<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

生滅はやがて滅し已(おわ)る 四法印を味わう ラスト

2019年03月07日 18時45分14秒 | Weblog

わたしは、どうも我田引水をしてしまいます。世界肯定をしてしまいます。安らぎたいんですね、早く。お釈迦様の教えがそんなに短兵急ではないはずなのに、急いでしまいます。「生滅が滅し已む」ときが来るというのは、嬉しい報せなんです、キリスト教の福音のように聞こえます。

生滅は互いに反作用し合います。生じようとすれば、滅の力が割り込んで来ます。滅しようとすれば生の力が擡頭してきます。意のままにはならないのです。唯一の解決法はそのどちらの勢力も消えてなくなることです。その解決法が死と同時に与えられます。これは嬉しいことです。安らげることです。

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生滅はやがて滅し已(おわ)る 四法印を味わう その3

2019年03月07日 18時42分20秒 | Weblog

この世に起こる現象(=行)は、縁の和合によって集まって来たものであって、縁の和合の力によってまた離れて、新しい形態を造る。だから変化の一瞬一瞬は常に新しいのだ。その一瞬一瞬に応じて新しくする生き方があるのだ。無常に留まらないで、執着を捨てるという生き方だ。

寂滅は寂静に等しい。涅槃の漢訳である。涅槃はサンスクリット語のニルバーナ。燃え盛る煩悩苦悩の業火が消えた状態を言う。寂滅は、生滅する者の死でもある。我々はそこへ辿る。無有恐怖(むうくふ)の安らぎの仏界へ辿る。

 

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生滅はやがて滅し已(おわ)る 四法印を味わう その2 

2019年03月07日 18時39分56秒 | Weblog

この世に起こるすべての現象にはストップということがない。生じたものは滅して行く。是がこの世を生きる者の定めである。しかし、生滅はどちらも已(や)むときが来る。それが已めばそこに寂滅という安らぎが訪れて来る。そこへ一切のものが必ず至る。人もそこへ至って安らぎを迎えることができる。

(これはわたしの解釈で、正しい解釈かどうか分かりません)

生きている間は、生じて滅する。常に一定不変ということがない。変化を遂げて行く。変化を遂げていく其の変化に、しがみつくことはできない。執着することはできない。この変化の世界を卒業して行けば、この無常の定めを受けることがない。卒業をしていけばそこに寂滅の世界、涅槃界がある。すべての者が変化の河を流れて、やがて海のような大きな涅槃界に至り着く。

(わたしはこんなふうに肯定的な情的な受け止めをしました。仏陀の言いたいことから離れたかもしれません)

 

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生滅はやがて滅し已(おわ)る 四法印を味わう その1

2019年03月07日 18時05分12秒 | Weblog

「四法印」の法印は、仏教の教えの印という意味である。仏陀の根本教説を言う。

「四法印」

諸行無常(しょぎょうむじょう) 是生滅法(ぜしょめっぽう) 生滅滅已(しょうめつめつい) 寂滅為楽(じゃくめついらく)

諸行は無常なり。是は生滅の法なり。生滅を滅し已(おわ)って、寂滅を楽と為す。

 

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怨みは怨みによっては止まない ラスト

2019年03月07日 17時58分34秒 | Weblog

「大いなる放棄者」は仏陀のもう一つの尊称である。放棄してしまうことができる者は偉大なのである。己の王になれる者である。彼はそれで自由になれるのだ。

怨みを放棄してこそ怨みは止む。愛憎の煩悩苦悩を放棄してこそ愛憎の煩悩苦悩は止む。

しかし、その理屈は理屈に留まっていて、多くは窮屈を強いられている。生きにくい世の中を生きにくくして生きている。そのわたしを、今日は観察してみた。

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怨みは怨みによっては止まない その6

2019年03月07日 17時51分23秒 | Weblog

此処にも一人重傷の怨み患者がいる。相手ばかりが悪いと思い込んでいる。自分には落ち度がなかったとしている。強訴して裁判に持ち込もうとしている。自分にも落ち度があったとしても、それを言えば、裁判は負けてしまう。彼は懺悔をしない。しかし、身心がもうぼろぼろだ。怨みは硫酸を凌ぐ猛毒である。それを己の胃の腑に流し込んでいるのと同じである。彼はもう体力も残っていないが、それでも眼光を尖らせて怨念を捨てない。

 

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怨みは怨みによっては止まない その5

2019年03月07日 17時39分13秒 | Weblog

国と国の間でも憎しみが続いている。<怨みを怨みによって晴らすことができる>と頑なに盲信している。国力の衰えを怨念で隠そうとしている。

 

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怨みは怨みによっては止まない その4

2019年03月07日 17時37分40秒 | Weblog

どうすればいいか。怨みを捨てることだ、と仏陀は説いている。そうすれば、負けたままでいることになるだろうか。「勝利者」とは、戦いを勝利した者のはず。戦いを捨て去った者、愛憎の火、煩悩の火を消し去った者こそ王者にふさわしいように思える。

キリスト・イエスは、「汝の敵を愛せ」と教えている。それが自らを救い出す道だ、と。

 

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怨みは怨みによっては止まない その3

2019年03月07日 17時36分25秒 | Weblog

しかし、討たれた方にまた怨みが起きる。怨みは起きたが最後、消えない。止むことがない。長く長くこうやって人間社会は人を怨む社会を通して来た。現代の今も、<相手を貶(おとし)めて己を浮かび上がらせる>という満足の方法を採択している。弱者はますます弱者となり、弱者は勝利者を怨んで暮らす。怨む者も怨まれる者も、どちらも悲しい。悲しくないときが来ない。

 

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怨みは怨みによっては止まない その2

2019年03月07日 17時34分50秒 | Weblog

人は人を怨む。「アイツのせいでおれはこうなったんだぞ、苦しみを味わせられてているんだ」と思う。この怨みは晴らさないでおかぬと誓う。根に持つ。憎む。心底憎くなる。敵討ちをする。相手を同じ苦しみに堕としてそれでケリをつける。どうだ、苦しいだろう、そこで永遠に地獄の苦しみを苦しんでいろ、と勝ち鬨を揚げる。それで戦争を終結させる。親の敵(かたき)を子が討つこともある。孫が討つこともある。

 

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