郡上八幡は清流や古い街並み、郡上踊りで有名な観光地です。
その中心にある山の上には郡上八幡城がそびえ立ち、町中いたるところから仰ぎ見ることができます。
近年、麓が川霧で覆われる天空の城としても知られるようになりました。
郡上八幡城のすぐ下には駐車場が用意されていますが、駐車台数は限られています。
したがって観光客が多い休日は通行が制限されてしまいます。
しかたなく登口にバイクを駐め、徒歩で登城しました。
登城口に置かれていた山内一豊夫妻像
一豊の妻千代の出生は諸説あり、郡上もそのひとつです。
城に向かって葛折りの道を登っていきます。
なお、自動車は一方通行となっています。
徒歩用のショートカットも用意されていますが、かなり急で、登りには使わず、下りのみ使用しました。
約10分で到着しました。
石碑のあたりから振り返ると、
美しい天守閣を見渡すことができます。
郡上八幡城は1559(永禄2)年、遠藤盛数によって築かれました。
しかし、賤ヶ岳の戦いで、盛数の子慶隆は、羽柴秀吉に敵対し敗戦したため、城主の座を失ってしまいました。
その後、稲葉貞通が城主となり、今日に伝えられる石垣が築かれたが、関が原の戦いで西軍に属したため移封の憂き目をみてしまいます。
徳川家康は、ここに再び、遠藤慶隆を入封させますが、江戸時代になっても城主は井上氏・金森氏・青山氏と入れ替わることになります。
力石
遠藤慶隆が八幡城復帰後に改修した節に、城下吉田川から人夫が川原石を背負い上げたそうです。
その中で剣村の通称赤髭作兵衛なる者が1m×75cm、約350kgの大石をひとりで背負い上げたそうです。
ところが、普請奉行がその力量を深くほめたたえたとたんに彼はその場で倒れて息たえてしまいました。
普請奉行はこれを哀れんでこの石の使用を禁じたそうです。
およし塚(人柱およしの碑)
郡上八幡城改修の際に人柱となった、神路村(現大和町神路)の娘”およし”を偲んで建てられた石碑。
「城山の 露と消えゆく 人柱」
このアングルが一番迫力あります。
本丸門
桜の丸隅櫓
およし観音
いよいよ天守閣へ
郡上八幡城は1933(昭和8)年、大垣城を参考にして再建された模擬天守です。
ただ、木造再建城としては日本最古であり、80年も経っているのでこれはこれで立派な文化財なのかもしれません。
天守からの眺め
南と西を流れる吉田川・小駄良川が天然の外堀となっています。
後方には緑濃い連山が飛騨まで続いています。
松の丸隅櫓
凌霜隊の碑
幕末、郡上藩青山家中においても、勤王派、佐幕派に分かれて激論が繰り広げられていたが、藩論は勤王と決しました。
しかし、徳川家譜代の家臣であった青山家では、情宜的に佐幕の雰囲気も強く、特に江戸藩邸においては佐幕派が多数を占め、脱藩して新政府側に抵抗しようと凌霜隊(りょうそうたい)が組織され、会津戦争に加担することとなります。
郡上八幡博覧館
八幡城との共通入場券が650円であり、お得感を感じたので帰路寄ってみました。
大正9年に建てられた旧税務署の建物は趣がありましたが、展示はそこそこでした。
郡上八幡の町はまだまだ見所がありますが、前日午後に激しい雷雨があり、この日も予報されていたので早めに帰宅することにしました。