護られている。わたしは護られている。多くの人々はそれを直感していたのではないか。そしてそのアンサーとも言うべきを返していたのではないか。それが「護呪」というものの実態なのかも知れない。
彼らはわたし(或いはわたしたち)を護ってくれた神々、明王、菩薩、如来の名を呼び、それらと対面していたのである。そしてそれが「わたしがここにいまあるのは偏にあなたの力に依るものです」という信仰告白に昇華されていったのではないか。
「あなたがわたしを護ってくれました」「わたしはあなたの名前を唱えながら、あなたを慕いあなたを思い続けます」と感謝を捧げていたにちがいない。それがひいては、「これからもわたしたちを護って下さい」「わたしたちの種族を、わたしたちの同胞を、わたしたちの先祖や子孫を護って下さい」という未来形の祈りにも拡大していったのかもしれない。
彼らは薬を飲むようにそうした護呪を飲んでいたのである。こうすることで彼らの揺るぎない信仰を確かめていたのである。インド仏教では三世紀から五世紀にかけて、後世の人から見たら呪術的とも思える行為をオープンに行っていたようだ。そしてそれが密教系列の経典である大日経や金剛頂経などに発展していったのかも知れない。
今日は午後のひとときをひょいとそんなことを考えて過ごした。