いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

< 郷土料理 > 山形 塩くじら汁

2024-04-19 08:51:03 | 郷土料理

 「塩くじら汁」

 主な伝承地域 県内全域

 主な使用食材 新じゃがいも、塩くじら、旬の野菜

 歴史・由来・関連行事
 「塩くじら汁」は、内陸の暑い夏を乗り切るための伝統のスタミナ料理。かつては保存もできて、山間の地域における動物性のタンパク源として重宝した塩くじらと夏野菜を一緒に煮て食べ、暑い夏に備えようと生まれた料理だといわれている。塩くじらとは、くじらの皮付きの脂身を塩漬けにしたもの。食材に使う野菜は地域で夏にとれる新じゃがいもやなす、さやいんげんなど、美味しい旬の野菜を使用する。
 村山地域では「いるか汁」とも呼ばれている。村山地域の大江町では、夏休み中に町内の子ども会の集まりがあると、よく「いるか汁(塩くじら汁)」をつくったという。お母さんたちがそれぞれの家でつくった野菜や家にある食材を持ち寄り、大鍋で煮て振る舞った。材料は、塩くじらと新じゃがは必ず入る。またほかにも、夏になり背丈が大きくなっても皮を剥けば柔らかく食べることができる山菜の青みず(青みず菜)と夏の暑い時期に畑に生えて大きくなった多年草のなつ菜(ふだんそう)も必ず入れるという。最上地域では、「塩くじら汁」に入れる山菜の「みず」を味がよく浸み込むようにと手でもぎちぎって使うことから、「もんぎりみず汁(もぎりみず汁)」と呼ばれる。

 食習の機会や時季
 7月から9月の暑い時期に食べる。いまでも家庭で食べられている夏の定番料理の一つ。しばらくして、里芋がとれる秋が近づくと、「塩くじら汁」に代わり、「芋煮(いもこ汁)」をつくる家庭が増える。

 飲食方法
 塩くじらは調理前に表面の塩を水で洗い流し、10分から30分ほど水に浸して塩分を抜いておく。それから熱湯で脂を落とし、短冊切りにするとクセのない美味しい仕上がりになる。塩くじらは、煮すぎるとかたくなってしまうため調理には注意が必要である。鍋に投入するタイミングは、各種野菜が柔らかくなったころ。塩くじらの塩加減を見て、全体の味をととのえるのが美味しく食べるポイントだ。
 昔は、塩くじらのまわりについている塩も利用したが、現在はゆでこぼしをして、雑味や表面の酸化した脂を流すと同時に、臭みをとる作業をおこなうため、塩味を補う必要がある。味噌が臭みを消してくれるため、味付けは味噌が多いが、好みで塩味または醤油味でも良い。

 保存・継承の取組(伝承者の概要、保存会、SNSの活用、商品化等現代的な取組等について)
 夏になると魚屋やスーパーマーケットなどで塩くじらが販売され、家庭で「塩くじら汁」がつくられる。

*https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/shiokujirajiru_yamagata.html より

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<B級ご当地グルメ> 北海道 函館ラーメン

2024-04-19 08:46:18 | B級ご当地グルメ

 「函館ラーメン」

 函館ラーメン(はこだてラーメン)は、北海道函館市のご当地グルメ。当地周辺で単にラーメン、支那そばなどと呼ばれている塩ラーメンである。

 概要
 主に豚骨を弱火で沸騰させないように炊き出したダシに塩タレを入れた透明な塩味のスープに、柔らかめの中太ストレート麺が組み合わされる。具は、チャーシュー、メンマ、長ネギ、ホウレン草、麩もしくはナルトが一般的に使用される。

 一般的に塩ラーメンと呼ばれているラーメンであり、地元の北海道函館市周辺では、単にラーメンもしくは支那そばと呼ぶ。

 歴史
 発祥については諸説存在し、定かではない。

 1884年(明治17年)の函館新聞(1997年1月1日に創刊した函館新聞とは無関係)に、函館船場町(現・函館市末広町)に開店した華僑の経営による洋食店「南京御料理 養和軒 アヨン」4月28日付の広告に「南京そば」が掲載されている。この広告には、「南京そば15銭」の記載があるが、養和軒の南京そばと現在のラーメンとの関連性を正確に示す、レシピなどの資料は発見されておらず、函館がラーメンの発祥とする説は定かではない。

 古くからの開港地であった函館港には、集積する昆布などの海産物の買い付けに、多数の華僑が訪れ、当時の函館の人が彼らを「広東さん」と呼称していたことから、華南出身の華僑が多く、函館における支那そば(ラーメン)のまっすぐの麺と澄んだスープの特徴からも、ルーツは広東系の塩味の湯麺(タンメン)であることが推測される[5]。1935年(昭和10年)のスナップ写真に「支那そば」笑福の文字が確認できるものがあり、この頃には「支那そば」を扱う専門店が既に存在していた事がわかる。また、この「笑福」の隣で営業していた純喫茶「ミス潤」に残っている1932年(昭和7年)のメニューには、ケーキやみつ豆と並んで「支那そば15銭」との記載があり、隣の笑福から壁の小窓越しに支那そばを客に提供していたという。また、当時を知る人は、この支那そばはまっすぐの細麺と、澄んだスープのあっさり味だったという。このように昭和初期の函館市民にはすでに「支那そば」という言葉が市民権を得ていたと考えられる。

 いくたびかの大火を経て、函館の繁華街は函館駅前の方に移動していったが、昭和20年代から30年代にかけて、大門と呼ばれる松風町地区に屋台や、大八車の流し屋台が軒を連ねるようになったが、区画整理やバブル時代の土地高騰等により、これらの屋台はほとんど見られなくなった。

 2002年(平成14年)に函館市政施行80周年を記念して「第1回函館塩ラーメンサミット」を開催し観光転換をする。その趣旨は福岡県久留米市で行われていた「ラーメンフェスタin久留米」を参考にしていた。函館塩ラーメンをブランド化し、函館のイメージアップでさらなる経済波及効果を狙っていたものと考えられている。

 2023年(令和5年)9月1日、製麺所のひとつ丸豆岡田製麺が事業停止をし現場は混乱をした。

 年表
 1884年(明治17年) - 「南京そば」の広告掲載される
 1927年(昭和2年)- 日の出製麺開業
 1934年(昭和9年)3月21日 - 昭和9年函館大火
 1945年(昭和20年)8月15日 - 第二次世界大戦終結
 昭和20年代から昭和30年代にかけて函館駅前の繁華街大門の松風町地区に流し屋台が連ねるようになる
 1946年(昭和21年) - 丸正出口製麺開業
 1954年(昭和29年) - 丸豆岡田製麺所(のちの丸豆岡田製麺)が総合麺類製造販売になる
 1980年(昭和55年)10月 - 千歳空港駅(現・南千歳駅)開業により札幌中心のダイヤに変更されたことに伴い、北の玄関口の前の繁華街としての役目がほぼ終わる
 1988年(昭和63年)3月13日 - 青函トンネル開通に伴い、青函連絡船、特急おおとり号の廃止により大門が北の玄関口の前の繁華街としての役目が完全に終了する
 1989年(平成元年)8月1日 - 函館市、国際観光都市宣言
 1996年(平成8年) - 日清食品「日清のラーメン屋さん」に「函館しお風味」が商品ラインナップに並ぶ
 2000年(平成12年) - 新横浜ラーメン博物館に出店
 2002年(平成14年) - 第1回函館塩ラーメンサミット開催。観光転換を図る
 2023年(令和5年)9月1日 - 丸豆岡田製麺が事業停止して現場混乱

 函館ラーメンの呼称
 「函館ラーメン」という呼称はごく最近に町おこしの一環として名づけたもので、札幌の味噌味のラーメンを「札幌ラーメン」として売り出したのを追って、函館のラーメンを「ご当地ラーメン」とするにあたり「函館ラーメン」なる呼称を与えた。

 1996年(平成8年)に日清食品から発売された「日清のラーメン屋さん」で「札幌みそ風味」「旭川しょうゆ風味」と共に「函館しお風味」が商品ラインナップに並んだ。これが「函館 = 塩ラーメン」のイメージ形成に一役買った可能性もある。

 函館の中華料理店でメニューに「塩ラーメン」の文字が現れたのは2000年頃と、ごく最近である。もともと函館のラーメンは透明スープの塩ラーメンであり、地元では「函館ラーメン」という呼称は一般的ではない。

 製麺所
 丸正出口製麺 - 1946年(昭和21年)開業。函館駅前地区の新川町→音羽町(現・若松町)→松風町にて製造。
 日の出製麺 - 1927年(昭和2年)開業。元々函館駅前地区の松風町で製造していた。1990年(平成2年)より隣町の北斗市(旧・大野町)にて木地挽山の水を用いて製造。
 かつてあった製麺所
 丸豆岡田製麺 - 旧・丸豆岡田製麺所。1920年(大正9年)。函館市西川町(現・大手町)で開業。当初は茹でうどん、そばを販売していた。1954年(昭和29年)合名会社化し総合麺類製造販売になった。直営店「マメさん」を和光デパート、丸井今井に出店。1987年(昭和62年)七飯町に新工場を落成移転。1992年(平成4年)株式会社岡田製麺に改組。

*Wikipedia より

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うまいッ! NHK「コクあり!シャキシャキなめらかワカメ~神奈川・横須賀市~」

2024-04-19 08:22:21 | うまいッ!NHK

 うまいッ! 「コクあり!シャキシャキなめらかワカメ~神奈川・横須賀市~」 2015年03月15日

 番組内容
 東京湾の無人島、横須賀の猿島周辺で養殖されるワカメはシャキシャキ感があり、なめらかな舌触りとコクのある味わいが特徴。漁師歴30年、ワカメの苗も質の高いものを自ら培養することにこだわる生産者の養殖と加工の現場に密着。ワカメを育てる「種網」を、ベストの光合成ができる水深75センチ、3メートル間隔に設置。メカブが握りこぶし大になった適期を逃さずに収穫するという。おいしさのヒミツと魅力に迫る。

*https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201503150615001302100 より

 詳細不明につき、勝手に調べてみました。

 「横須賀のワカメ」

<プライドフィッシュ> 神奈川-冬 横須賀市東部漁協のワカメ

https://blog.goo.ne.jp/admin/editentry/?eid=afc8241ec21723aa2931c022158a361c&sc=c2VhcmNoX3R5cGU9MSZsaW1pdD0xMCZzb3J0PWRlc2Mma2V5d29yZD0lRTYlQTglQUElRTklQTAlODglRTglQjMlODAlRTUlQjglODIlRTYlOUQlQjElRTklODMlQTglRTYlQkMlODElRTUlOEQlOTQlRTMlODElQUUlRTMlODMlQUYlRTMlODIlQUIlRTMlODMlQTEmcD0x 

こちらもご参考に

 【横須賀市】ご近所さんだけが知っていた!絶対行きたい採れたて生ワカメ直売所☆美味しくて歯応え抜群!

 うみのとなり地域情報発信ライター(横須賀市) 2022/3/13(日) 11:40
 空間クリエイター兼ライターの海のとなりです。三浦半島では2~3月がワカメ漁が最盛期。肉厚で食感が良く、豊かな風味があり本当に美味しいですよね。ネット初登場!本日は住宅街にある生ワカメ直売所をご紹介します。

 YRP野比駅から徒歩約5分、通研通りに面した住宅街を通りかかりました。

 クリエイトSD野比店と野比駅付近の踏切周辺です。

 赤い幟が立っています。こんなところに、何があるのか行ってみました。

 なんと生ワカメ直売所です。

 可愛い木の台にはわかめ・めがぶ・くきが並んでいます。どれも1袋100円です。

 もっと数があったそうですが、既に売れたそうです。

 大きなめかぶです。

 くきも美味しそう!

 3月14日で終了!この時期だけ販売
 ちょうど外で作業をされていた直売所の方にお話が聞けました。漁業・ワカメの養殖をされている小夏丸さん。自宅先でワカメ最盛期の2月中旬から3月中旬まで期間限定で朝採りたてを販売しているそうです。

 新鮮で肉厚!歯応えが抜群で美味しい
 ワカメを購入しました。1袋だいたい400gくらい入っています。「ワカメはさっと茹でて、酢醤油で食べると美味しいですよ。」と教えていただきました。

 大きな立派なワカメです。中芯の部分も肉厚ですね。

 さっと茹でると鮮やかな綺麗な色になりました。

 まずは何もかけずに食べてみました。ほんのり塩味でそのままでも本当に美味しい。歯応えも風味も抜群です。酢醤油をかけると酸味が爽やかで美味しいです。葉の部分と茎の部分の両方の食感が楽しめて嬉しい一品です。

 来シーズンには絶対行きたい!
 販売は朝10時からですが、10時前にはご近所の方が並んで待っているそうです。ワカメの時期が終了してしまうので、今年は3月14日で終了するとのこと。次回は来年の2月中旬以降の販売になります。来年は絶対買いに行きたいと思います。もし付近を通りかかった際にはチェックしてみてくださいね。

 小夏丸 生ワカメ直売所  横須賀市野比1-37
 営業時間:平日・10時くらいから(なくなり次第終了)
 生わかめ販売時期 2月中旬から3月中旬まで
 6月くらいにはタコが上がることもあるそうです。

*https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/0082b03efb912e0ff26e2ebb0110735ffdbc6604 より

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<伝統野菜> 宮崎 鶴首南瓜

2024-04-19 08:11:37 | 伝統野菜

 「鶴首南瓜-つるくびかぼちゃ」

 【生産地】小林市 他

 【特徴】日本かぼちゃの一種。晩生の大果種。果形は、細長い瓢箪(ひょうたん)のような形をしており、首の部分は、大半は湾曲(わんきょく)しているが、棒状のものもある。貯蔵性に優れる。

 【食味】果肉はオレンジ色。肉質は粉質で甘みがあり、洋種かぼちゃに劣らぬ甘みのある美味しさ。

 【料理】種子は下部にしかないため、料理しやすく貯蔵性が高いのが特徴。

 【来歴】名は、くびれて湾曲した部分が鶴の首のように見えることからついたとされる。中国からの渡来で、発見されたのは福岡県小郡(おごおり)地方とされる。戦時中に西日本で多く栽培され、甘藷(かんしょ/さつまいも)とともに戦後の食糧難の栄養源として貢献した野菜の一種である。

 【時期】7月~8月頃

*https://tradveggie.or.jp/45-miyazaki/#i-13 より

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<料理用語-和食> 葛鯛

2024-04-19 08:08:47 | 料理用語

 「葛鯛 くずたい」

 椀種のひとつ。

 鯛の身をむしって当たり、裏漉しして葛に混ぜ込み、魚素麺や、団子のようにして茹でる。

*https://temaeita.net/top/t2/kj/7_E/016.html より

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<異名-人物> クリーン三木/バルカン政治家/議会の子

2024-04-19 08:06:01 | 異名

 「クリーン三木/バルカン政治家/議会の子 三木武夫」

 三木 武夫(みき たけお、1907年〈明治40年〉3月17日 - 1988年〈昭和63年〉11月14日)は、日本の政治家。

 徳島県出身。内閣総理大臣(第66代)を歴任した。衆議院議員当選19回、在職51年。称号及び栄典は、正二位大勲位、衆議院名誉議員など。「クリーン三木」、「バルカン政治家」、「議会の子」と呼ばれた。

*Wikipedia より

 一貫して派閥の寄せ集め状態の自民党の体質からの脱却、党の近代化を訴え、時の政権、党執行部とも衝突を繰り返した。1974年、田中角栄の金権政治が暴露され田中が失脚すると、三木の「クリーンさ」が田中と対照的で有権者受けするとみなされ、椎名裁定によって首相に擁立される。周囲は田中の「金権」イメージ一掃のための中継ぎの予定であったが、三木は政治改革を行おうとして田中やその後継の大平正芳らと対立、自民党は分裂・下野寸前に陥る。結局第34回衆議院議員総選挙で自民党は過半数割れの惨敗を喫す。三木は保革伯仲国会を招いた責任をとって在任2年で退陣、自民党は70年代後半の混迷期に入る。

 大政翼賛会や田中派などの大勢力と対立し、一貫して小規模の政党・派閥を渡り歩きながら首相にまで上り詰めたため、バルカン政治家の代表格とされる。

*Wikipedia より

 バルカン政治家(バルカンせいじか)とは、その時々の状況変化に応じ、敵味方を目まぐるしく変えていく政治家、もしくは他国との関係を国際関係の変化に応じて目まぐるしく敵対・同盟に変化させる外交政策を推し進めようと図る傾向の強い政治家の事である。また、特に政治の場ではなくても、比喩(例:「まるでバルカン政治家の様だ」)で使われるケースもある。

*Wikipedia より

 三木は、自らを「議会の子」と称し、議会制民主主義に立脚した政治を大切にした。「人、信無くば立たず」を座右の銘とし、政治は国民の信頼を得なければ成立しないとの信念から、国民との対話である演説に全力を尽くした。小柄だが声は大きく良く通り、自分の言葉で語りかける演説には人を惹きつけ納得させる力があった。

*https://www.awa-kankou.jp/mikitakeonituite/ より

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<難読漢字-魚> 諸子

2024-04-19 07:55:03 | 難読漢字

 「諸子 もろこ」

 ホンモロコ(本諸子、学名:Gnathopogon caerulescens)は、コイ科タモロコ属に属する淡水魚。別名はモロコ、ゴマモロコ、ヤナギモロコなど。

*Wikipedia より

 由来・語源 
 モロコは「もろ」=漢字の「諸」であり多いこと。「こ」は「子」であり子だくさんと表す。
 「もろ」は多いことで、「こ」は魚を表す語尾。
 『日本産魚類検索』(岡田彌一郎、松原喜代松 三省堂 初版1938)にはコイ科モロコ属ホンモロコ(ヤナギモロコ)とある。

*https://www.zukan-bouz.com/syu/%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%83%A2%E3%83%AD%E3%82%B3 より

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<慣用句・諺> 知者は水を楽しむ など

2024-04-19 07:41:52 | 慣用句・諺

 「知者は水を楽しむ」

 《「論語」雍也 (ようや) から》知者は事物の理に通じ、迷って滞ることがないので、よどみなく流れる川を好み、親しむ。

 

 「知者も千慮に一失あり-ちしゃもせんりょにいっしつあり」

 ⇒千慮の一失-《「史記」淮陰侯伝から》どんな知者でも、多くの考えのうちには一つぐらいは誤りもあるということ。十分に考えていても、思いがけない失敗があること。

 

 「痴人の前に夢を説く」

 《朱熹「答李伯諫書」から》愚か者に夢の話をする。無益なことをするたとえ。

 

 「痴人夢を説く」

 おろか者が夢の話をするように、つじつまの合わない話をする。

 

 「父父たれば子も子たり-ちちちちたればこもこたり」

 《「論語」顔淵から》父が父としての道を尽くせば、子もまた子としての道を尽くす。

 

 「父の恩は山より高し」

 《「童子教」から》子が父から受ける恩の高大なことをいうたとえ。「母の徳は海より深し」と続く。

 

*goo辞書 より

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<日本酒メーカー> 秋田 鈴木酒造店

2024-04-19 07:35:51 | 日本酒

 「鈴木酒造店」

 合名会社鈴木酒造店[秀よし]

 創業320余年・秀よしの歴史
 鈴木酒造店の創業は江戸時代初期の元禄2年。伊勢の国(現在の三重県)から旧長野村(現在の大仙市長野)に移り住んだ鈴木松右衛門が、奥羽山脈の伏流水と、良質な米が豊富であるという理由からここでの酒造りを始めました。
 宝暦年間、秋田藩内の酒蔵から名酒を久保田城下に集め、今でいう品評会が催されました。当時、「初嵐」の銘柄であった鈴木酒造店の酒を気に入られた秋田藩主佐竹公はその美味さを讃え、「秀でて良し」という意味から「ひでよし」の酒銘を授け、秋田佐竹藩の御用酒を務めて参りました。
 現在も受けついできた技と心を大切に、品格ある大吟醸酒からスパークリング清酒などの新たなジャンルのものまで、丁寧で革新的な酒造りを続けています。

 酒蔵の特徴
 美しい奥羽の山並みから流れ下る清冽な水。日本有数の穀倉地帯・仙北平野の実り豊かな水田。この豊かな伏流水とこの地で生産された酒造好適米などを使い、秀よしの酒は造られています。
 酒造りの方針は、『その地で育まれた食文化に合う日本酒』を造ることです。私が生まれ育ったこの地域で食される料理は、私の体や心を作り、味覚も作り上げました。ですから、「秀よし」が醸す酒はこの地の料理に合う酒でなければなりません。生産量の八割は地元で飲んでいただけるように心がけております。
 また、江戸時代から精米歩合については気をつけており、先々代からも度々高精白を心がけることを教えられてきました。今も全量自家精米でキレの良いバランスの取れたお酒を生産しております。

 酒蔵の特徴
 代表を務める鈴木松右衛門氏にお話を伺いました。 「わたしたち鈴木酒造店は、秋田佐竹藩の御用酒蔵として愛されてきました。その挟持を忘れずに、お米の味を贅沢に表現し、仙北の地酒、秋田の地酒として食文化を未来に残せるよう、大事に守っていけたらと思います。
 これから10年、20年、何十年と時が経過しても、秋田に『秀よし』があって良かったと思われるよう、社員一人ひとりの個性を生かしつつ努力していきたい。
 そして、不易流行の精神で地元のお客様のために存在する酒蔵でありたい。
 また『誰が、どこで、どのように造っているのか』を、常に蔵を開放することで知っていただき、お客様から信頼を得、更には酒蔵の歴史に触れることも楽しんでいただきたいと思っています。
 これからも、日本酒と料理の出会いの喜びを楽しんで頂けると嬉しいですね」。

 ※代表プロフィール
 秋田県酒造組合理事
 秋田県酒造組合仙北支部長
 元秋田県商工会青年部会長
 代表社員 鈴木松右衛門氏

 合名会社鈴木酒造店 大仙市長野字二日町9

*https://www.osake.or.jp/kuramoto/24suzuki.html より

 代表銘柄

秀よし 純米大吟醸酒
パッケージをより高級かつスタイリッシュなものにリニューアルし、世界最高峰の評価を得たお酒にふさわしいものにいたしました。グラスから立ち上る食べ頃果実のような爽やかな吟醸の香りと、優しく広がる米の旨みを是非お楽しみ下さい。

原料米 / 山田錦、秋田酒こまち日本酒度 / +2.0酸度 / 1.2アルコール分 / 15度

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<四国八十八箇所> 第19番札所 立江寺

2024-04-19 07:23:39 | 巡礼

 「立江寺」

 立江寺(たつえじ)は、徳島県小松島市立江町にある高野山真言宗の寺院。橋池山(きょうちさん)、摩尼院(まにいん)と号す。本尊は延命地蔵菩薩。四国八十八箇所第十九番札所で「四国の総関所」、また「阿波の関所」として知られる。

 本尊真言:おん かかかびさんまえい そわか
 ご詠歌:いつかさて西のすまいのわが立江 弘誓(ぐぜい)の船に乗りていたらん
 納経印:当寺本尊、四国総関所善人之証(朱印のみ揮毫なし)、奥之院清水寺
 歴史
 寺伝によれば、聖武天皇の勅願寺として、行基が光明皇后の安産を祈願し一寸八分 (5.5 cm) の金の子安の地蔵菩薩を刻み「延命地蔵菩薩」と名付けて本尊として開基したとされる。空海(弘法大師)が訪れた際、小さい本尊は失われる恐れがあるとして、一刀三礼して等身大の地蔵菩薩を刻み、本尊を胎内に収めたといい、このときに寺名が立江寺と改められたと伝えられている。当時は現在地から400 mほど西の奥谷山清水寺のある場所であったという。

 天正年間(1573年 - 1593年)に長宗我部元親の兵火により全焼したが、幸い本尊は難を逃れた。その後徳島藩藩祖蜂須賀家政によって現在の地で復興された。1974年(昭和49年)に火災が発生、本堂が焼けたが本尊は無事で1977年(昭和52年)に再建された。

 境内

 山門 - 入母屋造楼門、金剛力士(仁王)像を安置。
 本堂 - 大きい地蔵菩薩坐像を拝顔できる。東京藝術大学教授ら40名余が描いた286枚の格天井画がある。
 観音堂 - 本堂の向かって左の棟続き、如意輪観音を祀る。
 護摩堂 - 本堂の向かって右の棟続きで、護摩が焚かれる。
 大師堂 - 毎年、元旦から1月10日まで黒衣大師像が開帳され、眼前で参拝できる(有料)。両脇に伝持の八祖が仏像で鎮座
 多宝塔 - 1918年(大正7年)に建立された仏塔。一辺5.59m、上重は銅板葺き、初重は本瓦葺き。
 白杉大明神 - 「我は弘法大師入唐の守護神なり・・」とある婦人が感得した明神。
 黒髪堂 - 不義をしたお京が詣ると毛髪が逆立ち鐘の緒に巻き付き残ったとの伝説が残る。
 毘沙門堂 - 毘沙門天立像を祀る。
 神変堂 - 神変大菩薩を祀る祠。内部は見えない。
 子授け地蔵尊
 鐘楼
 歌碑句碑:当寺のご詠歌「いつかさて西のすまいの我が立江 弘せひの舟に乗りていたらん」入り口の右側にある。君子「お遍路の 一歩 鈴より は志まわりし」が毘沙門天の小堂の左前にある。義翁「妻のつえかりて旅立つへんろかな」・怒雪「ふるさとも竹山ばかり五月雨」が同石碑に。「ぼうたんの百花のなかにゐて現つ」。汀史「浄瑠璃や母ハ羅(うすもの)着て泣けり」。以上の3基は鐘楼堂の左に並んでいる。
 山門を入ると左に鐘楼が、右には毘沙門堂があり隣に手水場がある。その先左側に本堂が建ち、本堂左に観音堂がある。本堂を背にして境内の南に進むと右に多宝塔、左に神変堂があって奥に大師堂が建つ。大師堂の右に黒髪堂がある。納経所は山門の正面奥の右側である。春先には利休の命日に咲くことから利休梅と云われる白い可憐な花が咲き、4月には牡丹が境内のいたるところに咲く。

 宿坊:定員200名
 駐車場:30台、バス6台。有料。山門の外の道路脇に民営が、そのすぐ向こうに市営がともに普通車で200円がある。
 白鷺橋 - 立江川に掛けられた橋で、白鷺(しらさぎ)の姿を見ることなく渡った者は善男善女であるとされる。

 文化財
 重要文化財
 絹本著色釈迦三尊像:明治43年8月29日指定。京都国立博物館に寄託。

 立江寺 徳島県小松島市立江町若松13番地

*Wikipedia より

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