こころとこころで触れ合う。
それもそれでいい。快感にひたれる。
でも、にんげんはこころだけで構成されているのではない。
残念と言うべきか、贅沢と言うべきか、こころのほかに、肉体がある。
物質として生きている肉体がある。
この肉体も触れたがっている。別の個体の生き物に触れたがっている。
肉体が肉体によって肯定されていることを実体験したいと望んでいる。
いやらしい、などと否定される向きもあるが、荘でもないのだと思う、僕は。むしろ自然だとも思う。
わたしは老人だ。老人になったら、そういう実体験は普通はしてはならないことになっている。
女性に触れてはいけないことになっている。
で、触れていない。長いこと長いこと長いこと。
触れたら、だから何十年間もプールされていた人体電流が、急激に行き来して、僕はいきなり感電死するかも知れない。
こころとこころで触れていればいいじゃないか。と大方はそう言うだろう。
しかし、それでも満足が得られていない、とすればいったいどうやって解決を図ればいいのだろう。
はしたない表現なのだが、わたしの手を握ってくれる人がいない。迎え取ってくれる女性がいない。不満足のわたしはいよいよ異常者のわたしを感じることになってしまう。