<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

わたしを卑下してはならないなとも思うのである。

2021年02月24日 18時18分15秒 | Weblog

仏教の経典は、これを読む人を、よろこばせようよろこばせようとしているようだ。恐怖を払拭させようさせようとしているようだ。嬉しがらせることばかりが、これでもかこれでもかという具合に次々と述べられている。

毎自為是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身   

妙法蓮華経「如来神力品」より

まいじさぜねん いがりょうしゅじょう とくにゅうむじょうどう そくじょうじゅぶっしん

毎(つね)に自ら是の念をなせり 以何(いかん)が衆生をして、無上道に入るを得しめて、速(すみ)やかに仏身を成就せしめんやと。

仏陀はいつもいつもこういうことをお考えになっておられる。どうしたら生きとし生ける者たちが無上道(=仏道)に入ることができて、一刻も速く、仏陀と等しい悟りの知恵を身につけることができるだろうか、と。

こればかりを仏陀は念じておられるのである。

こういう行(くだり)を聞くと、ああ、有り難いなあとさぶろうは思うのである。そんなふうに思っていてくださっているのかと思う。

仏陀にこれほどまでにあたたかく熱く思われているわたし。わたしを卑下してはならないなとも思う。

 

 

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そこへわたしが登場して来る。

2021年02月24日 10時15分01秒 | Weblog

諸仏皆歓喜 現無量神力     「法華経 如来神力品」より

法華経の一部分を、こうやってちょいと抓んできて、花瓶に挿して、飾って、見て、楽しむ。

諸仏はみな歓喜して、無量の神力を現じたり。

そこへわたしが登場して来る。諸仏が歓喜して、無量の神力を現じられたところへ、わたしが登場して来る。そしてそれにはっと気づいてよろこぶ。感涙にむせぶ。

世のもろもろの苦悩する人々を救わんとして、諸仏が、西から東から南から北からお集まりになられて、衆生の前にお姿を現された。そして衆生を救い、よろこばせて、計り知ることのできないほどの神通力をお見せになられた。

・・・そこへわたしが登場して来るのである。

・・・そしてわたしが諸仏にお目見えする。

わたしはこういうふうに我流に読み解いて一人で悦に入る。いい気なもんである。

一つの経典の読み方である、これも。本来遠くにあるべきはずをぐいぐいこちらの方へ引き寄せて解釈を施す。そして悦に入る。

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水たまりほどの水に、滑っていられる。

2021年02月24日 10時06分13秒 | Weblog

このさぶろう爺さんはいい加減な男である。底が浅い。大雑把である。了見が狭い。

 

でもって、グローブのような手で鷲掴みにして太平楽を述べることになる。

 

法華経もそう。分かったなんかいないのに分かった顔をして、太平楽を述べる。

 

それでもって、にやにやする。嬉しがる。仏陀の声を聞いたような感覚になっている。

 

それだけ雑兵、小物なのである。たわいもないのである。鈍才貧才なのである。

 

だからこそ、水たまりほどの水に滑っていられるのである。アメンボウに似ている。

 

 

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なぜ嬉しいか。

2021年02月24日 09時31分50秒 | Weblog

於恐畏世 能須臾説 一切天人 皆応供養     「宝塔偈」より

この恐畏の世に於いて、能(よ)く、須臾にも(法華経を)説く(者は)、一切の天・人、みな供養すべし。

恐畏が覆い尽くすこの世に於いて、その恐畏を人々から除かんとして、たとえしばらくの時間であっても、この法華経を人々に説いている者があるのなら、この人は天上界や人間界の人々に、仏陀と列ぶ者として尊敬を集めて、供養を受けるにふさわしい者とされるであろう。  (さぶろうの当てずっぽうな解釈)

ここで、この「宝塔偈」は終わる。

さぶろうは、「ああ、嬉しい」を発する。なぜ、嬉しいか。仏陀が、このわたしにこうやって法華経を説いたからである。安心を説いたからである。

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仏陀によろこばれている人々、われわれは誰もが。

2021年02月24日 08時43分34秒 | Weblog

此経難持 若暫持者 我即歓喜 諸仏亦然      「宝塔偈」より

此の経(=此処では法華経を指す)は持(たも)つこと難(かた)し。若(も)し暫くも持つ者あらば、我(=此処ではお釈迦様)は即時に歓喜せん。諸仏も亦(また)然(しか)ならん。

此の法華経を信じて受持することはなかなか難しいこと。遭える確率も甚だ低い。遭ってもそれを信じ得る確率はもっと低い。そうであるから、たまたま法華経に遭えてそれを受持している人があれば、わたしがまずその場ですぐに大喜びをしよう。もしそうであれば、この娑婆世界を見守っている多くの仏さま方も等しく歓喜されているであろう。

釈迦牟尼世尊が大喜びによろこんでいてくださっている、というのである。だから、仏陀によろこばれているわたし、ということになる。法華経に遭っているわたしは、仏陀によろこばれているわたし、になる。

では、わたしはどれほどに此の法華経を理解しているか。となると、ためらいになる。わたしが法華経に遭った、ということだけで、いまはそれを嬉しがっているだけに過ぎない。法華経に遭えるだけの自分であったことをよろこんでいるに過ぎない。奥へ進んではいない。奥へ進んでいけばもっとそのよろこびの量は増大するだろう、きっと。

わたしはまだ法華経の小川の流れるところの、水深わずか5cmほどのところに立っている。足下を法華経の小川の水が流れている。法華経の小川はこの地上を覆って流れている。誰もが此処へ来て、この水の流れに触れることができる。

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さて、と。今日を生きよう。春の日の今日を。

2021年02月24日 08時31分00秒 | Weblog

気温は6・4℃。やや肌寒い。そこにあった「綿入れぽいしん」を着込む。

 

朝ご飯食べた。白菜の味噌汁。納豆ご飯。白菜の漬け物。焦がし炒り子。これでお腹が落ち着いた。

 

さて、と。今日を生きよう。春の日の今日を。行く行くその後が短くなっているので、それだけ密度濃度が濃くなって行くことになる。

 

といっても、どうということはない。走り出すわけでもない。働いてもいない。社会貢献をするわけでもない。

 

季節を迎えている梅の花を、見よう。見ていられる間に、見ておこう。

 

見たからといって、それがどうなるものでもないが、ただその美しさを鑑賞して褒めておこう。

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昨日の散歩で、今朝は足がこわばって痛い。

2021年02月24日 07時41分16秒 | Weblog

おはようございます。

 

お腹が空きました。これから朝ご飯です。

 

昨日登山用の両手杖を借りて散歩を試みました。散歩ができました。

 

今朝、麻痺の左足がこわばっています。足先部分が、やや痛いなあ。

 

ま、これに懲りずにまた挑戦をしよう。歩けるのは有り難い。

 

雀たちが夜明けを待つようにして庭先にやって来ている。餌場のところに。

 

元気いっぱいな鳴き声が聞こえている。今日もお天気がいいようだ。

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