「花は愛惜(あいじゃく)に散り、草は棄嫌(きけん)に生ふる」
これは道元禅師が「正法眼蔵現成公案」の中で述べておられる。花は愛されるが草は嫌がられる。花が散るのは惜しいが、草は棄ててしまいたい。美しいものはいつまでも常住していてほしいが、無用なものは一時も早く消え去って欲しい。そういう風に差別をする。差別をするわたしのこころこそが翻弄されているのも知らずに。映るものをみな色眼鏡で見て、或るものはいつまでもそこにあってほしいと願い、また或るものは今ただちに目の前からなくなってほしいと願う。そして術策に落ちたように藻掻き出す。それがそうならなかったときに苦しみ出し悲しみ出す。無常を常とすることがいかに難しいことか。万物が無常ならば、我がこころもこれに応じていればいいのだが、我が愛惜と棄嫌は絶え間なく攪拌されて苦に変じていくばかり。幸福は常であってほしいが、不幸はそうあってほしくない。そうであるのに、その逆になって、幸福が無常のさまを呈して過ぎ去り、不幸が常になって澱んでいる。生死を見る場合もそうだ。片方を愛惜しもう片方を棄嫌する。
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禅は外なる乱れを整える代わりに内なる己を整える修行をする。ものを見る己の目の乱れを修正して整える。姿勢を整え息を整えこころの目を整える。禅は寂静の姿である。静かな時間を持てば振り子の揺れは収まってくる。己の振り子が収まってくる。
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今日のさぶろうはそんなことを思った。さぶろうが揺れていたのである。外なる万物が揺れ動いていたのではなく、内なるわたしがひとりで騒がしく揺れ動いていたのである。