不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

李白の詩句は詩酒である 旨酒である

2016年08月30日 15時03分23秒 | Weblog

今日は李白三昧。いい日だ。我は、今日この李白を味方に得て、万人共有の文学呼吸能力という属性の、その高さにおいて雪山ヒマラヤを凌いでいる。ま、といってもほんの一瞬限りだが。李白の詩句は詩酒である。旨酒である。いざ飲み干さん。

「秋浦歌」

白髮三千丈
縁愁似箇長
不知明鏡裏
何處得秋霜

白髪三千丈、
愁いに縁(よ)りて箇(か)くのごとく長し。
知らず明鏡の裏(うち)、
何(いず)れの處(ところ)にか秋霜を得たる。

三千丈もあろうかという私の白髪は、 長年の愁いによってこんなにも長くなってしまった。鏡の中にいるのは確かに自分のはずだが、全く知らない誰かを見るようだ。どこでこんな、秋の霜のような白髪を伸ばしてしまったのか。

いやあ、渋いねえ。白髪は我が憂いの長さ。我が憂いの長さが三千丈もある。こうなりゃもう人間国宝級だ。晩年の李白には辛酸を嘗める事件が相次いだ。失意の李白。李白はその失意をも詩にしてしまった。高邁なおいしい詩酒にしてしまった。詩人の目にとまれば明鏡も秋霜も豪勢な宝珠となって、その後数百数千年も輝き渡ることとなった。

* 1丈は約3m。3千丈なら9000m。9kmだ。隣町まではある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人生のクライマックスはこれからこれから 李白の詩を読む

2016年08月30日 14時32分19秒 | Weblog

もう一首、李白の詩を読む。おいしいおいしい。我が魂の胃袋氏がご満足。ご酩酊。

「将進酒」    李白


君不見黄河之水天上來
奔流到海不復回
君不見高堂明鏡悲白髮
朝如青絲暮成雪
人生得意須盡歡
莫使金尊空對月
天生我材必有用
千金散盡還復來
烹羊宰牛且爲樂
會須一飮三百杯

君見ずや黄河の水は天上より來たるを
奔流して海に到り 復た回らず
君見ずや高堂の明鏡の白髮を悲しむを
朝には青絲の如きも 暮には雪と成る
人生意を得れば 須らく歡を盡くすべし
金尊をして空しく月に對せしむる莫れ
天の我が材を生ずるは必ず用有ればなり
千金は散じ盡くして還た復た來たらん
羊を烹(に)牛を 宰(ほふ)りて且らく 樂しみを爲さん
會(かなら)ず須(すべか)らく一飮三百杯なるべし

黄河の水が天上から注ぐのを見ることがきみにはあっただろうか。
この激流が海に流れ込むとそれまでで、二度と戻ってこないのだ。

豪邸に住んでいながらも、鏡に映った我が身の白髪を悲しんでいる者の哀れを、きみは知っているだろうか。

朝は黒い絹糸のようであった髪も暮れには雪のように真っ白になるのだ。

人生、楽しめるうちに楽しみを尽くすべきである。金色の酒樽をみすみす月光にさらしてはならない。

天が私にこの才能を授けたのだ。心配は要らない。いつか必ず用いられる日が来る。
お金の心配も無用だ。金なんぞは使い果たしてもすぐにまた入ってくるもの。

今夜は羊を煮て牛を料理して、とことん楽しみ尽くそうじゃないか。
一度飲み出したら立て続けに三百杯と行こう。それくらい、徹底しよう。さあやってくれ。飲んでくれ。

若い頃に「天の我が材を生むは必ず用あればなり」の句にしこたま勇気づけられたことを思い出す。おれは有用だったからこそここに人間となって生まれて来ているのだ。いつはこの天の寵愛に応える時が来る。そう思ってにたりにたりしたことがあった。さて、さぶろうはご高齢者の仲間入りをしている。応えられたかどうか。まだまだまだまだ。人生のクライマックスは案外これからなのかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

俺には俺の棲む別天地がある 李白を読む

2016年08月30日 14時03分30秒 | Weblog

大好きな李白の詩を読もう。李白の詩は酒よりもアルコール度数が高いから、我が輩はらくらく酔い痴れてしまうのだ。

「山中問答」 李白


問余何意棲碧山
笑而不答心自閑
桃花流水杳然去
別有天地間


余に問ふ 何の意ぞ碧山(へきざん)に棲むと
笑って答えず 心自から閑(かん)なり
桃花流水(とうかりゅうすい) 杳然(ようぜん)として去る
別に天地の人間(じんかん)に非(あら)ざる有り

「よりにもよってどうしてこんな奥深い緑山に住んでいるのだ」人がおいらに尋ねる。おいらは笑うばかり。分かりきったことじゃないか、ここにいればのびのびしておられるからさ。谷水は桃の花びらを浮かべゆったりゆったり流れていく。ここはそういう自在な地だ、俗世間とは違う、別天地だ。

李白は好きだなあ。現代の中国にはこんな自由を満喫している人がいるだろうか。共産主義の国になっているから、こうはいくまい。国の制度に拘束されているかもしれぬ。じゃ、日本にはいるかなあ。疑問だなあ。現代人は生活にあくせくしているからなあ。中国、日本どっちにも成功者、お金持ちはいるかもしれないが、みなさんこんな余裕はないのかもしれない。のびのびなんかしていられないからなあ。争って生き馬の目を抜く時代。人真似をして俗世間にまみれ、どよめいていないとみなさん不安で仕方がないのかも知れぬ。李白には別天地があったのかあ。さぞかし生き生きして生きていたんだろうなあ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いつかは李白と酒を飲むべし

2016年08月30日 13時27分47秒 | Weblog

「山中与幽人対酌」    李白

両人対酌山花開 一杯一杯復一杯 我酔欲眠卿且去 明朝有意抱琴来

両人対酌すれば山花開く 一杯一杯復た一杯 我は酔うて眠らんと欲す 卿(きみ)は且(しばら)く去れ 明朝意有らば琴を抱いて来たれ。

「山中に幽人と対酌す」

隠者と向かい合って差しつ差されつしていると、山躑躅の花も顔をほころばせ赤い。うまいうまいと盃を重ね合っているうちについつい酔いが回った。横になりたい。すまぬが卿(お主)とはこれまでだ。明日の朝、その気があれば今度は琴を抱いて来ておくれ。

いいなあいいなあ。飲み相手がいたのか。さぶろうにはいないぞ。こういう飲みっぷりはいいなあ。隠者だって静かな飲みっぷりだったことだろう。君子の交わりは水の如しだ。これをそのまま詩にして詠うというのもいいなあ。一弦の琴の音もいいだろうなあ。赤い山躑躅が咲くのが見て取れる昼間から飲んでいたのかなあ。李白の住まいは人里を離れた山中だったのか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋の所為(せい)にはすまじきものを

2016年08月30日 11時07分21秒 | Weblog

やさしいおんなの人に会いたい。会ってはならない。仏法に背く。仏法は五戒を立てている。不邪淫戒。おんなの人に会うなという戒め。かならずその底に邪淫が蠢くからだ。きっと蠢き出す。白い肌に触れたいと思う。取り返しが付かなくなる。久米の仙人でも堕ちたのだ。山中での長い修行がなって空を飛べる高さに登り詰めていたのに、たった小川で大根を洗っていた乙女のたおやかな股を盗み見ただけで、あはれ、天上界を堕ちたのだ。

不邪淫の戒め秋がくつがえす そよろの所為にはすまじきものを      釈 応帰

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そこ過ぎている静かなる径

2016年08月30日 10時51分43秒 | Weblog

曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる径    木下利玄

曼珠沙華を取り上げた作品にこんなのがあった。秋の陽が照りつけている。日射しが強い。それを射止めるかのように曼珠沙華が赤く明るく灯っている。小径の傍に一叢。そして一本の径が遠くまで静かに続いている。どんな音も聞こえないけれど。村里の目の前の現実がそこで途絶えている。作者はその後4ヶ月して異境の人となった。死の予感があったのかもしれない。秋の陽が強く差し込む曼珠沙華を見たのはこれが最後になった。「そこを過ぎて行けば」寂静界、静かな涅槃界に続いて行くのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いますぐ走って行ってその人に会いたい

2016年08月30日 10時26分30秒 | Weblog

人付き合いが超がつくほど苦手なのに、人恋しい。秋だからだろうか。誰かに会ってみたい。いますぐ。走って行って。

秋萩が咲き出した。その人とともに秋萩が目に入る。黒揚羽が飛び回る。ふたりは久闊を叙するけれども、でもたしかに初めて出遭う人だ。それとも三世をひもとけば、縁がつながっているのかもしれない。なつかしさが込み上げる。

帽子の奥に黒い大きな瞳がある。瞳の中の意思がこちらを見ている。ジョギングの途中なのだろうか。シューズが白くて軽やかだ。僕は自転車を降りてみる。少年でもないのに、僕は少年のように怖じている。風船にことばの棘が刺さって壊れてしまいはしないか。僕は慎重に言葉を選ぶ。それまでに沈黙がある。

「やっと秋になりましたね」「ええ」「彼岸花を見つけましたよ」「もうあちこちに」などと他愛もない。ことばなんてどうでもいい。僕は帽子の奥のおだやかな瞳を見ている。見てはいけないもののを見るように。さっとすばやく。細い指先に笑みがこぼれている。

これから何処へ。いやここでお終いにした方がいいだろう。ここで会ったというだけにしておいた方がいい。僕はしばらくして手を挙げて去って行く。「あなたにお会いできたので今日はいい日になりましたよ」とお礼を述べて。妄想を去って行く。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地上を彷徨うものの寂しさ

2016年08月30日 09時39分00秒 | Weblog

狐花またしびとばな捨て子ばな幽霊ばなの秋のまひる野    釈 応帰

曼珠沙華が咲く頃となった。この花はもともとは天上に咲く花という意を持つ高貴な花なのだが、どうしてだか狐花、死人花、捨て子花、幽霊花などの名をも併せ持つ。そのどの名にも納得がいく。天上の花ならばそのどれをも拾い上げていていいはず。地上を彷徨うものの寂しさを己の内に収め取って慰めているのかもしれない。秋のまひる野にいずれの名の曼珠沙華もひときわ赤く咲いている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そこに応え合う人を求めて

2016年08月30日 08時45分53秒 | Weblog

綱引きは片方だけでは引き合いにならない。対極に人がいなければ、綱の緩みは緩みの儘で地に寝そべっているだけだ。引き合うそのぴんと張った張りを楽しめるのは、引き綱の向こうにも引く力が生まれているときだけだ。引き綱が地上を起きて宙に浮かぶ。するとそこに恋という電流が流れて相手に捉まりこちらに宿りして、行き来する。8月は遺すところあと2日にせまっているというのに、引き綱は大地にごろんと寝そべったままだ。人と人は引き合う。惹きつけあう。そこに応え合う人を求めて。綱がなくても瞳と瞳で惹き合うことができる。

抱かねば腕(かいな)も脛(はぎ)も削げ落ちる恐怖 死ぬ前の死者のまひる野    釈 応帰

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする