橋本屋吉次郎電子日誌

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佐倉城

2012-06-29 | お城巡り(日本100名城)

梅雨の合間に、千葉・茨城まで遠征しました。
目的は佐倉城・水戸城(日本百名城めぐり)と香取神宮・鹿島神宮(一之宮めぐり)です。

佐倉城跡は千葉県佐倉市にあり、国立歴史民族博物館に隣接した公園として整備されています。


自宅を3:00に出発、約400kmの道のりを越え、8:30に到着しました。

ただし、多くの虫たちが犠牲になったようです。

【本丸】


天守閣跡


公園管理センター内に置かれていた復元模型


天守跡にあがって本丸を見渡してみました。


銅櫓(あかがねやぐら)跡
城の櫓にしては珍しい形態をしていて、金閣寺とよく似た形をしていたそうである。


隅櫓跡


一の門跡


台所門跡(不明門)


帯曲輪
本丸の周囲は土塁に囲まれています。
多聞櫓のような回廊式の建築物があったとされています。

佐倉城に2つの出丸があります。
有事の際にはここに兵を集結させ土塁の陰から鉄砲・弓矢で応戦し、本丸を守るのです。


【二の丸】
佐倉城の歴史は古く、始まりは中世城郭までさかのぼります。
現在の縄張りはもともとは北条氏によるものと考えられています。
江戸時代になってからは、徳川家の重臣が入れ替わり城主となっていました。
なかでも堀田正睦は

タウンゼント・ハリスと

日米修好通商条約を結んだ人物として知られています。


二の門跡


出土した礎石が一箇所に集められていました。
建築物の跡に礎石が見あたらないと思っていましたが、明治時代この地に陸軍の駐屯地が作られたさい、その建物の礎石として再利用されたそうです。


【三の丸】


三の門跡


茶室「三逕亭」

佐倉城に石垣は見られません。
河川の堆積物と火山灰からなるこの地では、多くの石をそろえるのが困難であったと思います。
そのかわり、土塁が発達しました。

左は三の丸を囲む土塁、右の道はかつては堀であったと思われます。


空堀

三の丸の南西には、三の丸御殿がありましたが現在は中学・高校および駐車場となっています。
その駐車場の片隅にある佐倉城址公園管理センター


訪れたのはまだ9:00少し前でしたが、日本百名城スタンプが用意されており、押すことができました。


大手門跡
佐倉中学校正門向かいに、碑が残されているだけでした。


三の丸北西にある椎木門跡

ここを越えたところに馬出が築いてあるのですが、これが見事です。

佐倉城の空堀は自然の地形を利用していると思われますが、ここだけは人工的につくられています。

おそらく、この方向には深い谷がなく攻められやすくため、立派な馬出空壕をつくったのでしょう。


【椎木曲輪】


国立歴史民族博物館に戻ってきました。
このあたりは椎木曲輪とよばれ家臣の邸宅が置かれていたところでした。

歴史民族博物館は、古代から現代までの考古・歴史・民族に関する展示が公開されています。
この日は先を急ぐので早足で見て回りましたが、それでも見学に約2時間かかりました。
城跡散策に1時間かかりましたから、計3時間費やしました。

この後、少し離れたところにある武家屋敷を見学をしました。

                                                     (続く)

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梅雨の中休みに あじさい寺へ

2012-06-23 | 愛知県

愛知県にも、あじさい寺があります。


                       大塚山性海寺
                  愛知県稲沢市大塚南1丁目

落ち着いた名刹の

周りを取り囲むように、歴史公園が作られています。
ここには90種1万株のあじさいが植えられているそうです。

ほらね

古墳にも植えられています。

へたなコメントはひかえますので、しばしご鑑賞ください。











色も形もいろいろ、ずいぶん品種があるようです。

昨日は午後から出張でした。
台風崩れの低気圧による大雨を覚悟していましたが、思いのほか通過が早く、梅雨の中休みとなりました。
出張も早く終わったので、ちょっと寄り道してみました。

梅雨の中休みには「アンコール型」と「リハーサル型」があるそうです。
初夏のさわやかさに似た陽気になるのが前者、そして後者は真夏並みの暑さで湿度も高くなるそうです。
(以上、行く途中に聞いたラジオの請負です。)

この日はやや風は強いけど、アンコール型でした。

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賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)

2012-06-15 | 一の宮巡り

もうひとつの山城国一之宮である賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)は、通称、下鴨神社です。

歴史は古く、紀元前90年に瑞垣の修造がおこなわれたという記録も残っています。
なんと平安京が造営される遙か以前から人々の信仰の場となっていたのですね。


神社の南には糺の森(ただすのもり)がひろがっており、参道はこの大きな森の中を縦断しています。
祭神の賀茂建角身命は人々の訴え事をこの森の中で聞いて、正邪の裁きをしていたという言い伝えがあり、「糺(ただす)」という名はこれに由来しています。


下鴨神社では21年に一度に社殿を新しくするための式年遷宮が行われます。
その前儀として2012年6月17日(日)に石拾神事が行われ、その準備がされていました。


大鳥居


楼門

さらに玉依媛命の子は上賀茂神社の祭神の賀茂別雷大神です。


解除所(げじょのところ)
行幸、御幸、官祭にさいして解除(お払い)されるところです。
このように常設であるのは、大変珍しいです。


舞殿(まいどの)
下鴨神社境内の中央に位置します。
葵祭の時天皇の勅使が御祭文を奏上され東游が奉納される場所です。


橋殿(はしどの)
御蔭祭のとき、御神宝を奉安する御殿です。
9月のお月見の時には名月管絃祭、お正月の神事では神事芸能が奉納されます。


神服殿(しんぷくでん)
行幸の時に玉座となった殿舎です。
夏、冬の御神服を奉製する御殿であったため、神服殿という名前がついています。


中門


中門をくぐると、重要文化財に指定されている干支の守護神(言社)が並んでおります。


幣殿
拝殿に相当する建物で、この奥にある本殿に向かって参拝します。
本殿は東西2つならんでおり、双方とも国宝に指定されています。


祭神の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は古代の京都山城を開かれた神さま、玉依媛命(たまよりひめのみこと)は賀茂建角身命の子です。


供御所(くごしょ)
東、中、西の三間に分かれています。
東の間は神饌を調理するところ、中の間(贄殿)は魚介類を調理する間、西の間(待所)は神官など参集し、直会(なおらい)、勧盃(かんぱい)の儀などを行います。
現在でも、結婚式などで使われています。

一般に大きい神社には摂社や末社があるものですが、下鴨神社も多くの摂社、末社があります。
その中にはとても規模の大きな社もありました。


三井神社
賀茂建角身命を祀る中社、伊賀古夜日売命を祀る東社、玉依日売命を祭神とする西社の3つの社からなりたっています。


河合神社
祭神は神武天皇の御母神である玉依姫命
安産・育児・縁むすび・学業・延命長寿の守護神です。


なんと鴨長明が方丈記を記した方丈が復元されていました。
長明は、河合神社禰宜の次男として生まれ、神職に就いた記録もあるそうです。
方丈はプレハブ構造になっていて、移動できるようになっていました。
なんかイメージと違っていました。


祓社
旅行、交通安全など導きの守護神です。
もちろんしっかりお参りしました。


比良木社(出雲井於神社)
厄除開運の神様です。
こちらも、お参りしましたよ。


相生社
縁結びの神様です。
とりあえず、今はいいかな。


西門の近くに


駐輪場発見!だけど・・・


入り口に段差あり。


停めるとこうなってしまう。無粋ですね。

段差があるのでバックでは出にくいし、Uターンすると参道の参拝客に迷惑です。
何とかなりませんかねえ。

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賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)

2012-06-10 | 一の宮巡り

山城国の一之宮は、賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)と賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)です。
ふだんは、上賀茂神社、下鴨神社とよばれています。
葵祭(賀茂祭)などは両社共同で実施されます。
また、いずれもユネスコの世界遺産に指定されています。


一の鳥居


二の鳥居まで真っ直ぐに続く参道(現地案内板)


その両側には見事な桜の木がいくつもあり、春先はきっとすばらしい光景なんでしょう。


外幣殿(げへいでん)
法王・上皇の御幸や葵祭の一行が到着されるときなどに使用されるそうです。


神馬
最近は馬を飼っている神社は少なくなりました。


二の鳥居


この神社でも式年遷宮がおこなわれます。
それに向けて、建物が綺麗にされていました。


楽屋
鳥居脇にあり、神仏習合時代供僧方の用いたものだそうです。
神事の際は、楽人がここで楽器を演奏します。

細殿・橋殿・土殿の3つの建物がT字型に並んでいます。


細殿(ほそどの)
細殿は行幸の際及び斎王の御著到殿です。


細殿の前の立砂
鬼門に砂を盛って厄を払う慣わしです。
飲食店などで見られる盛り塩の原型とも言われています。


土殿(つちどの)           
床がなく、地面に直接たてているのでこの名です。
勅使などが床几に座ってここに控えていました。
現在では、お払い所として使用しています。


橋殿
御手洗川に掛かる橋の建物。神楽などが舞われます。


岩上(がんじょう)
葵祭に宮司はこの岩の上にそんきょ、勅使と対面し、御祭文に対して神のご意志を伝える「返祝詞(かえしのりと)」を申す神聖な場所です。


楼門をくぐります。


中門から参拝します。

この奥に権殿と本殿がならんで置かれていますが撮影は禁止されています。
両者とも国宝に指定されており、厳かな建物でした。
権殿は本殿が非常の場合や、立て替える時など、神様を移すそうです。


祭神は賀茂別雷大神(かもわけいかづちのみこと)、賀茂氏の氏神様です。


北神饌所


校倉
お宝が入れてあるのでしょうか。


境内を流れる明神川
流れを見ていると、京都市内であることを一瞬忘れそうです。


看板の指示にしたがってバイクを停めましたが、ここでよかったのかな。

                   賀茂別雷神社
              京都市北区上賀茂本山339

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伏見城外伝 ~正伝寺~

2012-06-06 | お城巡り(その他)

伏見桃山城運動公園に建っている模擬天守は、伏見城とはなんの関係もない建築物であり、この場所に何も遺構は残っていません。

しかし、場所を変えれば伏見城の遺構を目にすることができます。
広島県福山市にある福山城の伏見櫓は伏見城から移築されたものです。


伏見城へ訪問したときの記録
http://blog.goo.ne.jp/pf11/e/2cd09991b405e8693b72c0e14083cae7

また、門や御殿の一部は近畿地方の社寺に多く残されています。

今回訪問した、正伝寺もその一つです。
京都市内とはいえ、住宅地と農地が半々の山里にひっそりとたたずんでいました。

中門をくぐり

緩い坂の参道を進んでいきます。

味わい深い灯籠を眺めたりして疲れることはないのですが、

まだ、参道は続きます。

ようやく本堂(方丈)に到着です。

この建物、伏見城の遺構で御成殿とよばれていたものだそうです。

銅鑼を二打

本堂の内部は撮影が禁止されていましたので写真はありませんが、狩野山楽筆の襖絵がありました。
息をのむような格調高さを感じました。


本堂の広縁の天井は血天井とよばれています。
これはもともと、伏見城の廊下の床板だったのです。
関ヶ原の合戦直前に石田三成軍に取り囲まれ、鳥居元忠以下多くの武将が落城の際割腹し果てました。
彼らを供養するために寺に持ち込まれたのですが、人が踏みつける床では失礼なので天井の板としたそうです。


現在も血痕が確認できます。

血天井というのはここだけのものではなく他にも多く見られるもののようです。

目をうつした先には小堀遠州作の庭園が静かにたたずんでいました。



                                       正伝寺
           京都府京都市北区西賀茂北鎮守菴町72

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伏見城

2012-06-04 | お城巡り(その他)

伏見城は1592(文禄元)年8、豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため築かれました。
しかし、地震によって倒壊しため、新たな城が1597(慶長2)年に築き直されました。
秀吉はその2年後に城内で没しました。
 
関ヶ原の戦いの際には家康の家臣鳥居元忠らが伏見城を守っていましたが、石田三成派の西軍に攻められて落城し建物の大半が焼失してしまいました。
 
1602(慶長7)年ごろ家康によってみたび再建されたが、1619(元和5)年に廃城とされた。

明治時代になり、城跡は宮内省の御料地とされ、明治天皇桃山陵、昭憲皇太后桃山東陵となったため、遺構調査も容易ではなく、年代によっては史料が不明な点も多いそうです。

1964(昭和39)年、伏見城花畑跡に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が建設されました。
やがて、閉園することになりましたが、京都市に贈与され、現在では伏見桃山城運動公園として整備されています。

小高い丘を登っていくと妙に立派な駐車場の門が目に飛び込んできます。

バイク・自転車は無料です。

それっぽい土塀です。

立派すぎる大手門

よく見ると、
入場券売り場の跡でしょうか。

耐震基準を満たしていないことから模擬天守は内部非公開となっています。

5重6階の大天守と3重4階の小天守の堂々たる連結式天守です。

が、

大天守は姫路城を模したものであり、小天守は彦根城を模して作った全く史実に基づかない鉄筋コンクリート製の模擬天守です。

私は地元の人たち気持ちを考えれば再建された天守を否定することはできません。
また、以前は消防法などの関係で鉄筋コンクリート製でしか建てられず、これも致し方ないことです。
しかし、全く異なる原寸大モデルを置いておくことには強い違和感を感じざるを得ません。
 
2007年、映画撮影のため東映が約1億円を負担し、装飾を直して大坂城に見立てた改修がなされたそうです。
このため、表からは綺麗に見えるのですが、

裏に回ると、
蔦に浸食され、

あちらこちら、錆が出ていました。

強者どもが夢の跡を感じさせる城跡
はいくつも見てきましたが、
この城は昭和の思い出の跡を感じさせます。


伏見城は別名桃山城ともよばれています。
安土桃山時代は、安土城や桃山城が歴史の表舞台だったのでこの名が付いています。
安土城は石垣しか残っていませんが、その壮大な姿を人々に想像させ、史跡としても一級品になっているのに対し、桃山城は映画のセットとしての価値しかありません。
誠に寂しい限りです。

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伏見稲荷と北野天満宮

2012-06-02 | ツーリング


沖縄へ行ってました。
といっても、仕事なのでとりわけこの場で報告することはないのです。

通常は翌日ゆっくりするところでしょうが、私の場合、旅に出た方が心身ともにリフレッシュできるので、京都までひとっ走りしちゃいました。

まずは、伏見稲荷大社へ参拝です。


一の鳥居
京阪特急「伏見稲荷」駅を降り立った風景です。
もっとも、私はシルバーウイングできて鳥居の裏に停めましけど。
表参道を進みます。


二の鳥居



楼門

狛犬の代わりに狐が鎮座しています。
片方は玉を咥え、

もう一方は鍵を咥えています。

楼門には左大臣

と右大臣がにらみをきかせていました。


外拝殿


内拝殿


本殿


神楽殿


権殿


奥宮
こうしたいくつもの建物をひとつづつ参拝してまわっている人々がいました。
彼らは2拍手ではなく、4拍手していましたが、これが稲荷流なのでしょうか。

お稲荷さんといえば多くの重なった赤鳥居が有名ですね。

これを通り抜け、奥社奉排所にたどり着きましたが、

鳥居はさらに続きます。

この奥にある稲荷山全体が神域となっており、その道沿いに鳥居が延々と続いているのです(現地案内板)。

その行程は4kmあり、約2時間かかるそうです。

他に目的があるので、この日はここまでとし、またいつかチャレンジしたいと思います。

伏見稲荷には表参道の他に美幸道とよばれている参道があり、こちらには多くの店が並んでおります。

ここでは、焼き鳥とりわけ雀の丸焼きが有名です。
残念ながら、冬でないと手に入らないそうで、代わりに鶉をいただきました。


焼いてもらっている間に日焼け止めクリームを塗り塗り。
梅雨のさなかのはずの沖縄でしたが、傘は不要どころか、強い日差しで真っ赤に焼けてしまいました。
この日の京都もいい天気で腕も首もヒリヒリです。

待つことしばし、鶉登場。
骨も食べられるほどよく焼いてありました。


さて、伏見稲荷をあとにして、次は北野天満宮へ、


そうです。
この日の第一の目的は、高校受験をひかえた(といっても本人にまだその気がない)長男のための合格祈願です。


とりあえず、参拝して、学業成就のお守りを購入してミッションクリアです。


あれ?ここの狛犬って角があったんだ。
以前行ったときは、気がつきませんでした。
http://blog.goo.ne.jp/pf11/e/3348be63e9eb5c040fdb601fd60196c5

京都ツーリング第2の目的はお城めぐりです。

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