いいもの見ぃ~つけた!

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< 郷土料理 > 山形 青菜漬

2024-04-09 08:54:53 | 郷土料理

 「青菜漬」

 主な伝承地域 県内全域

 主な使用食材 山形青菜、塩、醤油、砂糖、酒、焼酎

 歴史・由来・関連行事
 多様な漬物文化が残る山形県。「青菜漬」は高菜の一種「山形青菜」を使った漬物で、「おみ漬」とともに山形県を代表する漬物の一つである。
 青菜は明治37年(1904年)に中国の重慶から入ってきたといわれる品種で、山形県では明治41年(1908年)奈良県から種子を入れ、農事試験場で試作。その結果従来の漬け菜としていた体菜、山東菜、芭蕉菜などよりも品質が優れていることが判明し、山形青菜の栽培を開始した(『北国の野菜風土誌』青葉高)。大正初期から採種できるようになり、昭和に入り、栽培地域が村山地域から県内一円に広がった。
 山形青菜は、1株500g、丈が70cmから80cmと大きく幅広い葉と肉厚の茎が特徴。シャキシャキした歯ざわりと独特の辛味を持つ。「青菜漬」は主に、冬の間の保存食として発展した食べ方で、山形青菜を軽く天日干しして、塩で漬け込んでから一度ていねいに水洗いし、醤油、昆布、カツオ節などでつくる漬けダレで本漬けにする。
 収穫は10月下旬から11月中旬ごろで収穫後一度天日干しにするため、家庭の庭先などで山形青菜を干してある風景や漬物を仕込む風景は、初冬の風物詩にもなっている。

 食習の機会や時季
 山形青菜の収穫は10月下旬から11月中旬ごろ。「青菜漬」は、山形のふるさとの味として、家庭により秘伝の味で受け継がれており、昔は大きな漬物桶にたくさん漬け込み、春先まで食べられていた。正月の席にも欠かせない料理。いまでも山形青菜を栽培している家庭では「青菜漬」をつくっているが、一般家庭では、スーパーマーケットなどで購入することが多い。

 飲食方法
 青菜漬は、なんといっても独特の辛味とシャキッとした歯ざわりが特徴で、炊き立ての白いごはんに合わせればいくらでも食べられ、お茶うけとしても親しまれている。庄内地域には、味噌を塗った丸いおにぎりに「青菜漬」を巻いて、焼き網で軽く焦げ目がつく程度に焼いた「弁慶めし」という郷土料理もある。また、春先にべっこう色になり少々酸味を帯びた「青菜漬」は、炒め煮にして食べるところもある。

 保存・継承の取組(伝承者の概要、保存会、SNSの活用、商品化等現代的な取組等について)
 昔は各家庭でつくられていたが、現在は家庭でつくられる機会はそれほど多くない。スーパーマーケットや直売所などで既製品が販売されており、手軽に購入できる。

*https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/seisaizuke_yamagata.html より

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<伝統野菜・果樹> 大分 大分一号

2024-04-09 08:49:45 | 伝統野菜

 「大分一号」

 【生産地】臼杵市、竹田市、豊後大野市、国東市、豊後高田市など

 【特徴】かぼす。調味料として使われる他の柑橘類と比べ、果汁が多いのが特徴。

 【食味】糖度は平均8~9度。外皮が青いうちはクエン酸もやや強く、甘みの中にまろやかな酸味を出す。日が経つにつれてクエン酸の値は減り、甘みが増す。

 【料理】調味用

 【来歴】古くから竹田や臼杵地方の民家の庭先に薬用として植栽されてきた。

 臼杵市乙見地区に残る言い伝えによると、江戸時代中期の1695(元禄8)年に、宗玄という医師が、京都から苗木を持ち帰り植えたのが始まり。臼杵市内は6本の苗木が植えられ、そのうちの1本が「かぼす」の元祖木になったと伝えられている。

 「かぼす」の記述が文献等に初めて登場するのは戦後しばらくたってからの、昭和中期だが、臼杵市内には樹齢300年といわれる古木が存在し、現在も樹齢200年前後の古木が数本点在している。他県にはこのような古い「かぼす」の樹は見られない。

 元祖木は1988(昭和63)年に枯れてしまったが、枯れる前に元祖木の穂から育成した樹を二世として育て、さらに2年前に二世も樹勢が弱まったので、同様の処置をし、現在は三世が実をつけている。元祖木からは多くの穂が取られ、その兄弟や子孫は「大分一号」という品種名で呼ばれている。大分県は、国産「かぼす」の生産量の98.5%を占めており、その約70~80%がこの品種である。

 【時期】8月中旬から10月下旬

*https://tradveggie.or.jp/44-ooita/#i-22 より

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<B級ご当地グルメ> 北海道 史伝 江差にしん丼

2024-04-09 08:46:19 | B級ご当地グルメ

 「史伝 江差にしん丼」

 都道府県 北海道
 地域 江差町
 推進団体 江差町地域グルメ開発検討会議
 概要 「史伝 江差にしん丼」は、北海道江差町の新ご当地B旧グルメ。
 にしんと地元産の米を使用し、「舞茸」を使用した汁物とこうれん(米菓)を添える。
 2012年2月24日(にしんの日)から町内18店舗で提供され、味付けや盛り付けは各店の工夫にまかされている。

*https://b9navi.com/%e5%8f%b2%e4%bc%9d%e3%80%80%e6%b1%9f%e5%b7%ae%e3%81%ab%e3%81%97%e3%82%93%e4%b8%bc/ より

 江差にしん伝にも踏まえ「歴史が伝える味」という意味合いから名付けられた「史伝 江差にしん丼」。古くから地域の人々に親しまれてきた食材である「にしん」と地元産の米を使用し、「舞茸」を使用した汁物添え、「こうれん」を入れたものとなっています。江差町内の飲食店で食べることができます。

*https://www.hkd.mlit.go.jp/ky/kk/kou_kei/ud49g7000000udst.html より

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うまいッ! NHK「甘みたっぷり 歯応え抜群!天王寺かぶら~大阪市~」

2024-04-09 08:36:36 | うまいッ!NHK

 うまいッ! 「甘みたっぷり 歯応え抜群!天王寺かぶら~大阪市~」 2014年12月21日

 番組内容
 冬野菜の代表かぶ。中でも大阪で江戸時代から栽培されてきた伝統野菜「天王寺かぶら」は、甘みの強さとうまみの深さ、歯ごたえの良さで知られる極上品だ。その反面、病虫害に弱く栽培が難しいため、一時は栽培が途絶えたとも言われたが、18年前、地元で細々と栽培されているのが発見された。その後、農家や市民が一丸となり復活に向け取り組み、栽培量を増やしてきた。ふるさとの味を受け継ぐ人々の姿と、味の秘密に迫る。

*https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201412210615001302100 より

 詳細不明につき、勝手に調べてみました。

 「天王寺蕪-てんのうじかぶら」

<伝統野菜> 大阪 天王寺蕪

https://blog.goo.ne.jp/admin/editentry/?eid=bc3f8ff37a4e15095323a9eedf1b7179&sc=c2VhcmNoX3R5cGU9MSZsaW1pdD0xMCZzb3J0PWRlc2Mma2V5d29yZD0lRTUlQTQlQTklRTclOEUlOEIlRTUlQUYlQkElRTglOTUlQUEmcD0x

こちらもご参考に

 

 原産地 大阪市
 発祥時期 江戸時代
 収穫時期 11から1月
 大阪市天王寺付近が発祥で、葉の切れ込みが深い切葉と葉の切れ込みが浅く葉の形が丸い丸葉の2系統がある。いずれも根は純白扁平で甘味が強く、肉質が緻密である。蕪が地面から浮き上がったように成長することから「浮き蕪」とも呼ばれていた。野沢菜の祖先という言い伝えがある他、与謝蕪村や正岡子規にも詠まれている。天王寺蕪の漬物は絶品です。

*https://www.pref.osaka.lg.jp/nosei/naniwanonousanbutu/dentou.html より

 

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<料理用語-和食> 喰積み

2024-04-09 08:18:34 | 料理用語

 「喰積み-くいづみ」

 新年の重箱料理、組重。

 縁起物だけを詰めてお客に出すものであった。

 現在はおせち料理に吸収された感もある。

*https://temaeita.net/top/t2/kj/7_E/06.html より

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<異名-人物> キリシタン大名

2024-04-09 08:16:01 | 異名

 「キリシタン大名」

 キリシタン大名(キリシタンだいみょう、吉利支丹大名)は、戦国時代から江戸時代初期にかけてキリスト教に入信し、洗礼を受けた大名のことである。

 概要
 戦国時代
 イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルは戦国時代の日本をよく理解し、まず各地の戦国大名たちに領内での布教の許可を求め、さらに布教を円滑に進めるために大名自身に対する布教も行った。後から来日した宣教師たちも同様に各地の大名に謁見し、領内布教の許可や大名自身への布教を行っている。

 その際、大名たちの歓心を得るために、布教の見返りに南蛮貿易や武器・弾薬(特に当時日本で生産できない硝石は羨望の的であった)の援助などを提示した者もおり、大名側もこうした宣教師から得られる利益をより多く得ようと、入信して歓心を買った者もいた。入信した大名の領地では、特に顕著にキリスト教が広がることになった。その後、キリスト教の教義やキリシタン大名の人徳や活躍ぶり(特に高山右近)に感化され、自ら入信する大名が現れ、南蛮貿易に関係のない内陸部などでもキリシタン大名は増えていった。また、畠山高政や六角義賢のように没落したのち改宗した大名もいた。

 しかし、キリスト教に入信した大名とその配下達の中には、領地内の寺や神社を破壊したり焼き払ったり僧に冒涜を加えた者もあった。たとえば大村純忠が、領内の寺社や仏像といった偶像を大規模に破壊したことが『大村郷村記』やルイス・フロイスの報告書(1563年11月14日)に記されている。これらの破壊行為は宣教師自らが異教撲滅のため、キリシタン大名に教唆することもあった。また異教撲滅こそが神への奉仕であり、その見返りに神が合戦で勝利をもたらしてくれるという、大名自身の願望もその理由に含まれていただろうと考えられる。これらの騒動は、たとえば、スペインおよびポルトガルにおけるユダヤ教徒(セファルディム)およびムスリム(モリスコ)排斥や、異端審問といった16世紀から17世紀の非常に排他的かつ尖鋭的な状態にあったキリスト教(ローマ・カトリック)が、他宗排撃を良しとしなかった当時の日本と接触したことにより引き起こされた悲劇であった、と歴史学者の神田千里は分析している。

 一方で、仏教や神道を奉ずる大名の中にも、僧たちの意見を聞き入れ外来の宗教であるキリスト教を邪教として弾圧する者もおり、カトリック教徒と日本の旧来の宗教の信者達との間に憎悪と対立を深めていくことになった。また、豊臣秀吉により天下が統一されると、バテレン追放令(伴天連追放令)が出され、キリシタン大名に対する政治的な圧力が強まり、多くの大名が改易、もしくは神仏への改宗を余儀なくされ(強制改宗)、キリスト教の禁教と迫害の時代に入っていった。

 江戸時代
 江戸時代に入り、1613年(慶長18年)には禁教令も出されたため、秀吉に改易されながらも最後まで棄教を拒んだ高山右近はマニラ(フィリピン)に追放され、有馬晴信は刑死し、以後キリシタン大名は存在しない。

 彼らの領内にいた多数のキリシタンは、仏教に改宗するか、隠れキリシタンとなるか、劇的な例では旧有馬領で起こった島原の乱という大規模な一揆の際に殺害され、歴史の表舞台から消えていった。

*Wikipedia より

 

 キリシタン大名の一覧
 九州

 大友義鎮(宗麟)

 大友 義鎮(おおとも よししげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。キリシタン大名でもある。大友氏の21代当主。宗麟(そうりん)の法号で知られている。洗礼名は、ドン・フランシスコ。豊後の王と称された。

 有馬晴信

 有馬 晴信(ありま はるのぶ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての大名。肥前国日野江藩初代藩主。有馬義貞の次男。キリシタン大名で、大村純忠は叔父に当たる。

 大村純忠

 大村 純忠(おおむら すみただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名。三城城主。大村氏の第12代当主。

 関西

 高山右近

 高山 右近 / 高山 重友(たかやま うこん / たかやま しげとも、天文21年〈1552年〉または天文22年〈1553年〉- 慶長20年1月6日〈1615年2月3日〉)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名である。代表的なキリシタン大名として知られ、カトリック教会の福者でもある。父は摂津国人・高山飛騨守。

 小西行長

 小西 行長(こにし ゆきなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。肥後宇土城主。アウグスティヌスの洗礼名を持つキリシタン大名でもある。

 蒲生氏郷

 蒲生 氏郷(がもう うじさと)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。

 蒲生賢秀の三男(嫡男)。初名は賦秀(やすひで)または教秀(のりひで)。キリシタン大名であり、洗礼名はレオン(レオ、またはレアン)。子に蒲生秀行。

 黒田孝高

 黒田 孝高(くろだ よしたか、旧字体:黑田 孝高)は、播磨国の姫路生まれで戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・軍師。キリシタン大名でもあった(洗礼名はドン・シメオン)。戦国の三英傑に重用され、筑前国福岡藩祖となる。

 筒井定次

 筒井 定次(つつい さだつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将・大名。伊賀上野藩主。

 文禄元年(1592年)に長崎で受洗しており、キリシタンであった事が改易原因の一つでもあると言われている。

 東海

 織田秀信

 織田 秀信(おだ ひでのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将、キリシタン大名。織田信忠の嫡男、織田信長の嫡孫。岐阜城主。織田政権三代当主。官位は正三位中納言で岐阜中納言とも呼ばれた。

 

*全てWikipedia より

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<難読漢字-魚> 海鞘、老海鼠

2024-04-09 08:07:39 | 難読漢字

 「海鞘、老海鼠 ほや」

 ホヤ(海鞘、老海鼠、保夜)は、尾索動物亜門ホヤ綱に属する海産動物の総称。2000種以上が知られる。「海のパイナップル」とも呼ばれている。

*Wikipedia より

 単体ボヤの形態について説明する。外形はさまざまで、他物に固着するのも後端部によるとは限らず、体側全面で行う種も少なくない。固着のための長い柄 (え)をもつ種も少なからずあり、また根状突起がよく発達する種(たとえばマボヤ)もある。この突起で岩に付着するようすを宿り木(古語で「ほや」という)の寄生状態に見立てたのが、「ホヤ」の語源らしい。古来、保夜、老海鼠などの漢字があてられてきた。

*https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1855 より

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<慣用句・諺> 断機の戒め など

2024-04-09 08:02:16 | 慣用句・諺

 「断機の戒め」

 ⇒孟母 (もうぼ) 断機の教え-《「古烈女伝」母儀・鄒孟軻母から》孟子の母が、孟子が学業半ばで帰ってきたとき、織っていた機の糸を断ち切って、学問を途中でやめることはこのようなものだと戒めたという故事。断機の戒め。

 

 「男子家を出ずれば七人の敵あり」

 男が世間に出て活躍すると、多くの敵ができるものだ。

 

 「男子の一言金鉄の如し-だんしのいちげんきんてつのごとし」

 男がいったん口に出した言葉は、堅く守って破ることはない。

 

 「断じて行えば鬼神も之を避く-だんじておこなえばきしんもこれをさく」

 《「史記」李斯伝から》断固とした態度で行えば、鬼神でさえその勢いに気 (け) おされて避けて行く。決心して断行すれば、どんな困難なことも必ず成功することのたとえ。

 

 「男女七歳にして席を同じゅうせず」

 《「礼記」内則から》7歳にもなれば、男女の別を明らかにし、みだりに交際してはならないということ。

 

*goo辞書 より

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<日本酒メーカー> 秋田 奥山儀助商店

2024-04-09 07:56:53 | 日本酒

 「奥山儀助商店」

 

 株式会社奥山儀助商店 秋田県湯沢市吹張1-2-40

 代表銘柄

 「金時」という銘柄らしいが、ネット上には情報が見当たらない。

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<四国八十八箇所> 第9番札所 法輪寺

2024-04-09 07:34:07 | 巡礼

 「法輪寺」

 法輪寺(ほうりんじ)は、徳島県阿波市土成町土成にある高野山真言宗の寺院。正覚山(しょうかくざん)菩提院(ぼだいいん)と号す。本尊は涅槃釈迦如来。四国八十八箇所第九番札所。

 本尊真言:のうまくさんまんだ ぼだなん ばく
 ご詠歌:大乗(だいじょう)のひほうもとがもひるがえし 転法輪(てんぽうりん)の縁(えん)とこそきけ
 歴史
 巡錫中の空海(弘法大師)が白蛇を見、白蛇が仏の使いといわれていることから釈迦涅槃像を刻んで本尊として開基したと伝えられている。当初は現在地より4キロメートル北方の法地ヶ渓にあり白蛇山法林寺もしくは法淋寺と号した。

 天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火により焼失。正保年間(1644年 – 1648年)に現在地に移転して再興され、田園の中にあるため「田中法輪寺」と呼ばれ、当時の住職が「転法林で覚りをひらいた」ことから、現在の山号と寺号に改められた。その後安政6年(1859年)に失火にて鐘楼堂を残して全焼、明治になって現在の堂宇が再建された。

 昔、松葉杖で参拝に来た人が杖がなくても歩けるようになったことから、本堂におびただしい数の草鞋が奉納されている。

 境内

 山門(仁王門)- 入母屋造楼門
 本堂 - 本尊は入滅時の涅槃釈迦如来を取囲む十数体の羅漢達を仏像化したもので、2014年に1年間にわたって開帳された。なお、向って右脇陣には薬師如来坐像が左脇陣には釈迦如来坐像その左に弁財天が祀られている。本尊の開帳は5年に一度で2020年2月15日が最後。
 大師堂 - 2014年より開帳中。
 青不動明王 - 本堂右前に鎮座している。矜羯羅・制多迦童子を従えた半跏趺坐像で修繕から帰ってきた。
 鐘楼
 山門を入ると左側に手水場がある。最も奥に本堂が建ち、本堂の右に大師堂が並ぶ。本堂に向かって左側に参拝者休憩所、納経所等が建てられている。その休憩所の左手に鐘楼がある。

 宿坊:なし
 駐車場:50台、バス10台。無料。

 寺宝
 弘法大師御衣:高野山奥の院御廟で入定されている弘法大師の御衣替えされた衣を明治15年(1882年)に賜る。

 法輪寺 徳島県阿波市土成町土成字田中198-2

*Wikipedia より

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