橋本屋吉次郎電子日誌

YAMAHA SR400・マツダ デミオ・ツーリング・城廻りについて・その他

美濃路を歩く その20(正木~須賀駅)

2015-03-08 | 街道を歩く

【金比羅神社】
愛知県側の定渡船場跡には金比羅神社がありましたが、岐阜県側にもあります。
樹木でこんもりしているので遠くからも位置は確認できたのですが、

なかなか近づけません。
 

なんとか堤防下の道を発見。
 

 
 


岐阜県でも、のこぎり屋根を見ることができました。

 
 
 

このあたりは、昔の面影が残っていません。
以前は田畑あるいは湿地・沼地だったのでしょうか。
それとも区画整理されたから、はたまた道を間違えているのでしょうか。
 

こういう光景を見つけると道を間違えているわけではないようです。

 


【不破一色一里塚跡】
 
 


羽島市立正木小学校の正門

その脇に標柱があります。
 


一里塚跡を過ぎても、相変わらず昔の面影は感じられません。

 

ここまで来ると伊吹山がずいぶん大きく見えます。

 

【及が橋石灯籠】
一里塚から1kmほど、スーパーの駐車場入口脇に立っています。



 


名鉄竹鼻線が見えてきました。
 

須賀駅までで、この日の旅は終了です。
 


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美濃路を歩く その19(木曽川)

2015-03-06 | 街道を歩く

起宿をさらに北へ進み、濃尾大橋へ向かう坂の下をくぐり抜けます。
 

まだまだ、風情ある建物がたくさん残っています。
 
 
 
 


太平洋戦争の時、白壁が目立つので黒塗りされた蔵
これも歴史の証人です。


【定渡船場跡】


金比羅神社

境内に定渡船場跡の碑があります。
 



大きな常夜灯は灯台として活躍していたのでしょうね。


 


【木曽川】
定渡船場近辺の木曽川
 

起には3つの渡しがありましたが、いずれも現在では運営されていません。
3kmほど下流には「中野の渡し」がまだ、運行されています。
そちらは、いずれまたツーリングと訪れたいといと思っています。

木曽川にかかる濃尾大橋
 

ここを歩いて渡ります。
 

さらば、愛知県
 

歩いて木曽川を渡るのも、歩いて岐阜県に入るのも初めての経験です。
 

橋は車道と歩道が分かれていますが、車が行き交うと揺れので、少々怖いです。


こんにちは、岐阜県
 


【正木の本堤】


岐阜県側木曽川堤防脇に置かれた顕彰碑


大野伴睦氏をご存じですか。
岐阜県出身の代議士で新幹線岐阜羽島駅前に夫妻の銅像が建っています。
鈴鹿峠を通るはずの東海道新幹線をむりやり岐阜県に引っ張り、田んぼの真ん中に岐阜羽島駅を作らせた・・・とよく言われているのですが
事実はかなり違うようです。
鈴鹿山脈を越えるためにはかなりの難工事が予想され当時の技術的障害や建設コスト面の問題などもあり、在来線である東海道本線同様に関ヶ原経由に変更されたのです。
そこで、国鉄名古屋から関ヶ原までを直線で結ぶ現在のルートを考えていたのですが、岐阜市経由を望んでいた岐阜県や地元自治体に伝わると猛反発に遭ってしまいました。
国鉄側としては関ヶ原が積雪した場合のために近くに車両基地が必要でした。
そこで、大野伴睦は岐阜県内に新駅を作ることを提案させ、岐阜県民を納得させたのが真相だそうです。

 
 


【起渡船場石灯台】
交通量の多い道路の真ん中になってしまっていました。
 

1770(明和7)年に、夜渡船で難儀をした竹鼻出身の力士が、油代として田二反を併せて寄進したそうです。
 
 
 

 


コメント (2)
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美濃路を歩く その18(起宿)

2015-03-04 | 街道を歩く

のこぎり屋根を追っているうちに、起(おこし)宿にたどり着いていました。

【一宮市尾西歴史民族資料館】


別館


1982(昭和57)年に旧尾西市によって「起宿記念館」として公開され、1986(昭和61)年、隣接地に尾西市歴史民俗資料館本館が開館すると、別館として活用されています。

内部は自由に見学できます。
 

とにかく部屋数が多い!
 

昔のガラスなので外の景色が歪んで見えます。
 

本館の展示から、


起宿は、木曽川沿いにあり尾張国と美濃国の境にあたります。
木曽川には、3ヶ所の渡船場が設置されていました。
当時は天候などにより運行中止になることも多く、足止めを受けた旅客を受け入れなければならないので、規模の大きな宿場でした。

渡船場の一つ、船橋河戸には、将軍上洛時と朝鮮通信使が通る時に、270隻の船を使用した長さ約800mの船橋が架けられたそうです。
 

1720(享保13)年には象も木曽三川を渡り、江戸へ向かったそうです。
 

先日、中馬のおひなさんを見に行った際、母が「起も土人形で有名」と行っておりました。
 
 
 

箸置きサイズの小さなものもありました。
 


【本陣・問屋場跡】
歴史民族資料館の斜め向かいに碑が建てられていました。
 


宿場の名残を感じさせる建物
 


 


【船橋河戸跡】
 

塀の向こうは木曽川です。
 


往事を偲ばせる建物がたくさん残っています。


 
 


【宮川戸跡】


大藩が川渡りするときのように、他の渡船場だけでは間に合わないときに使われていたようです。


隣接する大明神社
 
 

境内の大銀杏
 

少し離れたところのは大イブキが木曽川からの風に耐え、立っていました。
美濃路の歴史を見てきたのでしょうか。
 


(続きます)


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美濃路を歩く 番外(のこぎり屋根コレクション)

2015-03-02 | 街道を歩く

愛知県一宮市、稲沢市、津島市、江南市など尾張西部地域はかつて日本一の毛織物産地でした。

いたるところに、のこぎり屋根の機屋(はたや)があり、織機の音が響いておりました。
 


のこぎり屋根の最大の特徴は採光面積の確保です。
昔は電力事情がよくなかったために、工場内の機械に電気を廻すぶん、照明機器の電気を極力抑えるための工夫ですね。
光のムラのない北側から光を採っています。

私が物心ついた頃は高度経済成長期であり、もっとも盛んだった頃で、ガチャ万景気とよばれていました。
ガチャンと機械を動かせば万というお金が入るという意味です。
 

当時は集団就職で多くの若い人がこの地にやってきました。
 

しかしながら、化学繊維の発達、生産拠点の海外移転、加えて不況が重なり、この地域の繊維産業は衰退していきました。

 

私の住む津島市周辺では零細企業は早々に操業を止め、大きな紡績工場はショッピングセンターなどに移り変わっていきました。

 

また、現在では電力が逼迫してしないことと蛍光管自体が安価になったこと、のこぎり形状にするのが高くつくこと、自然災害に弱いことからも徐々に減少していき、見られなくなってしまいました。

 

美濃路を歩いていると、萩原宿手前ぐらいから少しずつ見かけ、起宿近くでは稼働しているのこぎり屋根もたくさん見つけることができ、嬉しい限りです。
 

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