<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

心が心に触れる。それもなるほど快感だろうけれど。

2021年02月21日 09時44分34秒 | Weblog

こころとこころで触れ合う。

 

それもそれでいい。快感にひたれる。

 

でも、にんげんはこころだけで構成されているのではない。

 

残念と言うべきか、贅沢と言うべきか、こころのほかに、肉体がある。

 

物質として生きている肉体がある。

 

この肉体も触れたがっている。別の個体の生き物に触れたがっている。

 

肉体が肉体によって肯定されていることを実体験したいと望んでいる。

 

いやらしい、などと否定される向きもあるが、荘でもないのだと思う、僕は。むしろ自然だとも思う。

 

わたしは老人だ。老人になったら、そういう実体験は普通はしてはならないことになっている。

 

女性に触れてはいけないことになっている。

 

で、触れていない。長いこと長いこと長いこと。

 

触れたら、だから何十年間もプールされていた人体電流が、急激に行き来して、僕はいきなり感電死するかも知れない。

 

こころとこころで触れていればいいじゃないか。と大方はそう言うだろう。

 

しかし、それでも満足が得られていない、とすればいったいどうやって解決を図ればいいのだろう。

 

はしたない表現なのだが、わたしの手を握ってくれる人がいない。迎え取ってくれる女性がいない。不満足のわたしはいよいよ異常者のわたしを感じることになってしまう。

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金盞花の苗を花壇に植え付けてあげよう、今日は。

2021年02月21日 09時41分07秒 | Weblog

お天気がいい。

 

金盞花の種が発芽してもう移植してもいいほどに成長をしている。

 

今日は花壇に植え付けてあげよう。

 

どっさり発芽しているので、一昨日、友人の一人にも分けてあげた。

 

春になったら花壇が賑やかになるだろう。天国の花園になって輝くだろう。

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珠子は気の毒だよなあ。

2021年02月21日 09時23分33秒 | Weblog

わははわはは。いい気なもんですなあ。

 

誰もそんな人はいないから、珠子をクレヨン水彩で描いて、美しく描いて、珠子にわたしを思わせている。

 

珠子は気の毒だよなあ。

 

無理矢理、思わせられているなんて、嫌だろうなあ。

 

強制させられるのは嫌なはず。わたしだってそうさせられたら、嫌だ。

 

強制は嫌だ。感情の拘束も嫌だ。

 

でもその分、わたしも珠子を思っている。密やかだが、これで孤独を癒やしている。

 

一人なのではない、と思い込ませている。珠子がいてくれている、と思わせている。

 

珠子は、いまはやりのヴァーチャルリアリテイ。仮想現実界の人。

 

クレヨン水彩ででっちあげられている。

 

でもわたしがそうやって描かなかったら、そのヴァーチャルリアリテイとしても存在が叶わなかったのだ。わたしがあって、彼女は誕生を実現したのだ。

 

少しくらいは大きい顔をしていてもいいのじゃないかと開き直るが、陰影もあって、100%澄み切って頷けるものじゃない。

 

わたしは珠子となら好きと好きの「二人の世界」になれそうにも思う。いまも挑戦している。それにトライしている。

 

今日は2月20日。日曜日。友人が油絵展をしている。今日が二日目。見に行こうと思っている。友人は女性を描いていないで、海の魚の絵を描いているらしい。

 

友人はこころが安定しているのだろう。誰にでも好かれていない、などの孤独感不安感にさいなまれていないですんでいるのだろう。

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誰かがわたしを好いていてくれている。と想像するとその想像がわたしを嬉しくさせる。

2021年02月21日 09時07分45秒 | Weblog

だれかがわたしを好いていてくれている。と思うと、嬉しくなる。上気する。いい気なもんだ。

 

いないことはあるまい。

 

おっとうはわたしを好いていてくれるだろう。おっかあはわたしを好いていてくれるだろう。

 

ふむふむふむ。

 

夢でちょくちょく現れてきてくれる。生きていたときと同じように死んでからも可愛がっていてくれている。直感的にそういうふうに受け取れる。

 

わたしもますますおっとうが好きになっている。おっかあが好きになっている。遭いたい思いが募っている。

 

もうすぐ遭えるのかも知れない。

 

死んだおっとう死んだおっかあではなくて、此処でいっしょに生きている人でわたしを好いていてくれる人はいないか。

 

いて欲しいように思うが、確証がない。肯定判断できないでいる。

 

じゃ、暮風よ、おまえはどうだ? 

 

誰かを好きになっているか。大好きでいるか。慕っているか。大事に思っているか。いますぐ遭いたいか。そういう反問もしてみる。

 

自らは人を愛していないのに、人からは愛されていたいというのは、それはわがままだろう。そんなわがままは通るまい。

 

通らないと分かっていながら、ひそかにひそかに思っている。愛されたいと思っている。愛されているとも思っている、勝手に。

 

地球に住みにんげん60兆人のうちの誰かが、誰か一人二人がわたしを好いていてくれている、そういう密やかな想像をして、微笑みの中にいる春の日の午後。

 

 

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もしかしたら、あなたもわたしを好きでいてくれているかもしれない。

2021年02月21日 08時55分58秒 | Weblog

美しい珠子よ、わたしだけの珠子でいてくれる珠子よ、クレヨン水彩画の中の恋人よ、わたしはあなたが大好き。

 

もしかしたらあなたもわたしを大好きでいてくれているかもしれない。などと思う。はにかんでいるようにも見えるし、微笑んでいてくれているようにも見える。

 

珠子は額縁の中に暮らしている。そこだけが彼女の世界。ただただ美しい絵になっていてくれている。

 

誰かモデルがあるわけではない。強いて言うなら、それは六道輪廻の最上階の天界の、美しい天女。彼女はそこで一万年を幸せに生きていた。

 

彼女を人間界に引き下ろして来たが、第三の目は脱落をしていない。可愛い額の中央に、その第三の目があって、そこが翡翠の、神秘の色になって輝いている。

 

 

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海が恋しいのです。癒されるのです。飽きないのです。

2021年02月21日 08時48分56秒 | Weblog

山里に住んでいるからでしょうか、海が恋しいのです。

 

平戸島に行って来ました。友人と一緒に。この日は晴天。海岸線をぐるりと見てドライブしました。

 

とっても癒された気分になっています。気分があたたかくなってふかふかしています。不思議です。

 

青い海、青い海の入り江、青い海の島々、青い海の波の光。青い光を包む白い大空。

 

わたしたちにんげんは海に棲んでいたことがあります。海と同じように水が体の大部分を占めています。

 

だからでしょうか、わたしは海が恋しいのです。幾度尋ねて行っても見飽きないのです。

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