「師としてのリスト」(音楽之友社)
1884年~1886年の間、リストの弟子であり、秘書でもあったアウグスト・ゲレリヒの14冊ある日記の内、6冊に書かれたリストのマスタークラスでのメモを編纂したもの。
長く閲覧できなかったそうですが、ゲレリヒのお孫さんがこれらの日記や写真などを、この本を編纂したヴィルヘルム・イェーガー氏に託され、この貴重な内容を目にすることが出来るようになったようです。
イェーガー氏の言葉が1973年12月とあります。
だいぶ以前からあったのか、と日本の本の奥付を見ると、
2021年6月第1刷。
何だ、今年?
こんなに期間が開いているのにもかかわらず、出版にこぎつけて下さり、感謝。翻訳がとても読みやすい言葉で、リストがその辺でレッスンをしているのかな?、と感じてしまいます。
当時レッスンされていた曲目が、今では聴いたこともない、というものが当たり前のように存在しています。
作曲家目線で曲を評価していたようで、ショパンの作品に関しては敬意を払っていたことが分かります。
ただ、スケルツォNo.2に関しては「女家庭教師スケルツォ」と言って毛嫌いしていたとのこと。
レッスンに持ってくることも拒否していたそう。
シューマンの作品に関しては、良いものとそうではないものがあったようで、幻想曲に関しては第1楽章の最後は素晴らしく美しい、と心奪われていた様子。
この曲のレッスンでは、
「音楽をするというのは、ただ作るだけでなく、もっと神聖な行為なのさ!」「全くの無心で、ごくシンプルに、静かな心で、自然体で弾きなさい」
自分の作品に関しては自虐的な言葉が多く、
早くこの曲のことは忘れてほしいとか、
愛の夢第3番においては、
「全く、私としたことが、随分とばかげた曲を作ってしまったもんだ」
「冒頭のテーマは重苦しくならず淡々と。愛しうる限り、と言っても、そもそも愛はそう長続きしないものだからね」
「今日では耳にタコができるほど浪費されているフレーズだ」
クララ・シューマンがどのような演奏をしていたかも、リストの言葉から知ることができます。
リストは、テンポを刻み堅苦しく演奏する様子を
「ライプツィヒっぽい」
もたついた重苦しい演奏を
「ドレスデンっぽい」
平凡な演奏や音楽を
「マカロニ」
と、表現していたようです。
低音で何を弾いているかわからないような演奏には
「うがいしちゃだめだ!」
ある生徒さんのレッスンで、
「あなたはいい加減、自力で何とかしなければいけない。私はもう何も説明できないし、あまりにも退屈している」「もっと一貫した流れで弾かないと」
「そんなに速くしないで。誰のことも気にしないように弾くんだ。周りの注目を浴びるためではなく」
「今のは演奏というより突き刺すような騒音だ。耳で聴こうとしないのなら、どうしてピアノを弾いているんだ?」
リストの録音は残っておりませんが、
この本を読むと、現代にリストがいても、きっとリストは伝説になるようなピアニストだったのだろうと思わせます。
ご紹介した言葉は、ほんの一部です。
リストを知る、というよりも音楽家リストの音楽への姿勢から学べることがある、と思う本です。