1963( 昭和38 )年以降、アメリカ、イギリス、ソ連、フランス、中国は自分たちだけが核保有五大国と呼ばれる仕組みを作っています。「部分的核実験禁止条約」がその手始めで、次には「核兵器不拡散条約」を国連で採択し、1970( 昭和45 )年に発効させています。
この間日本で反日左翼とマスコミは、五大国が作った不公平な仕組みに正面切った批判をしませんでした。
「世界唯一の被爆国である日本は、全ての核に反対する。だから国内では、核兵器に関する議論は一切しない。それが平和国家日本のとるべき姿勢だ。」
共産党(の独裁者宮本氏)は、最もらしい意見を反日左翼学者たちにテレビと新聞で喋らせ、核兵器に関する議論と検証をできなくする風潮を作りました。日本をダメにする「悪法日本国憲法」を「平和憲法」と呼び、まともな憲法論議を封殺したのと同じ手法です。
40年間共産党を支配した宮本氏は、結果として、同時に日本も支配していたことになりますが、マスコミに姿を見せないため国民は氏の存在を意識しませんでした。しかし戦後日本の「偽りの平和運動」を検証していると、隠れていた氏の姿が現れてきます。
日本国民を、世界に類を見ない「井の中の蛙」にした共産党の巧妙さを、公開された情報の中から探し、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々に紹介しようと思います。そのためには先ず、「部分的核実験禁止条約」と「核拡散防止条約」の検討から始めなくてなりません。
〈 部分的核実験禁止条約 〉
・1963( 昭和38 )年6月10日、ケネディ大統領がアメリカン大学の卒業式で「平和のための戦略」という演説をした。
・演説の中でソ連、イギリスとの核実験禁止条約ついて触れ、演説の約一ヵ月後の8月に締結した。
・条約発効の10月までに108カ国が条約に調印したが、核兵器開発中の中国・フランスは調印しなかった。
この条約では地下での核兵器実験が禁止されていなかったため、条約成立の後も米英ソ3国は地下核実験を繰り返し行い、彼らの核兵器開発は引き続き進行していました。しかも地下核実験については、回数にも規模にも制限がありませんでした。
放射能汚染が地下に限定される条約だったにもかかわらず、ソ連はカザフスタンのはずれにあるチャガンで、半地下実験を多数回行い、地上への放射能汚染を引き起こすという杜撰さでした。
地下核実験しかできないという条約を無視し、中国とフランスは地上での核実験を続け、放射能の拡散をやめませんでした。
・1960( 昭和35年 )年2月フランスが、アルジェリアのサハラ砂漠で核実験成功
・1964( 昭和39年 )年10月中国が、モンゴルのタクラマカン砂漠で核実験成功
当時の状況を説明している情報を、紹介します。
「1963( 昭和38 )年7月に、ソ連と米英が〈部分的核実験禁止条約〉を締結したが、中国共産党はこれを、三国が核兵器を独占し中国の核開発を阻止しようとするものと見て強く反発した。」
「この対立が日本に持ち込まれたのが、同年8月の第9回原水爆禁止世界大会だった。大会では中国共産党代表朱子奇が、ソ連共産党代表ジューコフに扇子を叩きつけるほど激しい対立が起きた。」
「社会党・総評系が、部分的核実験禁止条約に賛成したのに対し、日本共産党は中国共産党寄りの立場から反対した。原水禁はこの時より社会党系と共産党系に分裂した。」
こうして中ソの対立は、日本の原水爆禁止運動にも波及しました。宮本氏は革命路線では中国の「武装闘争方式」と決別したのに、核開発競争では中国側につきました。
「もともと共産主義=科学的社会主義とは、自国の民族のことを他国に干渉されずに自分たちで決めるという、〈民族自決権〉を大事にする立場です。」
平成22年5月の新聞『あかはた』の記事のウソが、ここでも確認できます。宮本氏の頭にあるのは〈民族自決権〉の平和でなく、中ソ問題で揺れる日本共産党の中で、自らの独裁体制をいかに維持するかという党内政争でした。氏は共産党を「反戦・平和の党」という偽りのスローガンで隠し、国民の意識を巧みに扇動した隠れた日本の指導者だったのでないかと考えます。
次回は、宮本氏の共産党について新たに知った事実を紹介し、「核拡散防止条約」についても述べます。