夕暮れになりました。イタイイタイイタイといいながら一日が終わります。障子戸の外が薄暗くなっています。もうすぐ夕食です。今日は鶏の手羽先の塩焼きだそうです。大好きです。これを肴にして芋焼酎を飲みます。お湯割りにして。小葱の酢味噌和えもしてあるようです。小葱は家内がお昼に収穫して来ました。とてもとてもよく育っている小葱です。ご飯は昨日の散らし寿司がまだ残っているはずです。
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「信」の一字で仏道が始めから終わりまで貫かれているということなのですが、この老爺は、それは危険窮まりないとして疑っているのであります。仏陀の知恵に勝る賢者を装っているのであります。どうしようもない男なのに、そうであります。この世の愛欲に捕縛されている男であります。仏の教えを聞いて聞いて聞いて行かないと路頭に迷ってしまう男であるのに、そこを離反して行こうともしているのです。
それを繋ぎ止めようとして、今日は華厳経の賢首品を書き留めてみました。
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「信」は仏陀への信頼である。釈迦牟尼世尊への信頼である。教えの信頼である。その信頼から仏陀の智慧、仏智が、わたしの胸の中でも開かれて来る、というのである。
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わたしはこの現世の時間があまり残っていない。だから、先送りができないはずである。トランプのパスが積もり積もっているのである。信頼するかしないか、二者択一である。信頼したら困ったことになりはしないか、愛欲の生活が断ち切られてしまいかと恐れているのかも知れない。
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この偈文の結論は、「信は涅槃無上道を開示する」ということである。涅槃はニルバーナ、煩悩の火が消えた安らぎの状態だ。涅槃無上道は仏陀の悟りである。信こそはわたしの胸の中に、悟りを開示してくれる、と。
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この文言だけでもなかなか出遭えないのである。生涯を生きていながら、巡り会わないのである。巡り会ってもするりとそこを通り抜けて行ってしまうのである。煩悩の火、愛欲が恋しいからである。
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第一の功徳は、もろもろの善法を長く長く養ってくれる。第二の功徳は疑いの網を切断してくれる。第三の網は愛欲の捕縛から抜け出させてくれる。
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いいことが長く長く続く。続くように導いてもらう。そんなの出鱈目じゃないと軽んじてしまうと一向に聞けないけれど、その疑いの網を断ち切ってくれる。愛欲が強いと、我が愛欲を離反させようとするものが憎悪される。しかし、信はそこを抜け出させる、と。
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「信」は仏の教え、説法を信じることである。「道」は仏の道、仏と成ろうとして歩んで行く道である。「元」はスタート地点。「功徳」は仏さまから預かる仏の赤ん坊で、信はその母である。
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わたしは分からない事だらけで、分かろうと焦っているところです。でもこうやって、はっきり指し示してはあるのです。万人に読めるようにしてあります。
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難しいことを書きます。手繰り寄せようとしていますが、重たいのです。此処が分かればわたしは次へ進めます。
「信は道の元、功徳の母たり。一切の諸善法を長養し、疑網を断除し、愛流を出さしめ、涅槃無上道を開示す」 大乗経典「華厳経 賢首品(げんじゅぼん)」より
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わたしはこの生涯で法華経に出遭っている。それを有り難がっている男だ。法華経はお釈迦様の説法の経典である。だから、この男は、お釈迦様の教えが聞けた男だということになる。なに、ちっとも分かってはいないのである。仏の智慧が頷けるような素質は皆無である。だからただ「出遭った」というだけである。出遭いをよろこんでいるというだけである。早食い競争みたいにして口に詰め込んでみたが、不消化もいいところ。ちんぷんかんぷんなのである。これから万年億年そうやって口中に含んでいれば、栄養分が滲みだして来るに決まっていると高を括っているような、そういう不届き者なのである。
不届き者の仰ぐ大空と背振山脈と八天山と巨岩と滝と、見初める沢蟹。それがすべてこの不届き者には勿体もないのである。
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そこにわたしが呼吸をしているのである。最高の呼吸をしていられるのである。最良の呼吸をしていられるのである。最適な呼吸をしていられるのである。文句をつけようにもつけるところがないのである。何処をどう切り取っても、それがそれでいいのである。わたしには分に過ぎているとしか言いようがないのである。わたしが生涯で受け取る幸福というものがある。それを推し量ってみるが、その幸福量を遥かに超えているように思えて来る。
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山々を巡った渓流は城原川に流れ落ちて来る。城原川は平野を下ってゆったりゆったり有明海に注いで行く。有明海は抱擁をして受け入れる。すべてがよい循環を保っているのだ。どうしてこうもなにもかもが最高であり、最良であり、最適なのか。そのわたしであり得ているのか。そういう受け止めをして三百六十度を見回してみるが、その答が中々に見つかってこない。見つかってこないと言うこと、それがまたわたしを心地よくさせるのである。