1
みな仏性あり。故に人倫(=じんりん=人の道=人の道を行く者=人間)を選び、身、仏と成る。(中略)
2
寿は百秋(ひゃくしゅう)を保ち、百寿(ひゃくじゅ)秋を得(う)。
3
頭(かしら)は五智宝冠大日如来。髪は倶利迦羅大日大聖不動明王。
耳は身縁菩薩。
左の眼は日天子、右の眼は月天子。
鼻は薬師如来。
口は地蔵大菩薩。
左の手は文殊菩薩。右の手は普賢菩薩。左の足は聖観音菩薩。右の足は勢至菩薩。
膝は地持天(じじてん)。
肝の臓は降三世夜叉明王。心の臓は軍荼利夜叉明王。
肺の臓は大威徳夜叉明王。腎の臓は金剛夜叉明王。
肺の臓は中央大日大聖不動明王。
その心は諸神諸菩薩住したまふ。
・・・(後略)
仏教経典「五体加持」より抜粋。
4
経典によれば、われわれの五体はみな加持されているらしい。
加持の「加」は大いなる存在からの守護のハタラキ。「持」はそれをそうとして受け止めているわたしの受容のハタラキ。
5
なぜそういうことになるか。
人には仏性が備わっているからだという。仏性とは仏に成る性質のことだ。やがてはみな仏に成っていく。蛹が蝶に成っていくように。
6
それで蛹の五体をそれぞれ分担して、天子や菩薩や明王が護っている。わたしが仏に成っていくまでの過程を大事に大事に守り育てているらしい。
7
五体の身にそれぞれ仏界の天子、菩薩、明王が降りてきて、わたしを守り続けていると説いている。
もしそうだとすれば、軽んじてはなるまい。そんな気になる。
8
わたしの五体は加持されてるのだ。それも将来仏に成るものとして、大大事にされているのだ。そんんことをこの経典が説いている。
9
仏教はこれほどまでに性善説に基づいているようだ。以上はわたしのわたし流の解釈だから信憑性に乏しいのだが、読んでいると有り難いなあという思いが募っていく。
10
この経典「五体加持」のラストはこう終わる。
「仏神応護の加持を以て守護の頭(こうべ)に頂き怨敵諸々の障碍(しょうげ)をなす者は皆悉く之を退散せしむなり」
これだけの仏神に護られているのだから、障碍をなさんとする怨敵も近寄れない、と。
われわれはみなこうしてことごとく五体加持されている貴重な存在なのであった。
11
嬉しくなるなあ。それだけ大事にしてもらっているのだとしたら、日々、あれこれの苦しみ悲しみを相手にして、ぺえぺえ不平を鳴らしていちゃならないなあ。
12
仏教の経典は読めば読むほど、わたしを嬉しがらせる。ああ、すまないなあ。そんなにまで丁重に扱ってもらっていたのかと思う。
神仏と等しい扱いをしてもらっているのだとしたら、もう少しましな考えをして暮らしていかなくちゃならないなあとも思う。
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