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<異名-スポーツ選手> 月見草

2024-09-21 07:38:52 | 異名

 「月見草 野村克也」

 野村 克也(のむら かつや、1935年〈昭和10年〉6月29日 ‐ 2020年〈令和2年〉2月11日)は、京都府竹野郡網野町(現:京丹後市)出身 のプロ野球選手(捕手)・コーチ・監督、野球解説者・野球評論家。後妻にタレントの野村沙知代。

 プロ野球史における屈指の名打者・名捕手として知られ、選手と監督の両方で3000試合(いずれも歴代2位)を達成した唯一の人物。当時歴代最多のシーズン52本塁打、戦後初の三冠王をはじめとする数々の記録を打ち立て、実働26年でベストナインを19回獲得(歴代最多)、オールスターゲームに21回出場(歴代最多)。監督としても24年間(うち選手兼任8年)で歴代2位の試合数を重ね、数多の人材と名言を遺した。

 愛称は「ノム」(ノムやん・ノムさん)「ムース」。血液型はB型。「ムース」とはロッキー山脈に生息する「ヘラジカ」のことであり、日米野球で来日したウィリー・メイズが、のそっとしているが周囲をよく観察して色々な動きによく反応していることから名づけた。また「和製ベーブ」とも呼ばれた。

*Wikipedia より


 野村克也の名言「王や長嶋はヒマワリ、私は月見草」の真意が分かった 2019.04.08
 人の成長に必要なものとは
 野村 克也野球解説者
 評論家プロフィール
 データにもとづいた野球理論を駆使し、ヤクルト、阪神、楽天といった弱小球団を優勝に導いた名将・野村克也。勝利の秘密は、みずから取っていた膨大な「メモ」にあるという。著書『野村メモ』は、その「メモの極意」を初めて公開した一冊だ。現役時代、「王や長嶋はヒマワリ。私は日本海の海辺に咲く月見草だ」との名言を残した野村氏。この言葉には、実はこんな深い意味が込められていた……。本人に当時を振り返ってもらった。
 「内なる目標」を持て
 現役時代、一軍に定着し、私が一番最初に掲げた目標が「3割、40本塁打」だった。だが、こういった数値的な目標はあくまでも個人的なことであるので、当時は公にすることはなかった。

 基本的に、プロ野球のみならず、一般のサラリーマンの方々でも「目標」として掲げるのは「ライバル社に勝つ」「売上を伸ばす」「利益を上げる」といった、集団の実益に適うものであるはずだ。

 自分の属する集団の利益を上げるために、「集団の中の一員」としての目標を掲げるのは大いに結構だが、それ以外にも、公にはしないまでも自分の中でいろいろな目標を持っておくことは大切なことだと思う。

 「3割、40本塁打」という目標を掲げ、それを達成した私は、次なる「内なる目標」を掲げた。それは「王貞治に勝つ!」というものだった。1963年、私は52本の本塁打を放ち、それまで13年間破られることのなかった51本の年間最多本塁打記録を更新した。誰よりも努力し、手に入れた新記録である。

 「10年は抜かれまい」。そう思ったのも束の間、翌年に王貞治が55本塁打を打ち、私が苦労して手に入れた最多本塁打の記録をあっさりと塗り替えてしまった。

 こちらが戦後初の三冠王に輝けば、向こうもすぐに三冠王となり、マスコミからフラッシュを浴びている。今でこそ、パ・リーグはセ・リーグとまったく遜色のない人気リーグとなったが、私がいた頃はセ・リーグの人気に太刀打ちできず、中でも王貞治の属する読売巨人軍は日本中にファンを持つ、まさに日本一の人気球団だった。

 何をしても日陰の存在のパ・リーグで脚光を浴びようと思ったら、セ・リーグにも通じるような記録を作るしかない。そう思って日夜練習に励んでいるのに、気がつけばおいしいところをすべて王に持っていかれる。

 私が通算600本塁打を放った1975年、マスコミの取材で「王や長嶋はヒマワリ。それに比べれば、私なんかは日本海の海辺に咲く月見草だ」と発言したのは、そんな自分の現状をそのまま表現しただけだった。とは言え、私が現役時代にそこまで成績を伸ばせたのは、王や長嶋の存在があったからである。

 もし、あなたが身近な目標を立てられずに困っているのだとしたら、周囲にいるライバルに目を向けてみるといいかもしれない。

 「あのライバルには絶対に負けたくない」

 そう思わせてくれる人が身近にいるとしたら、それはとても幸運なことだ。ライバルの存在なくして、人としての成長なし。まずはライバルのいる環境に感謝し、その上でライバルに勝つための策を練るといいだろう。

 数値的な目標、あるいは個人的な目標はあくまでも胸に秘め、チームの勝利のため、自分の属する集団がいい結果を残すために目標を掲げるのが、一流の在り方なのだ。

 「親分」から教わったこと
 私がいつもメモをつける習慣がつくようになったのは、他ならぬ当時、南海ホークスの監督だった鶴岡一人さんのおかげである。

 鶴岡監督のおかげといっても、親分(当時の鶴岡監督の代名詞)から手取り足取り指導を受けたからでも、「おい、野村。ちゃんとメモを取れよ」と助言を受けたからでもない。真実はそのまったく逆である。

 私は親分の口から野球のプレーに関する技術的、戦術的な話を一切聞いたことがないし、指導を受けたこともない。これは私に対してだけでなく、他の選手たちに対しても同じだった。

 指揮官だった親分のやり方は、簡単に言えば軍隊式の精神野球だった。失敗すれば烈火のごとく怒られる。投手が打たれても、ベンチに戻ると怒られるのはなぜか私だった。

 「野村、打たれた球は何だ?」と聞かれたので、「真っ直ぐです」と答えると「バカたれ!」と怒られ、それでおしまい。

 「そうかあの場面では真っ直ぐでは駄目なんだ」。私はそう考え、次にそのような局面になったら「変化球で勝負しよう」と考えた。

 そして、似たような場面に出くわした時、今度はカーブで勝負したのだが、またもやヒットを打たれてしまった。

 ベンチには鬼の形相の親分が待っていた。

 「何を投げさせた!」

 「カーブです」

 「バカたれ!」

 一事が万事この調子だった。失敗すれば怒られる。「何が駄目だったのか?」「その状況ではどうすればよかったのか?」、そういった指摘は一切なかった。

 ここで私は気づいた。

 「そうか、プロは自分で考え、自分の力で困難を克服していくしかないんだ」

 以来、私は片時もメモを手放さず、現場ではあらゆる気づき、答え、情報といったものをメモし、家に帰ってからそれらを改めてまとめ直し、自分だけのデータを蓄積していったのである。

 もし、私が親分以外の指導者に出会っていたら、その後3割40本塁打を達成できただろうか? 懇切丁寧に、手取り足取り指導してくれる指導者に出会っていたら、私は三冠王を獲得したり、プレーイングマネージャーになったりするまでに成長できただろうか? 後にいくつもの球団で監督となり、通算1565勝を上げることができていただろうか?

 きっと答えは「否」である。私に考える習慣を与えてくれた大恩人。それが鶴岡監督なのだ。

 「スランプ」を克服するには
 「“スランプ”と言っていいのは二流だけ」。これは私の持論である。一流の人は決して「私はスランプだ」などとは言わない。

 現役時代、私は調子が悪くなっても、それが「スランプ」だとはまったく思わなかった。いい時も、悪い時も、常にメモを取っていたから、そこに記された自分の過去のデータをもとに、「なぜ今、調子が悪いのか?」の答えを自分なりに導き出し、その都度対処するようにしていた。

 監督になってからも、「スランプなんです」と言う選手がいたら、「それはスランプじゃなく、ただの下手くそなんだよ」と返すのが常だった。

 「人生、山あり、谷あり」という言葉もあるように、人は誰だって生きていれば調子のいい時もあれば悪い時もある。バイオリズムとでも言うのだろうか。調子のいい時は何をやっても不思議なほどにうまくいく。しかし、一度不調の渦に巻き込まれると、その負のスパイラルから抜け出すことは容易ではない。

 やることなすことうまくいかず、思うような結果が出なければ、「自分が悪いんじゃない。これはスランプだ」と原因を他に求めたくなる気持ちもわからないではない。

 でも、そういった人たちは「調子のいい時の自分」を基準にしてしまっているから、悪い時の自分が認められないだけなのだと思う。

 「スランプ」という言葉を逃げ道にせず、調子の悪い時の自分としっかりと向き合うためには、逆転の発想をしてみるといい。つまり、「調子のいい時の自分」ではなく、「調子の悪い時の自分」を基準にしてみるのである。

 調子の悪い時の自分を基準にすれば、今まで調子がよかったのは「たまたまだ」と思える。それがもとに戻り、いつもの自分になったわけだから、調子のよかった時の自分に少しでも近づけるように、そこからまた新たな努力を始めればいいわけだ。

 調子の悪い時を克服したとしても、新たな壁はまたすぐに現れる。結局成長というものは、目の前に現れるいくつもの壁を逃げずに立ち向かった人だけが得られる成果なのだ。

 現役を退き、選手を指導する立場となってから、不調に喘ぐ選手を幾人も見てきた。私の目にはその選手が「なぜ不調なのか?」は一目瞭然だったが、私はあえて「ここをこうすれば直るよ」と直に指導することはしなかった。

 選手に不調を直すポイントを教えてやれば、問題は早く解決し、悪い状態も元通りになるかもしれない。しかし、プロで生きていれば好不調の波は必ず訪れるものであるから、その都度、監督やコーチに甘えているような選手は、その世界で生きていくことはだんだんと困難になっていく。

 そうならないためにも、選手は自分自身で解決する方法を見出していかなければならないのだ。

 好不調の波をたくさん経験した人ほど、次第にその好不調の波は小さくなり、また不調の波から抜け出す時間も早くなる。日頃から自分の好不調をメモするようにしておけば、それが不調を脱するためのヒントとなるはずである。二流と一流の差は、もしかしたらそんなところに隠されているのかもしれない。

*https://gendai.media/articles/-/63813?imp=0 より


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