日が傾いてきたようだ。そろそろ野良仕事に出る頃合いのようだ。夕風も出てきた。外に出てみたら、案外涼しいのかも知れぬ。
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なぐさむる もの なき ときに なぐさめて くるる ゆうかぜ あれ ば かなし も 釈 応帰
日が傾いてきたようだ。そろそろ野良仕事に出る頃合いのようだ。夕風も出てきた。外に出てみたら、案外涼しいのかも知れぬ。
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なぐさむる もの なき ときに なぐさめて くるる ゆうかぜ あれ ば かなし も 釈 応帰
このブログでさぶろうが書いていることは間違いだらけである。だから信用がならないものである。ただ己で解決が出来ぬ疑問を呈しているに過ぎない。仏教に類することをよく書いているが、みな出鱈目である。読者諸氏は己でさまざまに論究判断をしてほしい。さぶろうは僧ではない。いわんやその方面の学問をしているのでもない。迷いに迷っているだけである。拙論を開陳し、道を探し道を求め、あれに縋(すが)り此に縋りしているばかりだ。それでは申し訳ないのだが、いまだしこれほどの迷路にいる者もいるという事実の提示にはなれるのかもしれない。
「報(むく)い」「酬(むく)い」「報酬」とはどういうことか。考えてみたい。
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辞書によるとこうある。
① 善行や悪業の結果として自分の身に受ける事柄。返報。「不勉強の報いが来る」
② 善悪因果の応報。果報。
③ 仕返し。
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動詞の「報いる」「酬いる」ではこうある。
① 受けた恩義、行為に対してそれ相応のことを返す。労に報いる。
② 受けた被害や行為に対して仕返しをする。報復する。一矢(いっし)を報いる。
③ 報酬を払う。
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これに随する語の「果報」を見るとこうある。
① 因果応報。前世の行いの報い。
② 巡り合わせの善いこと。幸運。果報者。
「応報」=善悪の行いに応じて吉凶禍福の結果を身に受けること。
「因果」はこう説明されている。
① 原因と結果。②直接的原因と間接的原因(縁)の組み合わせによって様々な結果を引き起こすこと。仏法を悟り因果を知りて極楽に往生する。③特に善悪の業によってそれに相当する果報を招くこと、またその法則性。④悪業の果報で或る不幸な状態。不運な巡り合わせ。
仏教は「転」の思想である。「転」の実践である。転回ができる。通説通論などはひっくり返してしまうのだ。悪因悪果をもひっくり返してしまう。善因善果も転がしてしまう。拘束をされない。悪果こそが次なる善果だと受け止めてしまう。悪果を己の鍛錬の道具にしてしまう。道理をも転じて行くのである。こうなると現れた悪果はカタナシである。決定力を失ってしまうからだ。
「悪因善果」「悪因こそは善果の導き手」にして平気でいるところがある。「善果は悪因の初め」として善果に安住をしない。あれこれギアチェンジができる。善にも悪にも執着をしない。拘らない。それを無実態の「空」だとして撥ね除(の)けられる。そういう力をも持つ。支配されないのだ。彼はあれこれ「報われる」のを待たないで「報いる」側に力点を切り替えてしまう。「転」が起こるのだ。
1
不幸な出来事があったときに、周りが「それは己のなした悪の報いだ」「前世の祟りだ」「いいきみだ」などと囃すことがあるが、これには反発を覚えてしまう。そうは思いたくない。「親の因果が子に祟る」は非科学的だとうち捨てたくなる。その反対、一家が幸福にいるときに、「日頃が報われたのだろう」と賛辞を贈ることには同意する。
2
どんな苦境に陥っても「おれは果報者だ」「これが仏さまのおはからいだ」と妙好人は受け取れる。彼らは善悪のどちらが到来してもそれは「天恵・天の恩恵」「仏の慈悲」「仏智のしかあらしめるところ」であるとして報恩感謝する。これだと因果応報の法則が崩れてしまう。
3
「徹底して報恩感謝の大道を歩め」と仏教は教えてもいる。仏さまのご恩に報いよ、と。ご恩に報いていくことが、ひいてこの先に我が身が報われて行く。往生成仏に結果することになる。すべては善の報いで押し通していく。仏に遭ったのも善の報い、仏の教えを聞けたのも善の報い、仏の道を歩んでいけるのも善の報い、という具合に。彼らはご恩報尽に徹底する。
4
善因善果には目くじらを立てないが、悪因悪果のルールには抵抗を覚える向きもあるだろう。結果したのはそこにそうなる原因を作ったからだ、尻を拭うのはお前だ、という指摘はどうも冷たすぎるように思われる。「人を苦しめた分は己が苦しんでその代価を支払え」というのはいかにも冷ややかすぎる。
5
因果応報の因果論・因果律を縦にとって「今日を善果の原因作りの日にする」「善果を明日受け取るために今日を原因にして働く」という筋道の立て方もある。善因があって善果があるのなら、それが不動のルールなら、その流儀が正しいことになる。そうすればあとは善果を待って暮らしていけるはずである。
6
己の悪事は畢竟、己に降りかかってくるから「悪事をなすな」だけだったら社会倫理である。儒教の道徳である。「一日一善」「善の勧め」に過ぎないのならただの子育ての躾論である。仏教はどうだろう。これを真理にまで高めているからにはそれなりの理由があるはずである。
7
世の中には「我は我が善果をいま此処で受けずにいられる」としてわざと貧乏暮らしを貫いている高徳の隠者もいる。「我はいま此処で悪果を引き受ける能力がある」と自負を持つ変わり者もいる。人に代わって悪果を引き受けることができるのは菩薩の行である。そういう仏道修行もある。そうするのが己の善因になる。
8
因果の道理は三時にも引き継がれると禅宗の経典「修証義」は教えている。現世で報われるか、次生で報われるか、さらにその先の世で報われるか。報う側に回るか、報われる側に回るか、立場を違えると因果論は少し趣を変えるかもしれない。因果論に支配されずに、それに堂々と向かって行くのである。我が仏陀に代わって報いて行くのである。いそぎ往生成仏を果たすのはそのためである。
「三時」
善悪の報に三時あり、一者(ひとつには)順現報受、二者(ふたつには)順次生受、三者(みっつには)順後次受、これを三時という。
禅宗経典「修証義」第1章にこうある。善に善の報いがあり、悪に悪の報いがあるが、それがいつになるか。およそ三通りがある、と。
善の「報いがある」という指摘は受け入れるが、「それは悪の報いだ」というのはどうもいただけない。今日の平穏な暮らしは、善が「報われている」からだ、と思いたい。恩義に「報いない」では恩知らずである。仇を討ち取って一矢に「報いる」のでは恨みは消えない。「因果応報」「因果は廻る」というのはほんとうなのだろうか。
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順現報受(じゅんげんほうじゅ)とは、現世の行いの報いを現世で受けることを指す。順次生受(じゅんじしょうじゅ)とは、現世の行いの報いを次の生で受けることを指す。順後次受(じゅんごじじゅ)とは、現生の行いの報いを後々の生で受けることを指す。
新しくなるために消えて行くものたち/消えて行くとその後へ新しいものが生まれて行く/途絶えたと見せて途絶えることはなく/次へ次へと繋がり広がって行く/開かれて行く/留まることがないために仕組まれた大きな仕組みに/彼らは己を委ねて行く/意気高く/誇り高く/過去から現在へ/現在から未来へ/未来へ未来へ、と/消えたはずの過去が現在へ現れ/消えないはずの現在がいつのまにか消えて/消えると同時にそこに未来が擡頭している/ああ、新しくなるために消えて行くものたち/世界を新しくするために世界へ消えて行くものたち/世界へ消えて行くものたち/美しく尊いものたち/新しいすがたをまとって次々に出現して行くものたち/
おはようございます。今日はスポーツの祭典リオのオリンピックの閉会式を迎えます。17日間のドラマが過ぎ去りました。昨夜は眠い眼を擦り擦り、最終日を飾る男子マラソンを見ました。期待の日本勢は、残念ながら、上位入賞ができませんでした。スポーツは勝ち負けを結果しますが、そこだけが過大評価されるようになると首を傾げたくなります。「ちょっと違うんじゃないか、もっと爽やかなものなんじゃないか。ともに全力を出し切ったというところで互を讃え合うものなんじゃないか」などと思ってしまいます。レースはいつも過酷で熾烈ですね。敗者になった選手はみな泣きの涙です。国を代表して競技をするので、国の勝ち負けのようにもなってしまうところがありますが、見方を大きくして健闘をねぎらいたいものです。楽しませてもらいました。手に汗を握りました。
マラソンコースに沿って映し出されるブラジルの町並、山や河や海がとってもきれいでした。行ってみたくなりました。もうこの高齢の老人だから行ける機会はないでしょうが。