いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

< 郷土料理 > 山形 孟宗汁

2024-04-21 09:42:46 | 郷土料理

 「孟宗汁」

 主な伝承地域 庄内地域

 主な使用食材 孟宗筍、厚揚げ、しいたけ、酒粕、味噌

 歴史・由来・関連行事
 「孟宗汁」は、孟宗(孟宗筍)という孟宗竹のたけのこを使った郷土料理。孟宗の旬は九州からはじまって季節とともに北上し、最北端の産地とされる鶴岡市で5月中旬にピークを迎える。鶴岡市の温泉地・湯田川温泉周辺には孟宗竹の群雄地があり、孟宗の産地として有名である。しっとりと水分を含んだ粘土質の赤土の土壌が良質な孟宗を育てるといわれており、湯田川で収穫される孟宗は「湯田川孟宗」として全国的に知られている。鶴岡市で孟宗が広がった由来には諸説あるが、修験者が北海道からの商船・北前船で京都から孟宗を持ち帰り、寺社に植えたのがはじまりともいわれる。
 湯田川温泉では4月下旬から6月初旬に「孟宗まつり」を開催。「孟宗汁」をはじめとする孟宗料理や孟宗朝市、孟宗収穫体験などが楽しめるとあって県内外から多くの人が訪れる。そのほか、5月におこなわれる「酒田まつり」や「鶴岡天神まつり」でも、「孟宗汁」は、ごちそうとして親しまれている。

 食習の機会や時季
 「孟宗汁」は鶴岡市に初夏を告げる料理で、鶴岡市出身の直木賞作家・藤沢周平も「毎年5月になると思い出す季節の味」と語っている。孟宗の収穫のピークは5月中旬で、特に掘りたての孟宗でつくる「孟宗汁」は絶品。鶴岡市では孟宗が店先に並びはじめると、街中に「孟宗汁」の香りが漂ってくるほど誰もが知っている家庭料理。

 飲食方法
 孟宗は収穫した直後からえぐみ成分が急激に増加するので、新鮮であればあるほど味が良い。そのため、特に朝採りのものが重宝され、シーズン中は朝から朝採り孟宗を買い求める人々が行列をつくるほど。
 酒粕を使用し、具には厚揚げとしいたけ、豚肉など。庄内地域では、「厚揚げ」のことを「油揚げ(あぶらげ)」といい、通常の「油揚げ」のことは「うすあげ」と呼ぶ。「孟宗汁」では厚揚げを用いることが特徴。庄内地域では家庭料理として根づいている。

 保存・継承の取組(伝承者の概要、保存会、SNSの活用、商品化等現代的な取組等について)
 「孟宗祭」をはじめ、季節の行事で「孟宗汁」が振る舞われ、今も春の味覚として広く浸透している。また、手軽に食べられるレトルト食品としての販売もある。

*https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/mosojiru_yamagata.html より

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<B級ご当地グルメ> 北海道 苫小牧ホッキ炙りめし

2024-04-21 09:32:15 | B級ご当地グルメ

 「苫小牧ホッキ炙りめし」

 都道府県 北海道
 地域 苫小牧市
 推進団体 苫小牧新・ご当地グルメ推進協議会( 苫小牧商工会議所)
 概要 水揚げ日本一の苫小牧のホッキ
 「ホッキカレー」「ホッキラーメン」「ホッキ天丼」などもあるが、 2011年デビューは高級ホッキを3つ使って、刺身・炙り・焼きの生でよし、炙ってよし、焼いてよしを表現、さらにホッキめし、ホッキの副菜、ホッキの汁がついて
「苫小牧ホッキ炙りめし」1,300円。
 苫小牧市内5ヶ所で食べることができる。
*https://b9navi.com/%e8%8b%ab%e5%b0%8f%e7%89%a7%e3%83%9b%e3%83%83%e3%82%ad%e7%82%99%e3%82%8a%e3%82%81%e3%81%97/ より

 北海道初ファイヤーご当地グルメ「苫小牧ホッキ炙りめし」

 ホッキの漁獲高日本一の町・苫小牧で、新ご当地グルメとして登場した「苫小牧ホッキ炙りめし」は北海道初の「ファイヤーご当地グルメ」(火を使って提供するご当地料理)。
 ホッキを生で、炙って、焼いて、ご飯もので、汁物で・・・と色々な調理方法で「ホッキ尽くし」として提供されるのが「炙りめし」の特徴です。
 ご当地グルメの域を超え、ホッキの魅力を余すことなく伝えてくれる「苫小牧ホッキ炙りめし」を堪能しましょう。

 産地ならではの美しいホッキを目で堪能しましょう

 新ご当地グルメ「苫小牧ホッキ炙りめし」は苫小牧の地場産ホッキを生で3個使用します。

 まずはこのホッキ3個の盛り付けを目で堪能しましょう。

 この3個にはそれぞれ「刺身」「直炙り」「貝焼き」と書かれてあるので、それぞれに従って食べて下さい。
 尚、それぞれソースやタレなども付いているので、初めて食べる時に、食べ方がわからない方はお店の方に教わって下さい。この食べ方にも「苫小牧炙りホッキめし」の真髄が隠されていると言っても過言ではありません。

 何故ならば、この炙りホッキめしは北海道初の「ファイヤーご当地グルメ」(火を使って提供するご当地料理)。生でも十分美味しいホッキをあえて贅沢に炙るのには理由もあり、それぞれに適したソースやタレがあるからです。

 3個のホッキのうち、刺身以外の2個については「直炙り」「貝焼き」を飛騨コンロを使用して食べるスタイルはどのお店も共通していますが、これらに合うタレやソースはそれぞれお店独自のもの。和食・洋食・中華のお店がそれぞれしのぎを削ったレシピを提供していますので食べ比べも楽しいです。

 「やっぱり生でも食べたい」の気持ちを満たす刺身もあるのでご堪能あれ。

 尚、写真の料理を提供している「Cafe&Dining Angera」では、刺身は自家製割り醤油と自家製三升漬け、直炙りはゆず風味自家製ダレ、貝焼きにはバーニャガウダ風のホッキ貝のむき汁ベールのタレとバターが添えられています。

 炙ってみよう!

 では実際に炙ってみましょう。

 「苫小牧炙りホッキめし」のルールでは「直炙り」は飛騨コンロの左側の網で炙り、直炙り用のタレをつけて頂きます。

 一方「貝焼き」は「直炙り」の逆側に貝焼き用のタレをかけ、そこにホッキをインして焼いて食べます。

 ホッキは火を通し過ぎると固くなるのでさっと炙るのが正解。ふんわりとしたジューシーなホッキをご堪能下さい。また貝焼きは過熱しすぎると貝が割れる可能性がありますのでご注意下さい。

 副菜にもホッキ!

 副菜にも気が抜けません。

 地場産ホッキ貝を使用した「ホッキの副菜」と「各店自慢の副菜」の2つの副菜と、地場食材を使った各店オリジナルの香の物も添えることも必須条件となっています。

 これらは季節に応じて変化させることも可能とされているため、同じお店でもその時々によって違うホッキ料理を楽しむこともできます。

 写真のお店ではサクッとした食感で万人にうける揚げ物と、ねっとりとした深い美味しさの和え物の副菜でした。他にもサラダなどを提供するお店もあります。

 ついに登場!ご飯「ホッキめし」

 「ホッキ炙りめし」と聞いてご飯ものが登場するイメージが湧くかと思います。

 確かに、「苫小牧炙りホッキめし」にはご飯ものが存在します。
 ルールとしては北海道産のお米を使い、地場産のホッキを使った「ホッキめし」であること。またご飯は180グラム以上であることです。

 貝の入ったご飯は場合によって磯臭かったり、貝が固くなってしまっている残念なタイプもありますが、ホッキは大変ご飯に合うので、ホッキの旨みがぎゅっと凝縮した「ホッキめし」は見逃せません。

 汁物にもホッキ!

 地場産のホッキの汁物をつけることも条件になっています。
 これも店のオリジナルが楽しめ、また、炙ったホッキを入れると格別の旨みが広がります。

 最後には地場産の食材を使ったデザートも提供されます。たくさんの料理が提供されるので、デザートを忘れがちですが、デザートも「苫小牧炙りホッキめし」の一部なのでお忘れなく!

 最後に・・・
 通常の「ご当地グルメ」と言えば単品で手軽なイメージです。
 しかしこの「苫小牧炙りホッキめし」は一線を画し、名産品のホッキの魅力を伝えるべく、様々な調理方法で提供されるのが魅力。
 あなたもホッキにハマるはず。

 ホッキを中心に苫小牧の美味しさを凝縮した「苫小牧炙りホッキめし」を食べに苫小牧へgo!

 ■写真の料理を提供しているお店の基本情報■
 店名:Cafe&Dining Angera
 住所:北海道苫小牧市明野新町2-23-32
  *ホッキが産卵期を迎える5~6月は禁猟期間となるため、「苫小牧ホッキ炙りめし」の提供はありません。
 また、昼しか提供のないお店などもある為、事前予約をおすすめします。

*https://www.travel.co.jp/guide/article/6972/ より

 

 「ホッキ炙(あぶ)りめし」2万食に 苫小牧ご当地グルメ 2015/3/10配信

 苫小牧新・ご当地グルメ推進協議会(市町峰行会長)が開発し、2011年から市内の飲食6店で提供している「ホッキ炙(あぶ)りめし」が2月末で、販売2万食になった。記念キャンペーンとして、3月22日までホッキ貝1個分を増量して提供している。
 ホッキ炙りめしは、苫小牧の新たなご当地グルメとして誕生。苫小牧産のホッキ貝を3個使用し刺し身、焼き、あぶりなど、さまざまな調理方法でホッキの味を楽しめる。  苫小牧でホッキ漁が禁漁となる5、6月を除く7月から翌年9月まで、グランドホテルニュー王子日本料理こぶし(表町)、四季の味熊谷(同)、彩菜房き・き(同)、カフェ・ダイニングアンジェラ(明野新町)、カフェ&フーズキーウエスト(桜木町)、とりあえず逢海(港町)―市内6店舗が1650円(税込み)で提供している。  発売から4年目で2万食の大台を達成できたが、販売数量は11年度7900食、12年度5888食、13年度4307食と減少傾向。14年度は、2月末時点で1905食だった。  同協議会事務局は、発売当所に比べて話題性が薄れた他、ホッキ貝の価格高騰や消費税増税などを受け、当初1300円だった販売価格を段階的に1650円まで引き上げたことも影響していると分析。「地道な販売継続でご当地グルメのイメージを、定着させていくことが何よりも大切」と販売数量には固執しない考えだ。  協議会は27日、新たなメニューの「苫小牧ホッキやきそば」を発売。7月には、苫小牧市内で「新・ご当地グルメグランプリ北海道2015in苫小牧」が開催される予定で「ホッキ炙りめしのPRにもつなげたい」としている。

*https://www.tomamin.co.jp/news/main/5068/ より

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うまいッ! NHK「シャキシャキ ねばり・徳島レンコン~徳島・鳴門市~」

2024-04-21 09:16:23 | うまいッ!NHK

 うまいッ! 「シャキシャキ ねばり・徳島レンコン~徳島・鳴門市~」 2015年03月29日

 番組内容
 全国第2位のレンコン産地、徳島。吉野川下流域の、カリウムなどが豊富でかたく滑らかな粘土質土壌で育まれ、シャキシャキとした歯応えと粘りけがうまれる。他産地のようにポンプで水圧をかけるのでなくわざわざ水を抜いてクワで丁寧に手堀りするため傷もなく、京阪神の市場シェアの9割を占め、京都の料亭でもつかわれる。レンコン農家に密着して、そのおいしさの秘密に迫る。

*https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201503290615001302100 より

 詳細不明につき、勝手に調べてみました。

 「鳴門レンコン」

 鳴門れんこんは色白でシャキシャキと歯切れが良く、柔らかい口触りが特徴です。
 良質の粘土質の土壌で栽培され、一本一本手作業で掘って収穫されます。
 徳島県は、全国のれんこんの三大産地(徳島県、茨城県、愛知県)のひとつと言われ、出荷量は茨城県に次いで2位!
 旬は晩秋~冬にかけて。12月のおせちの時期が最盛期です。
 細くて白長い「新れんこん」は、6~7月が収穫期です。

 れんこんの栄養
 れんこんを切ると、切り口が糸を引きます。 これは、れんこんに豊富に含まれている食物繊維。
 血糖値の上昇を抑え、コレステロールの吸収を抑制してくれます。

 れんこんに含まれる主な栄養成分

 ◆鉄分(貧血予防)
 ◆タンニン(止血効果)
 ◆ビタミンC(免疫力の向上)
 ◆カリウム(過剰に摂取されたナトリウムを排泄し、血圧や心拍を調整)
 鳴門れんこんの歴史
 鳴門市にれんこんが来たのは大正8年(1919)に板野郡松茂村(現松茂町)の佐藤竹太郎氏ほか2人が、 岡山県から種れんこんを持ち帰って栽培したのが、始めとされている。(が、歴史が浅いから、自称の創始者が大勢いるという。)  しかし、当時は採算がとれず、あまり普及しなかったと思われる。
 本格的に作付されるようになったのは、昭和21年の南海地震によって大津町の東部地域で塩害で稲が大幅に減収したことなどで、塩害にあった水田を利用する農家が増えたからと考える。

 鳴門れんこんができるまで
 れんこんの育成ステージは、種れんこんの貯蔵養分を中心に生長する生育初期、茎葉が繁茂して光合成を盛んに行い地下茎を伸ばす生育中期、れんこんが肥大、充実する生育後期に分けられる。

 れんこんの成長
 生育初期は種れんこんの貯蔵栄養を利用しながら、自立に向けて新しい葉を生長させている時期で、立葉2~3枚の頃までを言う。
 これ以降、葉からの栄養供給のみで生長する自立栄養に転換していく。これが育成中期になる。この頃から葉からの栄養供給による生長が進み、葉数が増加するとともに、地下茎の分岐が盛んになる。
 生育後期は地下部の生長が落ち着いて開花の終わった頃で、地下茎の先端のれんこんの肥大が盛んに行われる。
 れんこんは非常に生命力が強く、新しくできた新レンコンの節からまた新しいれんこんが生えてきます。1本のれんこんに何本ものれんこんが生えている状態になるんだそうです。 その出てきたれんこんを親として来年に使用したりします。

 関東のれんこん-関東地域では節間の短い、丸い系統(ダルマ系)のれんこん。
 関西のれんこん-関西地域では長い系統のれんこんが好まれている。
 全国的には丸い系統が主流だが、徳島県・愛知県では古くから長い系統の品種である備中種が多く栽培されている。これは長い系統の品種が、京都や大阪、名古屋の市場で好まれるからである。

 鳴門で作られているれんこんの品種
 徳島県の主な栽培品種:備中種、オオジロ、ロータスの3種類である。

 【 備中 】
 明治の職に長崎に渡来し、岡山県が基点となり、備中種と呼ばれて各地に移動・伝播したとされる。現在、徳島県で露地栽培されている主力品種である。
 晩生だが、れんこんの肥大はよく収穫量は高いれんこんの形状は大型で楕円形、深い位置に伸長する。
 節の接合は直線で肌色は微褐色、肉厚。 他の種類に比べて、葉の大きさは中の大、花は淡桃色で中輪である。
 腐敗病への抵抗性が中程度とする資料もあるが、現在の品種のなかでは弱いほうである。
 晩生であるため、台風被害にもあいやすいなど欠点はあるが、京阪神市場での品質評価は高く、同市場で流通するれんこんのほとんどが備中種である。
 【 オオジロ 】
 備中種は露地では11~13節目にれんこんができるのに対し、オオジロは6~9節目にれんこんができる為、収穫期が早く極早生である。 備中種に比べて腐敗病に強く、短節だが、長節の品種の中では極早生であるため、ハウス栽培やトンネル栽培でも3月中~下旬に植え付け、7月下旬に収穫できる。
 他の早生種に比べ、地下茎の生育位置がやや深い。
 肥料吸収はやや旺盛で、れんこんは肉厚で穴が小さく多収性である。 ただし、高温による葉焼けがおこりやすく、栽培しにくい品種とされている。花は白い。
 【 ロータス 】
 岡山県から愛知県に導入された、岩国系れんこんから選抜された品種である。現在、愛知県での栽培が多い。
 備中種に比べ早生性と対病性を持った品種で、肉質は硬い。
 形状はオオジロと備中種の中間型である。
 早生ではあるが、オオジロよりは遅く、備中種の早堀り競合する。花は白い。
 美味しい鳴門れんこんが食べたい

 れんこん豆知識 その1 -れんこんの下ごしらえ-
 れんこんは、皮をむき、酢水にひたします。
 酢水につけることで、あくや黒く変色する原因となるポリフェノールの働きを抑えてくれるので、 あく抜きができて変色もストップし、より白くおいしく仕上げることができます。
 れんこん豆知識 その2 -れんこんの保存方法-
 れんこんは乾燥を嫌いますので、濡れた新聞でくるんでビニールに入れるかラップで包んで冷蔵庫へ。
 または、酢水に浸して冷蔵庫に入れておきます。(この場合、毎日水を入れ替えます)
 いずれの方法でも1週間~10日ほどは大丈夫です。

*https://www.naruto-mon.jp/appeal/specialty_goods/renkon/ より

 

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<伝統野菜> 宮崎 平家だいこん

2024-04-21 09:11:00 | 伝統野菜

 「平家だいこん」

 【生産地】椎葉村

 【特徴】椎葉村の地大根。元々は焼畑で広く栽培されていたが,現在ではほとんど栽培されていない。西米良村で栽培されている「糸巻きダイコン」と同種のものとされる。根色は白色で紫色の糸を巻き付けたような帯状の線が入るものから,紫色やピンク色など様々であり,花色も紫~ピンク~白色と変異が大きく、多様性が豊かな大根。

 【食味】根は辛味が大変強い。ス入りが大変遅い。

 【料理】葉には毛茸(もうじ、もうじょう:トライコーム)が多いが、柔らかい。干し菜として食す。果肉は、調理しても煮崩れしにくい。煮しめ,漬物,おろし,切り干し大根などで食す。

 【来歴】800年前から種を継がれてきた地大根。

 【時期】2月下旬~

*https://tradveggie.or.jp/45-miyazaki/#i-16 より

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<料理用語-和食> 葛葡萄

2024-04-21 08:42:35 | 料理用語

 「葛葡萄」

 口代わり、前菜にする。

 赤ワインと葛を弱火で30ほど練り、ぶどう粒くらいの大きさに丸め、ぶどうの葉を添えて品よく盛る。

*https://temaeita.net/top/t2/kj/7_E/018.html より

 

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<異名-人物> アーウー宰相/讃岐の鈍牛

2024-04-21 08:34:40 | 異名

 「アーウー宰相/讃岐の鈍牛 大平正芳」

 大平 正芳(おおひら まさよし、1910年〈明治43年〉3月12日 - 1980年〈昭和55年〉6月12日)は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。

 池田勇人の秘書官を経て政界に進出。宏池会会長として三角大福中の一角を占め、田中角栄内閣の外相として日中国交正常化に貢献。四十日抗争やハプニング解散で消耗し、選挙中に首相在任のまま死去。「アーウー宰相」や「讃岐の鈍牛」の異名がある。

 演説や答弁の際に「あー」、「うー」と前置きをすることからアーウー宰相の異名を取った。また、その風貌から讃岐の鈍牛とも呼ばれた。このため鈍重な印象が強かったが、実際は頭の回転が早く、ユーモアのセンスもあった。発言も論理的で、早口であり、「あーうー」を除けば全く乱れがなかった。田中角栄は「アーウーを省けばみごとな文語文になっているんだぜ。君ら(=記者)の話を文章にしてみろ。話があちこち飛んで火星人のように何をしゃべっているのか分からんぞ」と、大平を擁護した。

 自身は「大平さんはあーうーである、あーうーの大平さんということで、この頃、声帯模写でも随分有名になっておるようです」「私は長い間戦後で一番長い外務大臣をやらせて頂きました。私に質問が集中致します。その人に答えなければなりませんが、外務大臣の答弁というのは、ワシントンもすぐキャッチしております。モスコーも耳を傾けております。北京も注意しておるわけでございまするから、下手に言えないのであります。そこで、『あー』と言いながら考えて、『うー』と言いながら文章を練って、それで言う癖がついたものですから、とうとうそういうことになったのでございますが、私は悔いはございません」と発言している。

 この「あーうー」は当時流行語にもなり、物まねする子供も多かった。

*Wikipedia より

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<難読漢字-魚> 寄居虫

2024-04-21 08:30:29 | 難読漢字

 「寄居虫 やどかり」

 ヤドカリ(宿借、寄居虫)は、十脚目ヤドカリ上科 Paguroidea のうち、主として巻貝の貝殻に体を収めてそれを背負って生活する甲殻類の総称。こうした生態が、「宿を借りる」にたとえられて、和名では「ヤドカリ」と呼ばれる。日本語古語での表現は「かみな」(転じて「かむな」「かうな」「がうな」「ごうな」など)であった。英語の「hermit crab」(「隠遁しているカニ」といった意味)、中国語の「寄居蟹」も、貝殻に入って暮らすことに由来する。貝殻の代わりに、ヒトが排出したプラスチックなどのゴミを利用することも多い。

*Wikipedia より

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<慣用句・諺> 池塘春草の夢 など

2024-04-21 08:24:47 | 慣用句・諺

 「池塘春草の夢-ちとうしゅんそうのゆめ」

 《朱熹「偶成詩」の一節》池の堤の春草の上で見た夢。夢の多い少年時代・青春時代の楽しさ、またそのはかなさのたとえ。

 

 「血となり肉となる」

 1 食べた物がよく吸収されて栄養となる。

 2 学んだ知識・経験などが完全に身について将来の活動に役立つようになる。

 

 「治に居て乱を忘れず」

 《「易経」繋辞下から》太平の世にも戦乱の時を忘れず、準備を怠らない。

 

 「血に飢える」

 傷つけたり殺したりしたいような、激しくすさんだ気分になる。

 

 「地に落ちる」

 盛んであった評判や権威などが、全く衰え廃れる。

 

*goo辞書 より

 

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<日本酒メーカー> 秋田 高久酒造

2024-04-21 08:19:30 | 日本酒

 「高久酒造」

 「小野之里」の銘柄酒を醸造していた会社。

 高久酒造(株) 秋田県湯沢市柳町2丁目1−42

 高久酒造酒蔵
 結の蔵は元々秋田県湯沢市の銘酒「小野之里」で著名な高久(たかく)酒造の酒蔵であった。移築前の蔵から発見された棟札には明治21年と記されており大正14年の湯沢市大火や地震・風雪に1世紀以上耐えてきた蔵である。
 2尺(60cm)間隔に並んだ5寸5分(17cm)角の栗や桧の柱、長さが10間(18m)もある1本物の杉丸太の棟木など構造は雄大であり状態も良かった。
 さらに大火から蔵を守った厚さ1尺(30cm)の土壁や3か所の巨大な戸前(蔵戸)の仕上げも見事であった。座敷になっていた部分に使われていた総漆塗りの格子戸も精緻なデザインで魅力的だった。

 蔵との出会い 
 高久酒造現当主の高久正吉氏は、蔵の周りにビルが立ち並び、蔵を存続する為の周辺環境が悪くなった事から、蔵の解体を決意した。しかし貴重な蔵を廃棄するのは忍びなく、山形県羽黒町で民家再生を手掛ける渡部喜美雄氏に相談した。渡部氏は民家再生リサイクル協会を通して貰い手を探し始めた。話を聞いた会員のO設計室大沢は、以前から鎌倉市に蔵を移築し賃貸住宅を作る事を希望していた会員の田中芳郎氏に連絡して早速湯沢市へ赴いた。2人は一目でこの蔵の素晴らしさに感動し、渡部氏を介して高久氏と交渉し、引渡し契約が結ばれた。

 調査から解体へ
 平成14年末からO設計室によって再生計画が始まり翌15年2月に蔵の詳細調査を行った。この調査により改めて酒蔵の構造の雄大さ、部材の状態の良さを再確認した。4月中旬から解体工事が始まり5月連休にはJMRA主催の「解体ワークショップ」を開催した。東北、関東から参加した52人がツルハシを手に壁、屋根の土と格闘した。併せて戸前(蔵の扉)の解体も実施し、壁・戸前の構造を知る良い機会となった。解体終了後、18mの棟木と戸前の搬出は人通りの少ない朝方に行った。戸前は柱につけたまま梱包して取外し、総重量は4.3tであった。解体工事は5月末に完了し、搬出された基礎の石や木材、土は山形県余目町に運ばれ再生の時を待つことになった。

 着工と部材の輸送
 平成16年春に地鎮祭、基礎工事が行われ、山形では木材の加工に取り掛かった。部材の輸送、特に18mの長さの棟木と幅3.6mの戸前(正面の扉)の運搬については当初から難題が予想された。担当した山形県の運送会社は鎌倉に出向き道路事情を視察し輸送計画を立てた。4月19日夕方、木材は大型車3台に積まれ一般国道経由で翌日早朝に鎌倉のストックヤードに到着した。棟木は22日早朝、棟上げ前の現場に搬入。戸前は同じ日にトレーラーで山形県を出発し翌日鎌倉に到着した。4月28日早朝4時、戸前を現場に搬入。クレーン車で建て方の進んでいる蔵の正面へ下ろされた。ピタリと収まり一同胸をなでおろした。

 上棟
 20tクレーンに吊り上げられた長さ18mの棟木は無事に屋根の頂上に載り、文字通り上棟した。平成16年5月19日吉日。棟上げ式は移築を担当した渡部工業の地元である庄内地方の形式で執り行われた。このような伝統的な棟上げ式は鎌倉でも珍しく、地元ケーブルテレビの取材を受けながらの式典となった。棟を玄翁で叩く音や屋根から投げる餅を受ける人々の歓声が新緑の鎌倉市扇ガ谷に響き渡った。

 土壁工事とワークショップ
 鎌倉の斎藤建設にバトンタッチされた再生工事は屋根、外部木工事の後、湯河原市の長田左官による土壁工事に引き継がれた。その間前年11月に実施した「竹刈りワークショップ」で刈り取った真竹を藁縄で結び、そこに泥団子を付ける「竹小舞かき・土壁ワークショップ」を6月に実施した。その泥は前年の9月に藤沢市で実施した「土練りワークショップ」で多くの人達が文字通り“手と足”で練り上げた土である。1世紀以上前の土がこうして新たな命を得たのである。

 落成式
 再生工事はその後内部の造作、設備関係の配管配線と進んだ。一方左官工事は平行して内部の土壁仕上げ、外部の漆喰仕上げと進んでいった。元の蔵の外壁は土壁であったが再生では腰が下見板張り、上部を漆喰塗りとした。艶やかに光る白い漆喰壁の仕上げが終わり、足場が無くなると蔵は元々この地にあったかのように落ち着いた風情となった。
 平成16年11月末、再生工事は一部の残工事を残して完成。落成式には秋田県から元の持ち主である高久氏も列席して盛大に行われた。「立派に再生されて先祖に申し訳が立った」と挨拶する高久氏の言葉が印象的であった。

*https://yuinokura.exblog.jp/9544512/ より

 

 結の蔵、民家移築再生はこうして行われた
 高久酒造酒蔵
 結の蔵は元々秋田県湯沢市の銘酒「小野之里」で著名な高久(たかく)酒造の酒蔵であった。移築前の蔵から発見された棟札には明治21年と記されており大正14年の湯沢市大火や地震・風雪に1世紀以上耐えてきた蔵である。2尺(60cm)間隔に並んだ5寸5分(17cm)角の栗や桧の柱、長さが10間(18m)もある1本物の杉丸太の棟木など構造は雄大であり状態も良かった。さらに大火から蔵を守った厚さ1尺(30cm)の土壁や3か所の巨大な戸前(蔵戸)の仕上げも見事であった。座敷になっていた部分に使われていた総漆塗りの格子戸も精緻なデザインで魅力的だった。

 蔵との出会い 
 高久酒造現当主の高久正吉氏は、蔵の周りにビルが立ち並び、蔵を存続する為の周辺環境が悪くなった事から、蔵の解体を決意した。しかし貴重な蔵を廃棄するのは忍びなく、山形県羽黒町で民家再生を手掛ける渡部喜美雄氏に相談した。渡部氏は民家再生リサイクル協会を通して貰い手を探し始めた。話を聞いた会員のO設計室大沢は、以前から鎌倉市に蔵を移築し賃貸住宅を作る事を希望していた会員の田中芳郎氏に連絡して早速湯沢市へ赴いた。2人は一目でこの蔵の素晴らしさに感動し、渡部氏を介して高久氏と交渉し、引渡し契約が結ばれた。

 調査から解体へ
 平成14年末からO設計室によって再生計画が始まり翌15年2月に蔵の詳細調査を行った。この調査により改めて酒蔵の構造の雄大さ、部材の状態の良さを再確認した。4月中旬から解体工事が始まり5月連休にはJMRA主催の「解体ワークショップ」を開催した。東北、関東から参加した52人がツルハシを手に壁、屋根の土と格闘した。併せて戸前(蔵の扉)の解体も実施し、壁・戸前の構造を知る良い機会となった。

 解体終了後、18mの棟木と戸前の搬出は人通りの少ない朝方に行った。戸前は柱につけたまま梱包して取外し、総重量は4.3tであった。解体工事は5月末に完了し、搬出された基礎の石や木材、土は山形県余目町に運ばれ再生の時を待つことになった。

 着工と部材の輸送
 平成16年春に地鎮祭、基礎工事が行われ、山形では木材の加工に取り掛かった。部材の輸送、特に18mの長さの棟木と幅3.6mの戸前(正面の扉)の運搬については当初から難題が予想された。担当した山形県の運送会社は鎌倉に出向き道路事情を視察し輸送計画を立てた。4月19日夕方、木材は大型車3台に積まれ一般国道経由で翌日早朝に鎌倉のストックヤードに到着した。棟木は22日早朝、棟上げ前の現場に搬入。戸前は同じ日にトレーラーで山形県を出発し翌日鎌倉に到着した。4月28日早朝4時、戸前を現場に搬入。クレーン車で建て方の進んでいる蔵の正面へ下ろされた。ピタリと収まり一同胸をなでおろした。

 上棟

 20tクレーンに吊り上げられた長さ18mの棟木は無事に屋根の頂上に載り、文字通り上棟した。
平成16年5月19日吉日。棟上げ式は移築を担当した渡部工業の地元である庄内地方の形式で執り行われた。このような伝統的な棟上げ式は鎌倉でも珍しく、地元ケーブルテレビの取材を受けながらの式典となった。棟を玄翁で叩く音や屋根から投げる餅を受ける人々の歓声が新緑の鎌倉市扇ガ谷に響き渡った。

 土壁工事とワークショップ
 鎌倉の斎藤建設にバトンタッチされた再生工事は屋根、外部木工事の後、湯河原市の長田左官による土壁工事に引き継がれた。その間前年11月に実施した「竹刈りワークショップ」で刈り取った真竹を藁縄で結び、そこに泥団子を付ける「竹小舞かき・土壁ワークショップ」を6月に実施した。その泥は前年の9月に藤沢市で実施した「土練りワークショップ」で多くの人達が文字通り“手と足”で練り上げた土である。1世紀以上前の土がこうして新たな命を得たのである。

  落成式
 再生工事はその後内部の造作、設備関係の配管配線と進んだ。一方左官工事は平行して内部の土壁仕上げ、外部の漆喰仕上げと進んでいった。元の蔵の外壁は土壁であったが再生では腰が下見板張り、上部を漆喰塗りとした。艶やかに光る白い漆喰壁の仕上げが終わり、足場が無くなると蔵は元々この地にあったかのように落ち着いた風情となった。
 平成16年11月末、再生工事は一部の残工事を残して完成。落成式には秋田県から元の持ち主である高久氏も列席して盛大に行われた。「立派に再生されて先祖に申し訳が立った」と挨拶する高久氏の言葉が印象的であった。

 蘇った結の蔵
 年が改まって平成17年。正面広場の造園工事を実施。2月には最後の工事である正面の戸前の修繕と二階の窓の仕上げが始まった。左官工事でも最も難しいとされる戸前の“磨き漆喰”は白漆喰が乾かぬうちに黒の“ノロ”を薄く塗って最後は手を道具にして磨き上げていく。二階の窓は“大津磨き”の手法で土そのままの色で微妙な陰翳を持つ磨き仕上げとなっている。いずれの技術も使う人がいなければ廃れてしまうものである。ベテランの左官職人と一緒に鏝を当てる若い職人の姿に伝統技術の継承を見ることが出来た。平成17年3月。調査から約2年の月日が流れて酒蔵は鎌倉で甦った。

 「この蔵は幸せ者」  高久正吉(高久酒造㈱社長・元所有者)
 秋田の片田舎の土蔵が縁あって鎌倉市に移築されました。この蔵の棟札から明治二十一年に太大工岩村平治、脇大工佐藤運吉によって建てられ、幾多の地震に耐え、特に大正十四年五月十日の湯沢の大火、焼失家屋四百戸の時も唯一焼け落ちなかった蔵です。目土の用意が在ったにせよ、岩村、佐藤両匠の技が耐火構造建築として立派なものであることが証明されました。解体の時も、土台が寸分狂っていなかったし、木組の確かさに頭の下がるおもいで終始しました。後日跡地を整地しようとしたら、上の面を平らに削った直径七十センチぐらいの川石が列をなして出てきました。その上に切り石の土台石が乗っていたわけです。明治人の基礎工事に対する工夫と思いが感じられました。秋田県でも有数の豪雪地帯から歴史と文化の香り高い鎌倉市に移築された蔵は、上屋も取れ文字どおり出世したわけです。鎌倉では毎年一月四日に鶴岡八幡宮において手斧始式がおこなわれる土地柄とお聞きします。平成の匠によって再構築されたこの蔵は幸せ者です。結の蔵の新しい歴史がさらに百年、弐百年と年輪を重ねて行くことを願ってやみません。

 「良質で長く使える賃貸住宅を」 田中芳郎(結の蔵建主)
 民家の普遍性の高いデザインは日本独自の文化を背景にした本物であり、いつの時代にも好まれるであろう。
また耐久性にも優れている。それが賃貸住宅として酒蔵を再生した大きな理由である。蔵を選んだのはその単純な構造美、重厚なたたずまい、内部の落ち着きに強く引かれるものがあったこと、壁構造で広い空間が取れて間仕切りが自由に取れることなどからであった。幸運にもこのような素晴らしい建物と出会い、工事に際しての種々の難題も経験豊かな方々に助けられて乗り越えられました。鎌倉では主に相続問題のために良好な環境を作ってきた大きな屋敷が庭の木々とともに次々に壊されています。このような状況の中で新しい命を得た「結の蔵」が長く後世まで残り、大勢の方に使われ、日本の長い歴史に育まれた文化や技術を伝承できることを祈願しています。

 「木は木組み、人は人組み」 大沢 匠(O設計室 所長)
 法隆寺棟梁の西岡氏の名言です。結の蔵再生工事においても様々の立場の人々が共通の目標に向かって正に“組みあがった”ことで完成しました。快く先祖の財産を提供してくれた高久正吉氏、全体に細かく気配りをしてこの難工事を采配してくれた渡部工業の渡部社長、難しい輸送を担当してくれたコクエーの石川社長、鎌倉では難しい工事にもかかわらず積極的に現場に取り組んでくれた斎藤建設の木村部長以下各職方。また様々のワークショップを快く引き受けてくれた長田左官の長田喜八社長。そして5回のワークショップに参加してくれた多くの民家再生リサイクル協会の会員の方々。そしてこの事業を民家再生の手本として多くの人々に開放してくれた建主の田中芳郎氏。この建物を「結の蔵」と命名したのはこれら多くの人々の力があってこその再生だと思うからです。結局「物」の伝承は「心」の伝承の上にあることを私たちは深く心に刻んでいきたいと思います。「結の蔵」がその証人として後世に語り継がれることを願いたいものです。

*http://www.o-sekkei.com/works/photos/04_yuinokura/yuinokura.html より

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<四国八十八箇所> 第21番札所 太龍寺

2024-04-21 08:17:38 | 巡礼

 「太龍寺」

 太龍寺(たいりゅうじ)は、徳島県阿南市加茂町にある高野山真言宗の寺院。舎心山(しゃしんざん)、常住院(じょうじゅういん)と号す。本尊は虚空蔵菩薩。四国八十八箇所の第二十一番札所、阿波秩父観音霊場の第10番札所。

 本尊真言:のうぼう あきゃしゃ きゃらばや おん あり きゃまり ぼり そわか
 ご詠歌:太龍の常にすむぞやげに岩屋 舎心聞持(もんじ)は守護のためなり
 納経印:当寺本尊、舎心嶽求聞持大師
 概況

 太竜寺山弥山(標高600.1 m)[注釈 2]の山頂近くに位置し、本堂は標高505 m付近で八十八箇所で6番目の高さにあり、大師堂は、御廟の橋、拝殿、御廟が並び高野山奥の院と同じ配列になっていて、その大伽藍は西の高野と称され、阿南室戸歴史文化道の指定、とくしま88景の選定を受けている。阿波では「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と称され、へんろころがしと呼ばれる難所の一つである。

 歴史
 空海(弘法大師)の24歳での著作である三教指帰(さんごうしいき)の序文に「阿國大瀧嶽に…勤念す」と記されており、大瀧嶽は現在の大竜寺山であると考えられている。19歳で都の大学での学問に見切りをつけて修行に入った空海が、現在の境内の600 mほど西にある舎心嶽の岩上で百日間の虚空蔵求聞持法を修したとされる。山号はその舎心嶽から、寺名は修行中の空海を守護した大龍(龍神)にちなんでいる。

 延暦12年(793年)に桓武天皇の勅願によって阿波の国司・藤原文山が伽藍を建立、堂塔が建立され、空海が虚空蔵菩薩像などを刻み安置したと伝えられている。

 天長2年(825年)淳和天皇が寺領を寄進、嘉保2年(1095年)には白河上皇の命により東寺の長範が再興した。皇室や武家からの信仰が篤く寺勢は栄えたが、天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失し衰退、その後も復興と荒廃を繰り返すが徳島藩主蜂須賀家の保護によって再建される。

 戦後は山中の山寺ゆえに困窮の時代を迎え、龍の窟[注釈 3]を失い、さらに昭和34年(1959年)には三重塔[注釈 4]を失ったが、1992年に太龍寺ロープウェイ[注釈 5] が運行するようになり車利用者でも約30分坂道を歩かないと行きつけない難所であったが容易に参拝できるようになり、遍路ブームの到来もあって隆盛時を迎えた。

 2011年7月の台風6号により、樹齢400年に及ぶスギの先端およそ15 mが折れて、本堂の屋根を突き破ったが数年後に復旧した。また、大師堂もその後の台風で損傷していたが2018年には復旧している。

 境内
 山門(仁王門):金剛力士像は鎌倉時代の作品で、徳島県では最大にして最古のものである。
 鐘楼門:本堂へ通じる石段の途中にある。
 本堂:本尊は天井に達する大きな仏像で半丈六仏。本尊の開帳 毎年1月12日の11時より法要があり、そのあと正午頃から15時頃まで本堂の中に入って拝観できる。厨子の扉は朝一番から開いているので外からの拝観は可能。
 大師堂:旧暦3月21日開帳、明治11年(1878年)再建。

 持仏堂:高知の画家竹村松嶺による龍の絵が大廊下の天井に描かれている。
 六角経蔵
 護摩堂堂:本尊は興教大師作とつたわる不動明王。
 弁天堂(祠)
 多宝塔:1861年建立。法界虚空蔵、金剛虚空蔵 宝光虚空蔵、蓮華虚空蔵、業用虚空蔵の五尊からなる五大虚空蔵を安置、その真言は「おん・ばじら・らたな・あ・あー・あん・あーん・そわか」
 求聞持堂:虚空蔵求聞持法を修行するための道場。天下三ヶ所随一。
 中興堂:長範僧正(第4世・平安後期)と亮山僧正(第22世・江戸前期)を祀っている。
 鎮守社:五社明神(蛭子大明神・天照皇太神・厳島大明神・鹿嶋大明神・三輪大明神)
 相輪橖(そうりんとう):文化13年。
 句碑:種田山頭火『分け入っても分け入っても青い山』が本堂への石段下右にある。
 山門から長い参道を進むと右側に六角経蔵、護摩堂、持仏堂(本坊)、納経所があり、この先の石段を上って行く。石段の途中に鐘楼門が設けられている。上り詰めて左に進むと奥に本堂が建ち、その左後ろに求聞持堂がある。本堂とは逆の右に進むと橋を渡った先に大師堂拝殿がある。履物を脱いで拝殿回廊を回り込んで拝殿裏に行くと大師堂奥殿がある。多宝塔は本堂と大師堂の間の丘の上に立つ。 なお、ロープウェイ利用の場合は、山頂駅舎出口の前の石段を上り詰めると本堂の正面にでる。

 行事:1月12日午前11時より初会式(年に一度の本尊開帳)、旧暦3月21日午前11時より旧正御影供(年に一度の大師像開帳)、旧暦4月8日仏生会(甘茶接待)、大晦日午後11時半より除夜の鐘(一般参加可)

 文化財
 国の史跡
 阿波遍路道 太龍寺道(後半):杉井集落の登り口から太龍寺までの4.3 kmのうち太龍寺側で若杉から山門手前の四叉路までの約1.027 km、平成22年(2010年)8月5日指定。
 阿波遍路道 かも道:一宿寺から太龍寺までの全長4.4 kmのうち太龍寺側四叉路までの1.34 km、平成27年10月7日指定。
 阿波遍路道 太龍寺境内 6 ha。平成29年2月9日指定。
 阿波遍路道 いわや道:太龍寺から南舎心ヶ嶽方面を経て龍の窟(今は無い)へ向かう遍路道のうち、平等寺道の分岐点までの2.675 km。
 1.太龍寺から南舎心ヶ嶽方面の567m。平成22年8月5日指定。
 2. 1.の延長部分で平等寺道の分岐点までの2.068 km。平成25年3月27日指定。
 阿波遍路道 平等寺道(前半):いわや道との分岐点から平等寺方向への0.66 km、平成25年3月27日指定。

 国の登録有形文化財

 本堂:嘉永5年(1852年)建立 (以下9件、平成25年6月21日登録)
 大師堂:明治10年(1877年)建立
 御影堂:明治11年(1878年)建立
 護摩堂:明治34年(1901年)建立
 多宝塔:文久元年(1861年)建立
 六角経蔵:安政3年(1856年)建立
 本坊:明治28年(1895年)建立
 仁王門:文化3年(1806年)建立
 鐘楼門:明治36年(1903年)建立

 県の史跡

 太龍寺の丁石:昭和42年(1967年)12月19日指定。所在地は一宿寺の境内。

 太龍寺 徳島県阿南市加茂町龍山2

*Wikipedia より

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