「村山大島紬」
伝統の絣に洗練された絹の風合いを加える
絣文様には和の心が宿る。経緯の織り糸の微妙なずれが、幾何学模様に人間らしい温もりを与え、素朴な手作りの質感が安らぎを生む。生糸を用いる村山大島紬は、この民芸風の基調に加え、光沢感、格調の高さも注ぎ込まれている。最大の特徴は、絣板を用いた板締め染色が取り入れられていることだろう。図案を基にして水目桜の絣板に溝を彫り、この板の間に糸をはさんで積み重ね、ボルトで締めた後、染料を注ぐ。溝の山の部分は染まらずに残り、谷の部分だけが染まる仕組みだ。出来上がった絣糸は図案通りに並べ直さなければならない。どの工程をとっても熟練を必要とする手作業である。
経験と勘で技術を磨く
村山大島紬の生産の最盛期は昭和8~9年ごろとされている。ちょうどこの頃、機屋の仕事を本格的に始めたのが原田福夫さん。3代目である原田さんは、当時は作業場と自宅が一緒だったこともあり、村山大島紬に囲まれて育ったという。14才で職人としてのスタートを切ったわけだが、忙しかった時代で朝早くから夜遅くまで作業が続いた。「朝作りといって、朝食前にひと仕事済ませていました。前の晩に釜に入れて精錬染色したものを翌朝、川で水洗するのですが、冬場は川の水が凍っていましてね。それを割りながらの作業でした」。経験と勘が物を言う職人の世界。板締め染色は、染まり具合を目で確認することができない。「締め方によって、染まってはいけない山の部分まで染まってしまうこともある。開いてしまえば、やり直しができないわけですから、やはり難しい」。根気と努力が必要とされる分、自分の考えたとおりに出来上がったときには大きな喜びがある。
新しい商品の開発も
生産が盛んだったころは、女性のいる家ならどこからも夜遅くまで機織りの音が聞こえてきたという。色調や柄風の現代化に努力し、戦後の混迷期を乗り越えた村山大島紬は、昭和50年に国の伝統的工芸品の指定を受けたことで飛躍的に需要が伸び、第二のピークを迎える。「作っても作っても、すぐに在庫がなくなる。作れば売れるという状況でしたね」。だが、織元の手腕が本当に試されるのは、やや売れ行きが落ち着いた時期である。「ある程度行き渡ると、今度は質の良いものが求められるようになる。同じものを作っていては売れませんから、新しい商品を考えなければなりません」。それまでは割付け文様など堅実な柄が主流だったのが、この頃から飛び柄、地あき柄などが作られるようになった。「あいている部分をつぶさずに染めるなど、より複雑な技術が要求されるようになりました。村山では無理だと思っていた文様がうまく出来上がり、品評会などで評価されたときには本当にうれしかった」と原田さんは話す。地元で採れる狭山茶を煎じた染料を使って地色に変化をもたせるなどの試みがなされたのもこの時期だった。
伝統の灯を消さないために
着物を着る人が明らかに減ってしまった最近の状況は残念なことではあるが、この時代だからこそ、質の良い優れた商品に目が向けられていく。「誰にでもできることではないからこそ、伝統の灯を消さないように残していきたい」という生産地の思いが一本一本の糸に込められた村山大島紬。作り手側にも価値ある商品であることを消費者に認識してもらうための努力が求められるだろう。原田さんの息子で4代目になる稔さんは、「これからは、あまりもうけを考えずに楽しみながら大事に伝統を守っていくことですね」と話している。無から物を作る喜びは変わらずそこにある。
*https://kougeihin.jp/craft/0108/ より
Description / 特徴・産地
村山大島紬とは?
村山大島紬(むらやまおおしまつむぎ)は東京都武蔵村山市周辺で作られている織物です。経緯絣(たてよこがすり)の絹織物で、玉繭(たままゆ)から紡いだ手紡糸で作られます。
村山大島紬は、綿織物で正藍染め(しょうあいぞめ)が特徴の「村山紺絣」と、玉繭から作られる絹織物の「砂川太織(ふとおり)」が結びついて発展したものです。奄美大島の大島紬に似ていることから、「大島」の名がついて広まりました。
村山大島紬の特徴は、絣板を用いた「板締め染色(いたじめせんしょく)」の技法が取り入れられていることと、精緻な経緯絣の模様です。板締め染色とは、図案をもとに溝を彫って作った絣板を使って糸を染める技法です。
絣板の間に糸を挟み、ボルトで締めてから染料を注ぐと、溝を彫った部分に染料が入って染まり、彫り残した山の部分は染まらないで残ります。さらに色を重ねる場合は「すり込み捺染」で別色をすり込み、染め上がった絣糸を図案通りに並べ直してから織っていきます。こうして作られる村山大島紬は、微妙なずれのある素朴な民芸調の絣模様と絹の光沢、軽くて着心地の良い風合いが魅力です。
History / 歴史
村山大島紬の作られる、狭山丘陵南麓に位置する村山地域では、大陸からの帰化人により、奈良時代から織物が作られていたと言われています。
1600年代後半の江戸時代元禄年間頃から縞模様の木綿織物が作られるようになり、1800年代初頭の文化期に村山絣と呼ばれる絣模様の織物が作られるようになりました。この村山絣は江戸時代に発展します。
明治時代になると砂川太織と呼ばれる玉繭を使った絹織物が作られるようになります。1919年(大正8年)に織物の先進地であった群馬県伊勢崎から絣板を使った「板締染色」や経巻(たてまき)などの技術が導入され、村山紺絣と砂川太織の技術をもとに村山大島紬が作られるようになりました。
村山大島紬は主に普段着として普及し、高度経済成長期には大きな需要がありましたが、その後、生産は縮小します。1967年(昭和42年)に東京都指定無形文化財に指定され、1975年(昭和50年)には伝統的工芸品の指定を受けて、伝統技法が受け継がれています。
*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/murayamaoshimatsumugi/ より
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