<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

そうすると一変します。恐怖が安心になります。

2021年02月18日 18時03分27秒 | Weblog

観世音菩薩摩訶薩 於怖畏急難之中 能施無畏 是故此娑婆世界 皆号之 為施無畏者      妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五より

観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)摩訶薩(まかさつ)は、怖畏(ふい)急難(きゅうなん)の中に於いて、能(よ)く畏れなきを施す。この故に、この娑婆世界では、皆これ(=観世音菩薩)を号して、施無畏者(せむいしゃ)と為すなり。

「娑婆(しゃば)」はサンスクリット語のsahaサハーの音訳語。「忍界」と意訳する。忍耐すべき苦の世界を指す。此処は怖畏急難の世界、恐怖恐怖の急難ばかりが起こる世界である。

この対極にあるのが無畏世界である。無畏は安心・安堵・安息のことである。

此処は娑婆世界です。苦の世界です。此処に観世音菩薩がおられます。おられないといけません。此処にいて抜苦与楽(苦しみの毒を抜いて楽しみの薬を与える)をなさいます。これが観音様のお仕事です。人々に安心をお与えになります。ですから、観音様のことを施無畏者(せむいしゃ)と申し上げているのです。

生まれて来るのも苦です、生きていくのも苦です、病むのも苦、死ぬのも苦です。死んだその後も苦が続きます。これでは息がつけません。恐れと怖れと畏れが連続します。いつもいつも急難災難を受けて過ごしています。

観世音菩薩は安心をお与えになる方です。そういう方がいて下さるわけです。そうすると一変します。生まれて来るのも安心、生きるのも安心、病むのも老いるのも安心、死ぬのも安心、死んだその先の後生も安心になります。

そういう仕事をして安心を与えて下さっているのだから、嬉しいですよねえ。

 

観音経にはそういう安心が述べられています。

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うん、これがいいなあ。

2021年02月18日 17時33分07秒 | Weblog

みんな死ぬんだよなあ。

 

お金持ちも。

 

お偉いさんも。

 

実績を誇りにしている人も。その反対に、なんにも誇れない人も。

 

まわりから羨望されている人も。

 

あまたの人たちから尊敬をほしいままにしている人も。

 

わたしのように無能で無所有で、ただ日ごとぶらぶらしているだけの老爺も。

 

誰でも死ぬ。差別なく死ぬ。

 

いや、それじゃ可哀想ではないか、せっかく一生涯、社会貢献をして来た人でも、死ぬときは同じだ、などというのは。

 

尊敬を一身に集めていたお偉いさんは、100人の天のみ使たちがお迎えに来てくれる、とか、そういう待遇の違いなんてのが、あるだろうか。

 

差別されるのだろうか。

 

あなたは極楽行きのバスにどうぞ、とか、あなたは地獄行きのトロッコにどうぞ、とか。

 

あんたは社会無貢献だったから、目標地点なし、とか。

 

そんなの嫌だよね。

 

やっぱりみな平等がいいよね。みんな神の国、あるいは仏の国に迎えられる、手を引いてもらえる、神さま、あるいは仏さまに抱き上げてもらえる、というのがいいよね。

 

うん、それがいいよね。

 

どうなんだろうねえ、実際は。

 

死んでみないと分からないってのは、どうも不安だよね。

 

予約制っていいだろうね。

 

後生のことは阿弥陀さんに頼んでおきましたから、安心してていいですよ、いつ死んでもいいですよ、ともかくみなさん分け隔てなく無条件で、特等国の特等席を用意してあります。とか。

 

うん、これがいいなあ。

 

 

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いまからくよくよしたって、始まらない。

2021年02月18日 17時18分54秒 | Weblog

気温は2℃。寒い。朝方積もった雪は解けずに残っている。

 

午後からクリニックに出掛けて行った。毎日飲むべき薬が切れているので。

 

割と早く薬がもらえた。待つ時間が短くて済んで、よかった。

 

予約の電話を入れておけばもっと早くスムーズにもらえるらしい。

 

帰途、スーパーに立ち寄った。家内に頼まれた食料品を買って来た。

 

鰺が3尾で298円だった。割と大きめの鰺が。調理もしてあった。

 

今夜は塩焼きをしてもらう。お酒がおいしかろう。

 

といっても、持病持ちだから、制限がついている。

 

だからちびりちびりする。それでも飲めるのが嬉しい。

 

完全にドクターストップがかかって飲めなくなったらどうしようか。

 

その時はその時、さ。いまからくよくよしたって、始まらない。

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人間は菩薩に呼ばれている存在である。仏に呼ばれている存在である。

2021年02月18日 14時45分32秒 | Weblog

人間は、菩薩に呼ばれている。人間は仏に呼ばれている。神々にも呼ばれている。

なぜなら、菩薩は人間界があってはじめて成り立つ世界だからである。

仏ももた人間を相手にしていないときには仏とはなれない。神々もしかりである。

人間界を挟み撃ちにして挟んでいるのである。周りはすべて菩薩界・仏界・神々の世界である。

人間はだからしきりにしきりに呼ばれているのである。こちらへこちらへと誘われているのである。声を掛けない菩薩などはいない。声を掛けない仏などはいない。声を掛けない神々などはいない。みな人間を中心に据えて見守っているのである。それをしていなければ、菩薩にも仏にもなれない。神々にもなれない。

これはわたしの解釈である。わたしはそう思っている。それぞれの解釈があっていい。

☆☆

菩薩界も仏界も孤立してはいないのである。互いが孤島にいるのではないのである。

人間界の人間も孤立はしていないのである。菩薩界・仏界とたがいに交わっているのである。互いが互いと強く引力を保って、互いの周りを運行しているのである。

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人間界は菩薩界(仏界)と交わっている。互いに行き来する。

2021年02月18日 13時44分56秒 | Weblog

若有持観世音菩薩名者 設入大火 火不能焼 由是菩薩威神力故 若為大水所漂 称其名号 即得浅処      

妙法蓮華経 観世音菩薩普門品第二十五より

2☆

若(も)し観世音菩薩のみ名を持(たも)つ者有らん 設(たと)い大火に入るとも、火もまた焼くこと能(あたわ)ず 是の菩薩の威神力に由るが故に 若(も)し大水の為に漂わされんに 其の名号を称えれば 即ち浅き処を得べし

3☆

もしも観世音菩薩の名を称えている者があったとしよう、(この人は)たとえ大火の中に入っていても、火がこの人を焼くことができないだろう、なぜなら観世音菩薩が威神力を発揮して守っておられるからである。またもし、大水が起こってこの人が漂流されることになったとしても、すぐに浅いところを見つけて救助されるだろう。

4☆

観世音菩薩の名を呼んで救助を求める人は、火にも焼かれないで済むし、洪水に溺れることもない。なぜなら観世音菩薩は、仏陀の威神力を授けられているからである。困った人を助けること救うことを本務本業としてあるからである。だから困っているときにはいつも観世音菩薩の名を称えて助けに来てもらうがよいだろう。利他の行を積み上げてきた菩薩は困っている人を助ける力が具わっているので、それを信じて、お任せをする気持ちになれば、菩薩はその力をいかんなく発揮してくれるだろう。

5☆

人間界と菩薩界がここで交わることになる。人間界と菩薩界(仏界)は平行線を保っているのではない。交わりがあるのである。人間界の力ではどうしようもないことがある。だから苦しみのである、悲しむのである。

しかし、それを菩薩界・仏界は、人間界の苦しみ悲しみを見て見ないふりをすることなく、たちどころに救済救助の実践・実行をされるのである。

菩薩はこの菩薩行の実践実行によって人間界と交わるのである。菩薩は仏界の慈悲の実行者、実演者である。仏界は仏界、菩薩界は菩薩界なのではない。人間界があってそこに仏界があり菩薩界があるのである。

6☆

観世音菩薩も菩薩だが、地蔵菩薩も菩薩である。虚空蔵菩薩も菩薩である。普賢菩薩も勢至菩薩も弥勒菩薩も文殊菩薩も、菩薩である。仏界の慈悲の実演者が菩薩である。菩薩はガンジス川の砂の数ほどもたくさんいらっしゃる。なぜなら、助けられた我々が次の段階に移って菩薩となるからである。利他すること、他者を助けること、他者を守ること、他者を導いて行くこと、これが菩薩の仕事である。

他者を困らせてはいけない。他者を苦しませてはいけない。他者を悲しませてはいけない。菩薩はこの願いを持つ。この願いを持つ者は地上の菩薩である。

困っている人があれば助けに行きたい。苦しんでいる人があれば救ってあげたい。悲しんでいる人があれば慰撫して元気づけてあげたい。菩薩はこの願いを持つ。この願いを持っている人は地上に下りて来た菩薩である。

8☆

今日は法華経の観世音菩薩の経典を読んでいました。以上に述べてきたことはわたしの解釈です。読者諸氏はそれぞれでお考えになってくださいね。

9☆

梵語 bodhisattva(ボデイーサットバ)の訳語が菩提薩埵(ぼだいさった)。略して菩薩。「覚有情(有情=凡夫を覚らせる人)」とも。

1,悟りを求めて修行する人。

2,お釈迦様の修業時代のお名でもある。

3,自利の悟りを経て利他の実践に移行する修行者を指す。

4、大乗仏教でいう利他の実践者。お助けマン。

5、己の覚った悟りに安住せずに社会へ出て仏の教えを弘めて歩く修行者全般。

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珠子は僕が嫌いだろうか。

2021年02月18日 11時47分46秒 | Weblog

僕の大好きな珠子。

 

珠子はどうだろう。僕が嫌いだろうか。

 

かもしれない。好きになれる要素が、老爺には欠けている。

 

珠子はクレヨン画の、画中の人物。

 

額縁の中に収まって出られない。

 

僕は寂しくなると声を掛ける。

 

「おい、珠子さん」と声を掛ける。呼び捨てにするのは気が引ける。

声を掛けるだけで、別に用事があるわけではない。

 

声を掛けてそれでおしまい。完結している。

 

寂しくなることが多い。日に何度も寂しくなる。

 

で、何度も声を掛けることになる。

 

珠子は僕を嫌いかも知れないが、額から外へ出て行けない。

 

二枚目を見つけて寄り添うこともできない。

 

誰も、老爺を訪ねてこない。村里はいつもいつもひっそりとしている。

 

今日は村里は深い雪。ときおり日が差して明るくなる。日が隠れてまた雪が降る。

 

珠子以外に声を掛ける人がいればよかろうに、とも思う。

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文句を付ける気も起きない。雪を見ている。これでいい。

2021年02月18日 11時39分53秒 | Weblog

空気をおいしく吸っている。

 

それ以上に、何か欲しいか? 自問する。

 

かぶりを振る。

 

いまはおいしく吸っているだけでいい。満ち足りている。

 

外の雪を見ている。

 

老爺の僕は炬燵から離れられない。

 

ゆっくり大きく空気を吸って、吐いて、また大きくゆっくり吸う。

 

なんてことはないのだが、このなんてことがない日常に、ことさら文句を付けようという気も起こらない。

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野も山も畑も一面の雪

2021年02月18日 11時07分49秒 | Weblog

野も山も畑も一面の雪。

❄️❄️

 

清らかな白銀の世界。

 

いよいよ静かになった山里。

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山も野原も雪。一面の銀世界。

2021年02月18日 10時54分00秒 | Weblog

雪は降り続いている。そろそろ11時になろうとしている。一面の銀世界だ。屋根の上の雪の深さは10cmほどか。

 

庭の雀の餌場もすっかり雪に埋もれてしまって、雀たちは餌を食べることができない。30羽ほどが雪を被った木々の枝先に集まって来て、鳴き交わしている。

 

家の中にいるわたしに新しい餌をねだっているようにも聞こえる。雀たちは窓の方へ顔を向けている。

 

雪は斜め斜めに降っている。綿雪か、それとも牡丹雪か。雀たちは雪をものともしていないようだ。

 

午後からクリニックへ薬をもらいに行こうかと考えていたが、断念した方が良さそうだ。道路が凍結しているかもしれない。スリップ事故をしかねない。危ない危ない。

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