~Agiato で Agitato に~

再開後約20年になるピアノを通して、地域やほかの世代とつながっていきたいと考えています。

使い分けの時代

2006年01月11日 22時01分02秒 | 雑感
若者が都会に憧れる必要(?)がなくなってきている・・・という。

新聞の記事によると、ネット通販、郊外型店舗の隆盛で、
地方にいながらなんでもモノが買えるし、
ゲームにはまっているような状態ならなおのこと、今のままの環境で十分らしい。

そうかもしれない・・と思う。
私にしても、わざわざ子供を連れて街中に出かけるくらいなら、
ネットで本やCDを手に入れたほうが、速いし、確実だ。

子供のころは違った。
「たぶん東京でなら売ってるんだろうけどなあ」「東京でなら見られるかも」というのは日常的に使われるセリフであり、
「東京」という響きはたんなる地名にとどまらず、都会に憧れる若者にとっては
<ウチデノ小槌>的な趣を伴なっていた。
東京に行きさえすれば扉が開ける、と猛勉強した者も数多かったのだ。

今でも、いい学校へ入りたいという願望は別の思いとして存在するのだろうけど、
日本地図を広げて、赤い丸のついた首都をボーっと眺めてため息をつくような
心からの渇望はもはや存在しないのではなかろうか?

がしかし、今回も行ってみて思った。東京でしか得られないものは確かにあるのだ。
巨大かつ充実した施設や設備、数多くのコンサートホールや劇場、
洗練されたさまざまな意匠、
これらは、膨大な人口が背景にあってこその産物だ。
こういった方面に興味のあるものにとっては、地方はいまだに<地方>でしかない。

若者たちにとっては、とっくに「地方でできること」と「大都会でしか得られないこと」の区別はついているのかもしれないが、
いまだに、沢田研二的「TOKIO」を引きずっている年代(私だけか・・笑)にとっては、
「足を運んでしか得られないもの」の再確認が必要かもしれない。