朝から、楽器店で2台合わせ・・・・モーツァルトの「2台のためのソナタニ長調第1楽章」。
今日は、5月にやる相手と練習したのではなく、たまたま、ほんとにたまたまなんですけど、
懇意にしている中学生が別件で3月に第1ピアノを弾くことになり、私のほうは5月に第2ピアノなので、じゃあどんな感じなのかやってみようか・・・といういきさつです。
また、お互い「オチタ」「ごめん」連発ですけど、おおむね合ってました。あくまでも「おおむね」ですが(笑)。
私のほうは楽譜をひとりでめくれるようコピー製本しておりましたが、中学生のほうは本のままでしたので、娘が譜めくり。
まさかちゃんと読めるわけもありませんけど、まあいないよりは助かるといいますか、それもひとつの経験でございます。
それにしても、この曲はよくできてますね・・・ってモーツァルトさまに申し上げるようなことではございませんけど、いや、ほんとに楽しくできてます。
曲が作られた背景・状況はまあいろいろあるでしょうけど、どんな曲でも向かうときにこちら側にに大切なことは、
日常生活におけるわだかまりとか澱(オリ)のようなものを、よく片付け&掃除しておくことではないか(決してなくすという意味ではありません)、
とこのごろよく考えます。
それができてないと、いくら技術的に音を磨こうとしてもやっぱり難しいのではないか・・・・・・
曲によってはそれこそ「わだかまり」とか「澱」に満ち満ちているものもあるでしょうけど、
それはあくまでも「曲」の話であって、弾き手のものを反映させるのは、あまり聴き手にとっても幸せなことではないのではないのかもしれません。
それは何に関しても同じことなんでしょうけど・・・・・人を教えることであれ、人の悩みをきくことであれ、本を読むことであれ。
かつて自分が現在のように日常的に音楽に接してない時分に、演奏家の本番演奏前のあれこれをよんで、
演奏家ってなんて変人(失礼??)と思ったものですが、今はわからないでもないです。
どんなことだったかというと(それぞれ違う方の話です)、
弾く前には、「ある種類のミネラルウォーターのみを口にする」「何キロも泳ぐ」「瞑想する」「楽屋で生まれたままの姿になる」
いちいちうなづけるようになった自分がコワいですけど(笑)、共通するのは、自分を無あるいは白紙状態にしたいという思いなのかな、と。
これは私の個人的な感覚かもしれませんけど、私の好きな演奏家の方がたは、演奏以外の場で実際にお会いしても、
向こうの景色が透けてみえるかのような透明感と、すがすがしいような清潔感を漂わせておられます。
でもそれも、こちらのコンディションが悪いと、そういうものをキャッチできないんですね。
かつては「ストレス解消のためにピアノを弾く」でしたけど、このごろは、「音楽に接するために(できる限り)ストレスを解消しておく」みたいな順番になってきているような・・・・。
それは、日常生活のためにもそう悪いことではないように思います。
モーツァルトの話から大脱線ですけど、うちでモーツァルトを練習しようとしたら、
「とりあえず何も考えない」「何も気持ちにひっかかりはございません」という気持ちになりまして、
そういうことをふと書いてみようかと思いました。
そうは言っても、出かけるまでは泥縄の練習で(汗)、弾けないとこをなくすだけで必死でしたけど・・・・
・・・・・まあ、気分です、気分。