昨日友人のレッスンを見てて思い出したことがあります。
「和声感」のことです。
何年前だったかな、2005~2006年あたりでしょうか?(5年くらい前ということになりますね)
講評等に、「もっと和声を感じましょう」的なことを連発して書かれたことがあります。
その後一時期、何回かある先生(男性)にみていただいたとがあるのですが、
その時、まあありとあらゆる注意を受けましたけど、なかでもよく言われたのは
「あなたのは、ソプラノとバスだけだ。中がない。つまりハーモニーが感じられない」
ということでした。
子どものころはともかく、大人になってからは割と打たれ強くなっていた私ではありますけど、これはさすがにちょっとこたえました。
和音の種類はそこそこ知ってますし、書き出せと言われれば書けないこともない。でも実は、「ハーモニーが感じられない」ことが、自分自身いちばんわかっていたからなのでした。
・・・・ちょっと意外だったりします?・・(笑)
「感じてない」というのはちょっと違うかもしれないですね。感じないことはないです。ここの和音で転調するのがたまらないとか、そのくらいのことはわかっていたし、感じてもいましたから。
でもそれはちょっと違うのかも、甘いのかもしれない・・・と思ったのは、あるハーモニーに行き当たったときの、先生の反応というか感性がその当時の自分のおよそ手の届かないかなたにあるのを察したからなんです。
別に感情がすごく出る先生ではなかったですし、むしろ安定した控えめな雰囲気の方だったのですけど、
「・・・この和音聴いてて、私はこれほどどうかなりそうなのに、、あなたはなんともないんですか?」みたいな驚きを発しておられました。
なんといいますか・・・・・、ある種の言語が自分にはまったく通じていないかのような、または見える人には普通に見えるものが自分には見えていないかのような、
そういう種類のショックをその時は受けました。
これは理屈じゃないな、勉強してどうにかしようってもんでもないな・・・と思い、「感度を上げる」できれば「研ぎ澄ます」ことをしなければダメだなあ~と、
かなりガックリしながら思ったものでした。
今でもたいして感度上がってないですし、もともとが凡人ですし、なんせその時点で40歳くらいだったわけですので、
それからどうなったのかと言われるといささか苦しいところはありますけど、
それでも少しはよくなってきたのかなあ・・・という感じはなきにしもあらず、です。
楽譜のなかで立ち止まってひとつひとつを和音を聴いていくようにした、ということはありますけど、
演奏者の表情や刻々と変わる「気」に、集中して見聴きするようになった・・・ということも大きいかもしれません。
自分ではそこまで感じなかった種類の和音やフレーズの小さな変化に反応しているさまを見て(聴いて)、逆輸入というわけではないけど、
「ああそこがたまらないのか・・」とか「苦しいのか」とか、より感度のよい方々に示していただいて、自分もわかってきたような気がする・・・ということもありました。
この種のことを「センス」とか「才能」と言ってしまえばそれまでで、またそれで終わってしまいそうな気もするんですけど、
人間ってたとえ何歳からでもなんらかの道は前方に続いているもので、
今までは音が(心に)「触った」「当たった」くらいだったものが、
「刺さった」「浸み込んだ」くらいのレベルになったりなんかもする・・・・・・わけです。
それが普通の生活をしていくうえで、それが果たして幸せなことなのかどうか・・・・はわかりませんし、知ったところでどうなるわけでもないと思いますが、
自分比では「進歩」と感じられるわけです。悪い気はしない。
知識面で自分より先んじている存在を「先生」とするのは何の世界であってもそういうものでしょうけど、
自分より一歩先、いやはるか先の「感覚」を有しておられる方というのは、やはり真の意味で「先生」でありますし、
そういう意味でとらえるのであれば、「先生」という存在はほんとに身近なところにあったり、
また知識面では自分よりはるかに劣る小さな子どもであったりもするはず。
自分の周りにひとりでも多くの「先生」を見出すことができたならば、「進歩(・・・あくまでも自分比ですが)」もあるかもしれないし、
日々の喜びも増えるんじゃないかな・・・・って思います。
・・・・・ときどきは、マジメにそういうことを考えて、自分を洗濯してみる・・・・(笑)