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<都市の異名> 筆の都

2022-10-17 07:48:17 | 都市の異名

 「筆の都 熊野」

 「筆の都」熊野町の「筆塚」 2019年4月4日 木曜日

 「筆の都」と言われる広島県熊野町には、八百年前に紀州熊野より勧請され、町名の由来にもなっています熊野本宮神社とともに宇佐八幡宮より勧請されや約千百年の歴史を誇る榊山(さかきやま)神社があります。
 この神社は町の中心部に位置しており、広大な敷地内に両神社の他に四社の摂末社もあり、我が社からも近く、昼休みに歩いて訪れて境内を散策するにはちょうど良い距離と広さです。
 その榊山神社の境内に「筆塚(ふでづか)」という大きな石碑があります。

 1965(昭和40年)9月に「筆精」を供養するため建てられたもので、毎年秋分の日に行われる「筆まつり」では、これまで使用してきた筆を心から大切に思う気持ちと同時に、筆の毛となってくれる動物の霊に感謝し、この塚の傍で役割を終えた筆を焼いて供養します。

 この石碑に揮毫されている「筆塚」の文字は、広島県出身の池田勇人元首相の肉筆を刻んだものです。昭和30年代の後半に所得倍増計画を打ち出して日本の経済成長を牽引した人として有名ですが、日本の書道の歴史にも重要な役割を果たしました。
 戦後GHQの教育方針で習字が義務教育から外され、熊野の筆の業者を含め文房四宝の生産者にとっては死活問題でした。時に熊野町長や熊野筆事業協同組合理事長を歴任した我が社の三代目社長(現社長の伯父)の城本勝司が、地元広島選出で中央の政治・行政に力のある池田氏にご協力をお願いして、多方面に働きかけを行って頂き、昭和43年の文部科学省の小学校学習指導要領の改訂で習字が必須科目になることが告示されるに至りました。
 この筆塚ができた時には池田氏は既に病に倒れ亡くなっておられましたが、この「筆塚」の揮毫は今尚残っております。

 そのような歴史を手繰りながら境内を散策すると興味深いです。この「筆塚」の揮毫を近くから見ますとなかなか胆力のある字です。書は人なりという言葉がありますが、まさに日本の政治経済を牽引した池田氏の力強さが文字に現れています。

*https://www.artbrush-hiroshima.com/etcetera/entry-620.html より

  「熊野筆」

 広島県安芸郡熊野町で生産されている筆。経済産業大臣指定伝統的工芸品。産地組合である熊野筆事業協同組合が管理する団体商標。

 「筆の都」と称する日本最大の生産地で、愛知県豊橋筆・奈良県奈良筆・広島県川尻筆とともに日本四大産地を形成する。一般には国内シェア8割、これに川尻筆と合わせると広島県産の国内シェアは9割になると言われている。

 1954年(昭和29年)には熊野町商工会調べによると国内生産額で9割に達し熊野町全戸数の8割が毛筆業に従事していたという。別のソースには同年の国内生産高70%、画筆のみ60%に達したという。1958年(昭和33年)山陽新聞は生産高90%、年間10億円と報じている。

 化粧筆・画筆の台頭
 ただし毛筆は1970年代以降生産は伸びていない。外国製の安価な普及品に加え、マジックペン・ボールペン・筆ペン[注 1]などの文房具の多様化、PCやスマホの普及、少子化による学童用毛筆の停滞、など毛筆人口の減少によって需要が増えていかないためである。

 伸び悩む毛筆に代わって台頭したのが化粧筆・画筆である。戦後から本格的生産が始まり、1950年代には化粧筆生産は順調に軌道に乗り、1960年代には化粧筆・画筆・工業用刷毛それぞれの生産量の方が毛筆よりも多くなっている。この頃から大手化粧品メーカーのOEM生産が始まり、化粧品とのセット販売も行われ、従来の熊野筆の化粧筆製造技術に欧米のものも取り入れるなど技術革新に努めた。1970年度のデータでは毛筆がほぼ国内で流通しているのに対し刷毛類(化粧筆)・画筆は6割近くが海外、主に北米市場へ輸出されていた。

 しかしこうした順調な流れも1971年ニクソン・ショック以降の不況によりストップがかかることになる。いくつかの企業ではニクソン・ショック以降赤字に転落したと証言している。

 1981年度のデータでは、化粧筆が伸びていたものの、画筆は横ばい、工業用刷毛はポリ容器油差しの普及により減少している。1985年プラザ合意後の円高進行は熊野筆企業の海外進出に拍車をかけることになる。現在化粧筆世界トップシェアの白鳳堂にとっては1995年にカナダの化粧品メーカーであるM・A・CとのOEM契約が転機になったという。

 こうした中でまず海外で化粧筆の品質が認められることになり、ハリウッドセレブ御用達、あるいはパリコレのメイクアップアーティストが認めた筆、と謳われるようになった。これに1990年代後半から国内メディアで熊野の化粧筆が取り上げられ始め、同じ頃美容ブームやメーク専門女性誌が創刊されたことにより注目され始めた。そして2011年なでしこジャパンへの国民栄誉賞記念品として取り上げられたことで国内での知名度が一気に上がることになった。

*Wikipedia より


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