や性力や健康力、運動能力、精神力が強い人は傍からみると羨ましい限りだが、その処理に苦労が伴うのである。「ちょうどいい」くらいがいいのである。余分は貯め込まないことである。

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五蘊盛苦。いろいろなものが盛んになってくる苦しみ。プラスを貯め込んで減らせない苦しみ。欲望肥満症、幸福肥満症、体力肥満症、精神力肥満症、これも四苦八苦の一つである。己に価値があれば、価値への執着が免れないのだ。

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それを自己コントロールできるか出来ないか。制御不能になるまで太ることはないのである。痩せ我慢といわれそうだが、やはり小欲知足でいいのかもしれない。僅かで足りていたらそれが最適かもしれない。

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我が持ち分をできるだけ減らして行く。少なくして行く。軽減して行く。重くしないで軽くして行く。仏教はそんなことをアドバイスしているが、しかしこれは至難な業なのだ。己から五蘊のプラスを差し引いていく行は修行者であってはじめて可能なことかも知れない。

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老爺の耳はそれほどエネルギッシュではない

2016年08月19日 10時09分57秒 | Weblog

わはは。昨日の夜のコンサートは楽しめなかった。テンポの速い若者向きの音楽だった。老爺の耳はそれほどエネルギッシュではないので、受け入れかねた。エレキギターとドラムと金管楽器がまだ耳の底に甲高く響いている。主宰者のお誘いを無にしてはいけない。そこのところだけが成就した。老爺はスローテンポの静かな交響曲を平和な心で聴きたい。

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ふふふの笑い声が込み上げて来る

2016年08月19日 09時44分11秒 | Weblog

ふふふの笑い声が込み上げてくる。我が家の畑に西瓜が実ったのだ。幾つか収獲した。畑に色の付いた糸を張り巡らして、空を旋回して見張っているカラスの襲撃もかわした。上出来とは言えなくとも、甘さもまあまあだった。種をぷぷと吐き出しながら、してやったりの笑いも噴き出して来た。こどものままごと遊びに込み上げてくるふふふが、久しぶりで我が胸にもまたしばらく宿を取ることになった。小玉の西瓜、黄色の西瓜、外皮が黒の黒西瓜なども珍しかった。それぞれの風味だった。これで味を占めた。こんなに楽しいのなら来年も作ろうという気になった。現金なものだ。メロンは失敗したが、カシウリは成功した。それがまあまあの甘さなので、3時のおやつにもなった。我が家では消費しきれないので、人様にもお分けした。

しかし、この暑さだから、管理の手が行き届いたということはなかった。定期的に施さねばならない施肥も十分ではなかった。夏草が茂った。それが天敵のカラスを封じたことになったかもしれない。これから涼しくなってきた段階で草取りに専念しなければならない。土に礼肥をしてまた土の勢いを回復させてあげたら今度は白菜、大根などの冬野菜の種蒔きをすることになりそうだ。老爺といえども相応に忙しい。

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日本選手のメダルラッシュに沸く

2016年08月19日 08時52分44秒 | Weblog

寝て起きて拍手喝采して寝て起きて悔しがってオリンピック中継番組を見ている。こうなると睡眠が不足する。夜が明けた。もうしどろもどろだ。レスリングフリースタイル日本女子のキャプテン格の吉田沙保里選手がラストの決勝戦を戦ってアメリカの若手選手に敗れ、号泣した。オリンピック4連覇はならなかった。彼女は応援の人たちにごめんなさいを繰り返した。バトミントン女子ダブルスの決勝戦に進んだ日本の高橋・松友チームが第3ゲーム、4点差を撥ね返してとうとう金メダルを勝ち取った。日本人初の快挙だった。寝もやらずにライブにかじりついていた多くの日本人たちが、これでまた元気をいっぱいいっぱいもらったはずだ。日本が獲得した金メダルは合計11個。金銀銅のどれにも沸きに沸いた。ともかくめざましい活躍ぶりである。初戦敗退で去って行かざるをえなかった選手達の嗚咽も聞こえて来るが、ここに至るまでの長い苦闘の歴史をも讃えたいものだ。

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