第24回 2013年5月28日 「しなやかに変幻自在~大分 別府竹細工~」リサーチャー:浅見れいな
番組内容
湯の街・大分県別府市が誇る「竹細工」。伝統的な技術を応用して、女性向けのおしゃれな日用品が次々と作られている。世界的な宝飾ブランドもクラッチバックの製作を依頼。さらにメトロポリタン美術館に所蔵される現代アートにまで進化した。竹細工の基本は、繊細なひご作り。1本1本角を取りながら削っていく。このひごを200種類あるという編み方を駆使して作る。女優の浅見れいなが、魅力的な製品を生み出す職人の技に迫る。
*https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201305281930001301000 より
詳細不明なので、勝手に調べてみました。
「別府竹細工」
大分県別府市周辺で伝統的に生産されている竹細工である。
概要
竹材のうちで竹細工に使用されるのは主にマダケである。大分県はマダケの生産量が32%(2007年)のシェアを占めて全国一であり、その豊富な竹材を利用した竹工芸が歴史的に盛んである。中でも別府竹細工は、県内産の良質のマダケを主材料とし、花籠、盛かご等の籠(篭、かご)を中心に、青竹を使った日用品から、ファッション性を追求したバッグや、インテリア照明まで幅広い製品を生産している。
竹細工には、伐採したままの青竹、火であぶったり(乾式)、苛性ソーダで煮沸したり(湿式)して油抜きをした晒し竹、ある程度炭化させた炭化竹、伐採後数ヶ月から数年間自然に枯らしたもの、家屋の屋根裏で数十年間囲炉裏や竈の煙で燻された煤竹といった、弾力性、硬さ、耐久性などが異なる種々の竹材が利用目的によって使い分けられる。
歴史
「別府竹細工」の起源は、人皇12代景行天皇が九州熊そ征伐の帰りに別府に立ち寄った際、お供の膳伴(台所方)が、良質のシノダケの多いことを発見して、メゴ(茶碗かご)を作ったことが別府竹細工のはじまりとされます。
しかし、別府で竹工芸品が本格的に生産されるようになったのは、室町時代のことであり、行商用の籠が生産され、取引のための市場が整備されたとされる。江戸時代には、別府温泉が全国的に知られるようになり、湯治客が滞在中の自炊のために使用する飯籠、笊(ざる)などの竹製生活用品が販売された。
明治のはじめ別府港が完成すると、別府は瀬戸内航路の物資が集まる中継地となり、さらに大勢の湯治客が訪れる温泉都市へと変化する中で、竹細工への需要も大きく高まっていく。湯治客の滞在生活の中で評判を得た竹製生活用品は、土産品としても利用されるようになって市場が拡大し、別府の地場産業として定着した。
また、泉都別府には財界人や文化人などが集まる別荘が多く建てられ、茶道具などの美術品が求められるようになる。そのような中で編組技法の高度化などの別府竹細工の特徴が見られるようになり、太さの違うひごを駆使した多彩で複雑な網代編み文様などを用いた様々な美術工芸品も産み出されるようになった。
1902年(明治35年)に創立された 別府町・浜脇町学校組合立工業徒弟学校(現在の大分県立大分工業高等学校の前身)では、竹工芸の技術者育成が行われた。
1938年(昭和13年)には、竹工芸の技術者育成、試験研究のために、大分県工業試験場別府工芸指導所(1954年(昭和29年)に大分県別府産業工芸試験所に改称)が大分県によって設立され、その後、大分県立別府高等技術専門校との統合で発足した大分県竹工芸・訓練支援センターは、竹工芸科を持つ日本で唯一の職業能力開発校であり、現在も多くの技術者を育成している。
1967年(昭和42年)には別府市の生野祥雲斎が竹工芸では初めての重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されるなど、別府竹細工はその品質も高く評価されている。1979年(昭和54年)には経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定されており、伝統工芸士の認定登録者は2011年2月現在で21名にのぼる。
また、1978年(昭和53年)には、業界団体である別府竹製品協同組合が設立され、別府竹細工の発展・振興等を図っている。現在は地域団体商標に登録されている。
別府市竹細工伝統産業会館
1950年(昭和25年)に、竹工芸の試験研究のために別府市によって設立された別府市工芸研究所を前身とする。現在の別府市竹細工伝統産業会館は1994年(平成6年)6月に竣工したものである。
別府竹細工の作品や資料を収集・研究して、常設展示や、企画展示会を開催し、後継者育成教室、体験学習教室なども行っている。また、2011年(平成23年)9月からは竹細工の土産品の販売も開始している。
所在地:大分県別府市東荘園8丁目3組
*Wikipedia より
竹のしなやかな美しさが目をひく別府竹細工の魅力
別府竹細工とは
別府竹細工とは、大分県別府市周辺で生産されている、竹製の工芸品です。県内で産出するマダケという竹を主材料として作られます。その伝統的な製法を長年守り続けてきたことにより、1979年に経済産業大臣より、伝統的工芸品の指定を受けています。
日用品から芸術品へと姿を変えた別府竹細工の歴史
別府竹細工の起源は、奈良時代まで遡ります。『日本書紀』には、景行天皇(けいこうてんのう)が九州南部の熊襲(くまそ)討伐を終えた帰りに別府に立ち寄った際、お供の台所方が良質な竹から茶碗カゴを作ったことが記されています。
こうして生まれた竹細工は、室町時代に入ると、行商用のカゴとして使われるようになります。そして江戸時代に入ると、別府は温泉地として有名になり、各地から湯治客が集まります。その湯治客が、炊いた米を入れるカゴなどの土産物として竹カゴを買い求めたため、別府の竹細工はますます生産されるようになりました。
さらに、1902年、別府浜脇両町学校組合立工業徒弟学校(現・大分県立大分工業高校)が創立されます。徒弟学校は多くの竹職人を輩出し、別府竹細工を単なる土産物に留まらない優れた工芸品として、その価値を高めていったのです。
そんな別府竹細工ですが、高度経済成長期を迎えた日本では、プラスチック製品の輸入が盛んになります。安価で丈夫なプラスチック製品に圧され、別府竹細工は存続の危機に瀕してしまいました。
別府竹細工はこれまで培われた高度な技術を活かし、手軽な生活用品から、次第に高級竹製品や芸術品としての道を歩むようになります。1967年には生野祥雲斎(しょうのしょううんさい)が竹工芸初の人間国宝となり、別府竹細工というブランドはますます高度で洗練されたものへと昇華されます。
このように、別府竹細工は、その時代の需要に応じて柔軟に姿を変えていきながら、今日まで受け継がれているのです。
*https://www.thebecos.com/collections/beputakezaiku より
「生野祥雲斎」
1904年(明治37年)9月10日 - 1974年(昭和49年)1月10日)は、竹工芸家。人間国宝。本名は秋平。
略歴
1904年(明治37年)、大分県大分郡石城川村(現別府市)内成に生まれる。石城尋常高等小学校を卒業後、1923年(大正12年)、19歳で佐藤竹邑斎に師事して竹工芸を学ぶ。1925年(大正14年)、21歳の時に独立し夢雀斎楽雲と称したが、後に妙心寺管長の神月徹宗に名付けられた生野祥雲斎を用いるようになる。1927年(昭和2年)から大分市に居を構える。1938年(昭和13年)から1946年(昭和21年)まで大分県工業試験場別府工芸指導所で商工技手として後進の指導にあたった。
1940年(昭和15年)の文展(紀元二千六百年奉祝美術展)に初入選。以来、文展に出品し、1943年(昭和18年)には『銘心華賦』が特選となる。第二次世界大戦後は、純粋な造形美を志向した創作を行い、1956年(昭和31年)に『怒濤』が日展北斗賞、1957年(昭和32年)に『炎』が日展特選・北斗賞を受賞。1967年(昭和42年)には竹工芸初の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。
1974年1月9日、腎不全と腹膜炎のため大分県にある別府国立病院にて死去。69歳
*Wikipedia より
作品名 輪花永芳盛籃 素材・技法 竹、籐
制作年 1944年 サイズ 高14.0・径39.0cm
生野祥雲斎 作
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