人は想像を膨らませることができる。膨らませれば膨らむからである。この膨張物は広いのである。とてつもなく広いのである。わたしはここをUFOになって飛び回った。いやいや、UFOの比ではなかった。あんなに四角四面ではなかった。柔らかい綿雲のようだった。夕日を浴びた光のようだった。わたしは光であるわたしを楽しんだ。想像の風船に息を吹き込む。するとたちまちにこの風船は熱気球になって飛び立って行く。ゆっくり熱気球になっていたかと思うといきなりロケットになる。でもわたしのその想像もみな地上界の物質の形態を借りているのである。そこを越えては行かなかった。白状しよう、どんなに想像をたくましくしても借り物の物質界を飛び超えて行くことはできなかったのである。わたしはやはり物質界に留まっていたのである。そこを超えて行く日が来るのだろうか。来そうな気もする。
わたしはわが魂氏が星になったのをイメージした。イメージして楽しんだ。魂氏は非物質であるから、実は星にはなれないのである。物質の星にはなれないのである。だから、イメージするだけである。でもイメージだけでもそれをいたく楽しんだ。それで心地よくなったのである。comfotableになったのである。わが魂氏の星はきらきらきらきら光り輝いていた。クリスタルハートになって、からんころからんころんと音を立てて宇宙中を転がり回っていた。それができたのはわたしの肉体氏の目が星を見たことがあったからである。このからんころんの響きがとてもよかったのである。音楽以上の音楽に聞こえたのである。天上界の音楽に聞こえたのである。わたしはすぐさま崇高な幸福を味わった。これができたのはわたしの耳がこれまでに数多くの地上の音楽を聞いたことがあったからである。
わたしは肉体であるが、霊魂でもある。肉体は物質で構成されているから物質界を生きているが、霊魂は非物質であるから物質界を生きているのではない。霊界(spiritual world)を生きている。物質界と霊界を同時に生きているということは、この二つは重なり合っているということだ。見えない世界の中に見える世界があるということになるし、見える世界の中に見えない世界があるということでもある。
両者は相俟って相助け合っているのだ。物質は目に見える、手に触れる。が、非物質は目にも見えないし、手にも触れない。あるのかないのかそれすら分からない。だから、非物質だけでは暮らしが成り立たないのである。どうしても、だから、物質の助けが必要になる。
見えているものがあるのでわれわれはそこにそれがあるということを確認をすることもできるが、まったく見えないのであれば、われわれはそれがそこにあることすら確認できない。見えているものがあったからこそ、われわれは目を閉じてもそれをイメージすることができるのである。
生まれたときから目が見えないという人がいるが、見えている人の目を借りることはできる。世界中の人の一人をもものを見たことがないとすればどうだろう。眼を持たない深海魚というのがいるが、彼らは触覚を先鋭化したりコウモリのように特殊なセンサーに頼ったりしているだろう。しかしやはりそこは物質界だからこそで、物質の羽や尾を使って動き回れるのである。
物質は、もしかしたら非物質の代替物であるかもしれない。陰と陽の関係かもしれない。実態と非実態の間柄かもしれない。非実態が実態を操作しているのかもしれない。操り人形が肉体で、操っているのが霊体かもしれない。
「霊」とは「神」と同じように「すぐれた」あるいは「よりすぐれたもの」という謂である。「本質」「実質」ということかもしれない。しかしいかにすぐれていようとも、独り立ちができないのだ。どうしても「目に見えるもの」「手に触れるもの」の加勢が不可欠なのである。これは「すぐれたもの」の弱点だったのだ。この弱点補強の任に当たったのが物質の性質を持つ肉体氏だったというわけだ。
物質氏は病むことができるし、死ぬことができた。苦しむことも出来たし喜ぶことも出来たし、悲しむことも出来た。ものに耐えることもできるという性質を併せ持っていた。この性質は重要な役目を担うことが出来た。これで非物質の霊体、精神氏が修行をできるのである。肉体氏の対応や変化変貌によって「すぐれている」ことを証明できるようになったのである。
肉体氏は、精神氏が勝れているという証明を引き受けたのである。肉体氏は偉大なのである。他者が己よりも勝れているという証明の、その媒体を買って出たのである。わたしを構成するこの二つの「すぐれもの」「偉大なるもの」を誇りにしようではないか。
おはようございます、どなた様も。秋晴れのいい天気になっています。綿雲が浮いて広がっています。石蕗が咲き出して庭先が黄金の谷になっています。鵯が甲高く晴れ晴れと鳴いて飛び去っていきました。空気がおいしく感じられます。さあ、いい一日にしましょう。何をしたらいい一日になるのでしょう。なんにもしなくていいんですよね。空が澄み渡っていればこころも晴れ渡るもの。自然にまかせて過ごせばいいと思う。
朝食の南瓜の味噌汁がおいしかった。蒸かしたばかりのおこわご飯の、ゴマ塩まぶしおにぎりを二個もぺろり食べてしまった。手摺りに掴まって階段上がり運動を右足30回、左足20回した。汗を覚えた。外へ出て行かなくともこれだと室内で軽く運動ができる。今日は10時から中央公民館で老人大学。郷土の文学者吉田紘二郞についての講演会だ。お昼まで。帰ってきたら畑仕事をしようかな。
札幌ドームで行われている日本シリーズ第4戦。これが面白い。5回が終わって広島カープが1点をリード。広島の若手ピッチャーがあの大谷も三振に打って取った。日本ハムはバースが継投。さあどうなるか。広島が2勝。日本ハムが1勝。エルドレッドライト前のヒットを飛ばしたところ。熱戦だ。テレビ観戦に専念するとしよう。
如来妙色身 世間無与等 如来色無尽 一切法常住 「如来唄(にょらいばい)」より
にょらいみょうしきしん せけんむよとう にょらいしきむじん いっさいほうじょうじゅう
如来は妙なる色身なれば、世間にともに等しきものなし。如来の色は無尽なれば、一切の法は常住す。
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さて、さぶろうの手がこの偈に届くかどうか。届かないだろう。長い青竹を握って高い柿の木の柿の実を打ち落とそうとするようなものである。それでもさぶろうは青竹を握った。落としたと思ってもしかしそれはさぶろうの妄想の柿の実に過ぎないだろう。
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「色」は目に見えるお姿のこと。「妙」は妙相を具えておられること。「法」は如来のハタラキとその法則性、またはその具現されたもの。「唄」は賛美讃歎の偈。
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妙相を具えておられる如来のお姿はわれわれ衆生の生きるこの世間では対等できるものはいない。いや、そもそも見出すことすら出来ない。しかれども如来の法性身のお姿は尽きることがなく、一切の法を常住せしめたもう。生滅を超えて常住せしめたもう。
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さぶろうの目には見えない。如来も如来の妙も妙色身も見えていない。見えていないがそれは働きに働いていて、三千大千世界のもろもろの事象を正しく常住せしめている。このさぶろうにも正しく働きに働いて生滅を超えさせている。
そういう領下をしてみた。
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つまり、さぶろうの努力が実らなくてもいいということである。これでさぶろうは安心である。さぶろうの努力や修行が実らなければ法常住が成り立たないとなればこれは由々しきことであったがそうではなくてすんでいたのである。そして如来の獅子奮迅のハタラキの成果、如来のハタラキの功徳ばかりを受け止めていてよかったのである。
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さぶろうはじたばたしないでよかったのである。じたばたしないでも、如来の法の常住するところにいて、法の永遠といのちの永遠を貪っていてよかったのである。
さみしい。何故だ。わけもなくさみしい。「わたしはひとり」という気がする。秋が来たからかもしれない。さみしさを秋の所為にする。だったら、ことは簡単だ。冬が来ればわたしのさみしさは雲散するだろう。
或いは老いたからかもしれない。老いて体のあちこちが言うことを聞かなくなったからかもしれない。しかし、老いを迎える以前からわたしにさみしさはあった。こころが虚になることがしばしばあった。萎えた。
小さい頃学校から戻ってきてしきりに母を呼んだ。家の中が空っぽだった。そのときにもこれを味わった。18歳になって人を恋するようになったときにもこの深い谷間に落ちた。なんだろう、このさみしさというのは。 あめつちにわれひとりいてたつごときこのさみしさをきみはほほえむ 会津八一
法隆寺夢殿を訪ねた折の作だから、作中の「きみ」は救世観音である。救世観音がこのさみしさをねぎらってくれている。
弟が昨年の10月末に他界した。ふつふつとさみしい。右左に分かれているからだろうか。この世の旅をしている一人もさみしいが、遠く旅に出た一人も同じだろう。秋の夜長、煌々と照らして来る月を見ている。月は頻りにわたしを明るさへ誘うのだが・・・
「虫の恩返し」
草原に鳴く小さな虫たちはご恩返しをしているそうな。秋の夜長を鳴き明かして。
いったい誰に? 万物に。お世話になっている万物万象に。これら小さいものたちは頻りに「ありがとうございます」を繰り返しているそうな。ふうん、そんなことがあるのか。
今はキリギリス、コオロギ、スズムシ、カネタタキ、マツムシ、ウマオイ、カンタン、ヤブキリ、ツヅレサセなどが秋を鳴いている。 それらが「わたしたちはあなたがたの愛情に感謝を覚えています」などとお礼を言うほどの段階にまで己を高めているとすれば、小さな虫といえども侮れない。高等な霊長類は同じほどに尊いいのちを、日々憎悪と戦争と怨嗟に明け暮れているというのに。
他者の愛情を感じうる虫たちがこの世に溢れているというのは、これはファンタジーの世界で嘘っぽくもあるが、ほんとうだと信じるこどもたちがいるはずだ。
高校時代に手にした詩集にもそういえばそんなふうな詩があった。蛙が恩返しをしに来ている、と。詩人は言う。だとすれば、恩返しをされるほどに自分はいいことをしたはずだと。知らないうちに蛙がよろこぶことを百も千も万もしてきたのだ、と。そういう自己肯定、万物肯定的なところが明るかった。このように万物間相互に、目には見えていないが、善意の交流があっているとすれば、ここは随分あたたい世界ということになる。
いまでも蛙たち、虫たち、小鳥たちがこどもたちを頻繁に尋ねて来るようだ。そして彼らは万物肯定のファンタジーの花園にあどけないこどもたちを誘い込んでいるようだ。ときには虹や夕焼け雲たちも輪の中にいる。
田圃の蛙たち、草原に鳴く小さな虫たちはご恩返しをしているそうな。人間たちにご恩返しをしているのだそうな。
小学校の頃、稲刈りが済んだ田圃へ学童が出た。これが落ち穂拾いという実践授業だった。ノコギリ鎌で切ってあるが、わずかに切り損ねられた株、稲子積みに運ぶときに落ちた穂先、束ねられないままになっている捨て藁、脱穀機に跳ね飛ばされた籾、そういうものを拾って回った。けっこう拾った。全校生が集めると俵になった。命の糧のお米を僅かでも捨ててはならない、ものを大切にしなければならないということを学ばされた。
これは大きくなってからも役に立った。幸福の落ち穂拾いができたのである。幸福の先頭に立たないでもいい、しんがりでもいい、そこにも幸福が見出されうるということをしばしば実感した。見落とされたものの中にも価値を有するものが残っていた。人が見落としても、自分の目がそれを見出せれば、そこに小さな幸福が息づいていた。これに幾度も救われた。
木枯らしが吹いてくると落ち穂拾いを思い出す。当時の学童は霜焼けとあかぎれの手をしていた。その指先が稲穂を拾い上げた。鼻から青洟を垂らしていた。青洟を垂らしながら田圃の中を歩き回った。
時代が変遷した今は大型のコンバインが唸り声を出して田圃を行き来しているきりだ。
しばらく、とうろりしてしまった。網戸から流れ込む風が冷えている。嫌だよ、風邪を引いちまったらどうする。
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「偉い人だけが生きたことになる」なんてことはない。偉くなくても生きているのである。いや、何をしていてもいいのである。「善をなしていなければ生きたことにならない」ということもない。病気をして寝込んでいても、体力気力が潰え去っていまわの瀬戸際に来ていても、何をしているのか分からないようにふうらりふうらりしていても、それでもいいのである。ああ、よかったと思う。さぶろうは死ぬのを恐怖している割には、薄っぺらな生き方をしているので、ほんとうに生きているのかあやふやな感がすることがある。そんなに死ぬのが恐いのなら、もう少し重厚に威儀を見せて生きたらいいだろうにと思うが、薄っぺらだろうと重厚だろうと一向にかまわないのである。外見に囚われることはない。内容にも依らない。何を所持しているかにも依らない。どういう肩書きを持っているかということにも依らない。どんな生き方をしていようと、大切に生かされているのである。だらしないさぶろうは「ああ、よかった」と思う。でもちょっぴりすまないような気持ちにもなる。
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もう外はすっかり暗くなってしまった。秋が深くなっているのだなあ。さっき黄色になった蜜柑を頬張った。蜜柑がおいしくなっているのでなおさら深い秋を感じる。