橋吉の家は名古屋市の西隣にあります。
すぐ近くには、木曽川・長良川・揖斐川の「木曽三川」が流れており、これは愛知・岐阜・三重の3県の境にもなっています。
ところで、この地方には「薩摩義士」とよばれる人々が語り継がれています。
薩摩義士と言うのは、宝暦の治水工事に参加した薩摩のお侍たちです。
当時は木曽三川が網目状に流れており、大雨になるとどこかしらで川が氾濫するとても人の住みにくい土地だったそうです。
東海道もこの地方だけは「七里渡し」といって海路をとっています。
そこで、徳川幕府は木曽三川を分離すべく堤防を気づく治水工事を計画したのでした。
この工事は「御手伝い普請」として薩摩に命じられました。
御手伝いとはいうものの、工事費用は全て薩摩持ちです。
そもそも、外様である薩摩の国力を落とすのが幕府側の目的だったのです。
想像を絶する厳しい工事でした。
当初の予定をどんどんオーバーしていく工事費。
幕府によって一汁一菜に抑えられた食料。
栄養不足から疫病も蔓延したようです。
さらに、ひっきりなく続けられる幕府役人の嫌がらせ。
お上に対して不服もいえぬ彼らの中には、唯一の抗議として割腹を選んだものを少なからずいたそうです。
一年半の工事の後、最高責任者であった薩摩の家老平田靱負は、多くの犠牲を出した責任を取って切腹されました。
彼らが手がけた堤防は今でも使われております。
その中には平田靱負を祀った治水神社があります。
小学校の遠足でこの神社へ行き、薩摩義士の話を聞きました。
彼らの偉業は言うに及ばず、それをずっと語り継ごうとするこの地の人々に対しても熱いものを感じました。
私も語り継ぐべく小学生の長男を連れて行きました。
レリーフの右が平田靱負です。左の「デレーケさん」についてはまた後日にしたいと思います。