「仏説聖大不動経(ぶっせつしょうふどうきょう)」を開いて読んでみることにします。是は昨日の続きです。
4
大智慧故 だいちえこ 大智慧の故に
現大火焔 大がんだいかえん 火焔を現ず
執大智剣 しゅうだいちけん 大智の剣を執(と)って
害貪瞋痴 がいとんじんち 貪と瞋と痴を害す
持三昧索 じざんまいさく 三昧の索(なわ)を持して
縛難伏者 ばくなんぶくしゃ 伏し難い者を縛(ばく)す
(次に続く)
「仏説聖大不動経(ぶっせつしょうふどうきょう)」を開いて読んでみることにします。是は昨日の続きです。
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大智慧故 だいちえこ 大智慧の故に
現大火焔 大がんだいかえん 火焔を現ず
執大智剣 しゅうだいちけん 大智の剣を執(と)って
害貪瞋痴 がいとんじんち 貪と瞋と痴を害す
持三昧索 じざんまいさく 三昧の索(なわ)を持して
縛難伏者 ばくなんぶくしゃ 伏し難い者を縛(ばく)す
(次に続く)
仏典を読むということは、そこで、導きを受けているということなのだ。仏の導きを受けているということなのだ。
そこでたとい何も得なくても、「仏典を読む」という座標軸までは進んだのだから。仏陀の教えを耳にする、それだけでもうわたしの魂の耳がよろこんでいるはずなのだ。
昨日、不動明王のことを書いてた。途中で尻切れになってた。どうもいけない。
僕はスペシャリストではない。全然そうじゃない。だから、嘘八百を列べてしまうことになりかねない。
其れは辛い。申し訳がない。でも、そろそろそろり書き虫が這って出て、書きたくなる。
そこから何かを掴みたいのだ。自分が掴みたいのだ。読者宛てにそうしているのではなくて、自利をしているのだ。
仏の教えをひもといていると、なにかしら、そこで勇気をもらっているようにも思うのだ。導いてもらえるようにも思えるのだ。
お天気がいいなあ。外に出たいなあ。
遊びに行きたいなあ。
でも行けない。
足の怪我がまだ治らないから。
だから、じっとしているしかない。
音楽を聞いて、慰めながら、じっとしている。
雀が庭に来てチュンチュン啼いている。
「おじさん、遊ぼう」と言っているのかなあ。