<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

それを羞じる

2016年08月27日 20時02分19秒 | Weblog

すまぬ。数多くの他者をさしおきて、わたしが最勝の善生を生きている。賢者が、我が身に持つ理性によって、鋭利な理性判断によって、却ってことごとに行く道を遮られている中で、愚鈍愚者のわたしはここを擦り抜けて、仏法聴聞に辿り着いている。仏陀を仰ぎ見るところまで進んで来ている。利他の慈悲の舞台に、よりにもよって、わたしが躍り出ている。すまぬ。

そう思うことがある。傲慢に過ぎているのかもしれぬ。仏法に出遭うことが生死の中の最勝の善生である。折々なのだが、それに頷くことが出来ている。

それにしては、最勝の善生という位置にいながら、愚痴が多い。愚行が過ぎる。頑迷である。それを羞じる。

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わたしが生死の中の善生、最勝の善生を生きている

2016年08月27日 19時38分25秒 | Weblog

人身得ること難し、仏法値(お)うこと希(まれ)なり、今我等宿善の助くるに依りて、已に受け難き人身を受けたるのみに非ず、遇(あ)ひ難き仏法に値(あ)い奉れり、生死の中の善生(ぜんしょう)、最勝の生(しょう)なるべし。

禅宗経典「修証義」より

人間としてこの世に生まれて来るのは難事である。仏法に出遭うことは希なことである。いまわたしがこうして自他億万年の善の積み重ねの甲斐あって、この通りその受け難い人身を我が身に受けている。そこに止まらず、遭うことが難しい仏法に出遭って、これを聞き、こうして実践に及んでいる。これは生死の迷いを繰り返す中にあって、まさしく過ぎたる善生というべきものである。いやいや、わたしこそは最上最高の人生を恵まれていると言っていいだろう。

仏法に遇うということはこれほどに価値のあるものなのか。その最高価値の仏法に遇っておきながら、さぶろう、お前まだ日常にあれこれの不平を垂らすのか。俗界の不満を零すのか。

宿善とは宿世に成した善のことである。生死を百回繰り返して積み重ねた小石ほどの善である。しかしこれも我が善とだけとは限らない。他者がわたしに回向してくれたものもこれに合算されている。それがパワーを発揮して、他の誰でもない、わたしが人間に生まれ、その上で仏法にも出遭っている。仏法に出遭っていると言うことは仏陀に出遭っているということだ。仏陀を仰いでこれに導かれているということだ。「お先にどうぞ」「お先にどうぞ」と他者がわたしを押しに押していてくれるからである。

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同じく覚路を登らん

2016年08月27日 15時50分51秒 | Weblog

伏して願わくば、生死の流れに処して、欐珠(りじゅ)独り滄海に輝き、涅槃の岸に跨(こ)して、桂輪(けいりん)孤(ひと)り碧天に朗らかに、普く世間を導いて、同じく覚路(かくろ)に登らんことを。

禅宗経典「祠堂檀那諷経(しどうだんなふぎん)」より

この経は亡くなった者の命日に読みあげる経である。仏壇に香を焚き華を飾り馳走を供える。集まった者がみな仏典を朗読してその功徳回向により追善供養をする。死者はすでに仏の位を得ているので、われわれにこの善業を造らせるのである。

「生死の流れ」は流転する迷いの流れ。「欐珠」は龍の手に握る珠。「欐」は馬篇に麗が正しい。「滄海」は大海原。「涅槃の岸」は俗界の向こう側、すなわち仏界の岸。「桂輪」は明月満月のこと。「碧天」は雲一つない朗らかな虚空。「世間」はいまだ世間にあるすべての人々。「覚路」は悟りへの道。

先亡はすでに生死の流転の岸を離れ、涅槃界に暮らしている。そこでまたと得がたい龍珠が大海原に輝いているように、先亡は堂々と輝き渡っている。苦界を越えた涅槃界にあって美しい満月が雲一つない天空を照らしているように、先亡もまた明らかに照り輝いている。さあ、みなさん、ここに残った者みな相つれづれに手を取って、先亡と同じように、仏法による目覚めの大道を登り詰めていきましょうぞ。(これはさぶろうの自己流解釈)

弟を夢に見たのでこの経を朗読したくなった。ほんとうはこの経はお寺の開基坊さんの命日に読経するが、弟も僧の資格を持っていたので、ちょいと。

 

 

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この世の半分は俗界 残りの半分は聖なる真実界

2016年08月27日 15時32分09秒 | Weblog

硝子戸に鍵かけてゐるふとむなし月の夜の硝子に鍵かけること    葛原妙子

鍵なんかかけても月光の侵入は防げなかったのだった。防げたのは泥棒。恐怖心。俗界。真実界の月光はするするすると滑り込んでくる。聖なる真実界との交流をしたい分には鍵はたしかに空しい。空々しい。鍵は無力。明かりを消した寝室に光が来て我が物顔に跳ね回っている。

この世の半分は俗界だが残りの半分は聖なる真実界である。そこを行ったり来たり、跨いだり跨がれたり、顔を出したり隠れたり出来るのも楽しい。バラエテイが豊富で。

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夢の帳を破って弟 明るい顔の弟

2016年08月27日 15時17分16秒 | Weblog

うたた寝をしていたら、弟がやって来た。右手を高く挙げて。蓮の花束が握られていた。やあやあと言いながら、濡れ縁からまっすぐ僕の部屋に上がり込んできた。明るい声だった。若い顔だった。病気で倒れている顔ではなかった。去年の今頃はまだ家にいて、そこから通院していた。あまり食べられないはずなのに、あっちへこっちへ連れて行けと言った。病気が進行した。いよいよものが食べられなくなった。親族が集まった。みんなに見守られながら、10月末に他界した。さっきの夢の中の弟はきっぱり健康な弟だった。瞳がきらきらしていた。よかったよかった。境を異にしてよかったじゃないか。そうかそういうところなのか。充電が出来る所なんだな。元気いっぱいで過ごせるところなんだな。

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我が内にあらゆるものを具えている我

2016年08月27日 12時47分05秒 | Weblog

「存在のあらゆるものを具えたるわれ」の発見と認識が生まれたので、さぶろうは自己蔑視を離れることにした。卑下を放下した。わたしの狭さから解放されたのである。

この世に存在しているもの、そのあらゆるものがわたしに具わっていた。それはどうしてか。それに値したのである。その大きさがあったのである。その深さと広がりがあったのである。

わたしは山を具えている。河を具えている。海を具えている。空を具えている。星々を具えている。銀河も宇宙も具えている。この事実を発見して大悟したものが次々と仏陀となって行った。

地動説は覆り、天動説が台頭した。わたしが動き回る代わりにあらゆるものがわたしの尊厳の周囲を回り続けた。

わたしは、この世ばかりかあの世も具えていた。だから、わたしがあの世へ行くのではなく、あの世がわたしの中ですがたを見せて来るのだ。

わたしは諸仏も諸菩薩も我が内に具えているのだった。それが諸仏や諸菩薩の慈悲の実践であった。これは仏智見のしかあらしめるところだった。

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愛されていないという受け取りをすることがある

2016年08月27日 10時43分11秒 | Weblog

愛されていないという受け取りをすることがある。からだとこころが冷える。愛されているという受け取りに行き着くことがある。ここまで来るとやっとからだとこころがあたたまる。

からだを愛されたいという欲望がわきおこることがある。冷えて冷えてしょうがないからだがある。こころを愛されたいという欲望がおこることもある。冷えて冷えてしょうがないこころがある。

異性に愛されたいという欲望で眠られなくなることがある。凍えてしまうことがある。異性を愛したいという行動に駆り立てられることもある。焼け付いてしまうことがある。

魂が愛をほしがることがある。宇宙中の愛をほしがることもある。きらめいている星の光を見て、それをわたしの一身に浴びているうちに、宇宙中の愛に愛されているわたしを直感することがある。いまここで抱きしめられているという実感がわきおこることもある。

愛された分の万分の一億分の一、それをこちらから放射したいと覚悟することもある。覚悟だけで実行が伴わず我が身の無力を恥じることがある。星々の光に愛されているだけでこちらからはちっとも愛を返していないことが恥じられてならないこともある。

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海へ歩いて行って抱かれる

2016年08月27日 10時39分23秒 | Weblog

人と人は憎しみ合ってはいられない 海に歩いて行って抱かれる      釈 応帰

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憎しみ合ってなどいたくない

2016年08月27日 10時28分46秒 | Weblog

人と人とは愛し合っていたいのだ。憎しみ合ってなどいたくない。

憎しみ合ってなどいたくない。人と人とは愛し合っていたいのだ。

 

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人の中には愛がある

2016年08月27日 10時06分05秒 | Weblog

人と人は愛し合っていたい。憎しみ合ってなどいたくない。人と人は相手をしっかり見つめ合っていたい。冷ややかな無視などしたくはない。人の中に愛があることを相手の瞳の中にたしかめて、人間信頼を築き上げてこの世をおさらばしていきたい。わたしの中に愛があること、それを黙殺しないでいてくれる人の存在は大きな存在だ。

人の中には愛がある。熱い愛がある。それが全身を血のように流れている。このわたしの中の愛が生きること、わたしの中の愛が相手を生かすハタラキをし得たこと。それが人生最大の感動を呼び起こしてくれるのかもしれない。

人の中には愛がある。これをわたしの中だけに隠してはいられないのだ。表現していたいのだ。表現の中で愛がいのちを得て活動を開始する。わたしを愛する利己愛とはまったく別種の利他愛という麗しい愛の存在を発見することが、わたしの今生の人間発見だったということにも繋がるだろう。

わたしがわたしだけを愛することには狭さがあるが、そこを突き抜けて愛する人を見つけるとそこから一挙に広がりが生まれて、そこに人生の大空が開けてくるという展開になると、人は、この苦界を苦界ともせず、わくわくうきういきして生きていられるようになるのだ。愛する人のためにわたしの愛のすべてを活動させられるのなら、ここがまさしく欣求の浄土となるだろう。

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