<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

護呪(ごじゅ)についての推論

2016年08月24日 14時53分14秒 | Weblog

護られている。わたしは護られている。多くの人々はそれを直感していたのではないか。そしてそのアンサーとも言うべきを返していたのではないか。それが「護呪」というものの実態なのかも知れない。

彼らはわたし(或いはわたしたち)を護ってくれた神々、明王、菩薩、如来の名を呼び、それらと対面していたのである。そしてそれが「わたしがここにいまあるのは偏にあなたの力に依るものです」という信仰告白に昇華されていったのではないか。

「あなたがわたしを護ってくれました」「わたしはあなたの名前を唱えながら、あなたを慕いあなたを思い続けます」と感謝を捧げていたにちがいない。それがひいては、「これからもわたしたちを護って下さい」「わたしたちの種族を、わたしたちの同胞を、わたしたちの先祖や子孫を護って下さい」という未来形の祈りにも拡大していったのかもしれない。

彼らは薬を飲むようにそうした護呪を飲んでいたのである。こうすることで彼らの揺るぎない信仰を確かめていたのである。インド仏教では三世紀から五世紀にかけて、後世の人から見たら呪術的とも思える行為をオープンに行っていたようだ。そしてそれが密教系列の経典である大日経や金剛頂経などに発展していったのかも知れない。

今日は午後のひとときをひょいとそんなことを考えて過ごした。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おばあちゃんはおんな? えっおとこ?

2016年08月24日 12時08分55秒 | Weblog

おばあちゃんはおんな?えっおとこ? 夏休み孫の興味は湯煙の中

釈 応帰

こんなのでも短歌と言えるのかどうか。お婆ちゃんのおっぱいはもうお母さんのそれではない。おじいちゃんのそれにちかいほど平坦な丘だ。おんなは老いたらおとこに戻るとでも考えたのだろうか。湯煙の中に孫の興味が響いている。夏休みはいいが、これも自由研究になれるのだろうか。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしをみつけてくれてありがとう

2016年08月24日 11時50分02秒 | Weblog

たくさんのおんなのひとがいるなかで わたしをみつけてくれてありがとう   今橋愛

平仮名書きで平明である。言っていることも平明である。でもこの短歌は打つ。ガラスの器の中で感情がたっぷりして音を立てている。こうであっていいのだろう。互いに互を有り難うで受け止められたら。彼女は彼にこの歌を読んでもらっただろうか。独り言にしているのだろうか。二人はたぶんゴールインをしただろう。幸せでいるだろう。そんな憶測が出来る。感謝は互を高め合うからだ。

今橋愛さんをわたしは知らない。雑誌で見つけてしまった。プロかもしれない、素人かもしれない。

気になることが一つある。余計なお節介だが、二人はいつまでこの感謝を維持していけるのだろうか。30年、50年がたってやっぱりこの有り難うは変質しないでいるだろうか。あるいはこういう歌を添えていられる人に成長をしているのかもしれない。

こんなにもながいじんせいのあいだずっと わたしをみつめてくれてありがとう

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

老いは落日である

2016年08月24日 11時11分15秒 | Weblog

夫婦をしているが息がぴったり合っているのでもない。そう思う。妻はさぶろうに寄り添った生き方をしてはいない。自立している。定年までずっと仕事に邁進してきたから、経済的にも。そして今は老後の楽しみ方も見つけて外に出て趣味に興じている。ほとんど家を留守にしている。それはそれでいい。でもときおり、留守番をしている夫を気遣って、行動を共にすることもある。社交性がまるでない夫だ。引き籠もり解消だといって買い物に誘ったり食事に連れ出したりもする。妻は夫の世話をするためにあるのではない。そこは理解している。「あなたはあなた、僕は僕」というのは、互いの自由を尊重するにはもってこいだ。気楽だし。でも、不満不平もつきまとう。しばしばこころに隙間風が吹いて来る。それは当然妻の方にもあるはずである。だから互いにそれを早い段階で打ち消し合って相殺をする方が賢明だろう。で、賢明を装っている。悔いは双方にある。あるに決まっている。だが無用な波風を立てないために装っているのだ。そしてそういう人間を一生のパートナーに選ぶことになった妻に、不意に深い哀れを催すことがある。いやいや夫婦だといっても所詮は一人である。死んで行くのも一人だ。さぶろうの妻になったことで人生を台無しにしたとすればそれは妻の方にも相応の責任があるのかもしれない、などと勝手なことを考えたりもする。昨日、読書をしている妻の顔を覗き見てまたもや考え込んでしまった。さぶろうは軽蔑をされているのかも知れない。さぶろうが或る事故で下半身麻痺の生活を強いられるようになってから、彼らはもう20年もお互いに触れていない。愛を確かめ合ったことがない。老いは落日である。日はすっかり西に傾いている。いつ幽冥境を異にしてもおかしくないが、夫としてのさぶろうの自信喪失は埋め合わせられないほどに深い。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一生を付き合わされているあなた

2016年08月24日 10時49分04秒 | Weblog

一生をつきあわされているあなた コトトントンの俎(まないた)の音       釈 応帰

ほかにもっと、もっと違った生き方があっただろうにわたしに付き合わされることになったあなた。二人は老いている。わたしはいよいよもって俗悪醜悪だ。暮らしも薄っぺらだ。人生の終末期に辿り着いている二人。

あなたはこうなるしかなかったのかという哀れを催して妻を見た。妻はこうした自己凝視をもうとっくに葬り去っているかの如く平然としている。朝餉を作る俎がコトトントンと明るい音を立てている。ほかの人と一緒になっていたらもっと充実した輝くばかりの人生が送れたのかもしれないのに。たった一度この世に生まれて来て、その一度をこのわたしに託したというのに。

一生を託されたわたしはあなたのほんとうの価値を見出し得ただろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

牛糞を買いに街まで

2016年08月24日 10時21分17秒 | Weblog

熟成牛糞を買いに行く。1袋で400円くらしするだろう。10袋では足りない。20袋だと8000円。化学肥料も用いる。これは高価だ。働きに出ず、従って収入がない我が輩には大きな出費だ。年金もすぐに底を突いてしまう。

我が故郷は製麺工場があちこちにある。ここに行くと最終処理の残滓を無料で分けてくれる。もちろんこちらでスコップを借りて袋に詰めねばならないから、手助けが必要になる。でも、やはり無料では申し訳がないから、うどんや素麺の製品を買うことになる。

有機石灰も10袋は要るだろう。5キロの袋だと20袋。秋野菜を作るためには土作りが欠かせない。石灰はずしんと重たい。草井を焼いた後の灰も散布する。EM菌も土に撒いておくと栽培が楽になる。

これらを土に埋めて掻き混ぜるために耕耘機を働かせる。一人ではできない。家族の助けを頼むしかない。雨が降っていないので土が乾燥して土埃が舞うことになる。なかなか手間暇が掛かる。こうやって畝を作ってそこに白菜や大根、蕪、人参などの種蒔きをする。今年はまだ土の温度が高すぎて発芽ができないかもしれない。種蒔きが遅くなると白菜は巻いてくれない。

日中は暑い。でもともかく街まで行って牛糞、石灰、化学肥料だけは買って来ておこう。通帳にお金が残っているだろうか。格別するべき仕事もなく、ここにこうして生き継いでいる存在価値も希薄な老爺である。用が生まれただけでも有り難いと思わねばなるまい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岳切渓谷に遊ぶ

2016年08月24日 07時35分11秒 | Weblog

高速玖珠を下りたところにある道の駅でみごとな生椎茸を買った。1袋に赤ちゃんの手の平大のが10個ほども入っていて500円。2袋も。そこからまた山の中を進むこと小半時。耶馬溪町、岳切渓谷に到着した。第一駐車場は満杯だった。キャンプ場があり、バンガローが目立った。谷川の岸に歩道を設けてある。これが数キロも続いている。入園料が1人200円。幼い子供を連れた家族連れが多い。こどもたちは手に網を持っている。親が水の入ったガラスケースを提げている。中にはメダカが数匹泳いでいた。此の処ずっと雨に恵まれないので、谷川の水量が少ない。赤ん坊でも遊べる。谷川は緑陰を造っていてひんやりしている。川底は一枚岩らしく平坦になっている。そこを平べったいゴム草履を履いた親子連れが数十組川を遡っていく。僕は、石垣に座ってお昼ご飯の弁当(笊蕎麦330円)を食べた後、しばらく読書に勤しんだ。帰りに階下までエレベーターのあるもみじ温泉(入浴料510円)に浸かった。露天でゆったりした。

夕食に生椎茸の料理をしてもらった。これがすこぶる美味だった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

家守が家のあちこちにちょろちょろ

2016年08月24日 07時24分31秒 | Weblog

おはよう、家守のあかちゃん。我が家にはこの家守さんに好かれている。夜、台所に明かりが灯ると、それぞれの窓の外側にぺたりと張り付いて、集まって来る蛾らを餌にしてまるまると太っている。次々に子孫が繁栄しているようだ。小さいのもうようよいる。窓の外ばかりではなく、室内にも侵入してあちらこちらに息を潜めている。で、ものを片付けている際などに「おや、こんなところにも」という驚きになる。彼らはちょろちょろと尻尾を巻いてすばやくまた物陰に隠れる。こんな調子である。我が家の家族を決め込んでいるふしもある。家を守る役割があるのかどうかしれないが、そんな名前を拝領しているから、そうしてもらっていると思っていよう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする