デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



キュクラデスの偶像(紀元前2700年~紀元前2300年ごろ)、大理石、高27cm

ルーヴルの画像を見返しているうちに「そうそう、いつかこの美術品について触れたいなぁ」と思っていた画像を再び見ることになった。
タイトルの言葉はベンヤミンも『パサージュ論』のなかでエピグラムに用いているH・ド・バルザックの言葉である。モードの本質を穿つようなこの断片は、いつしか美術品を鑑賞する際、頭の片隅でささやくように(私の中では)なってしまった。
ギリシャ文明が開化するはるか昔に存在したクレタ文明よりも前の時代、クレタ文明よりも早くキュクラデス諸島の文明が産声をあげた。キュクラデス諸島はエーゲ海の南部に浮かぶ島々である。この像はキュクラデス諸島のアモルゴス島から出土した。
この像は、もとは等身を超えるモニュメンタルな像の頭部だった可能性があり、彩色され目や口などが描かれていたという。彩色されていた像はどんな感じなのか想像するのは難しいけれど、現在のわずかに鼻の隆起だけ見られるこの造形は、簡潔にして美の様式を表現せしめているように思う。
私がこの像を知ったのは、ルーヴルのこれだけは見とけといった類の本からであったが、現地でこの像をまじまじと見つめたとき、「なんだ、シュルレアリスムやその先駆けとなった形而上絵画の型は、とっくの昔に存在していたんじゃないか、現代美術は知ってか知らずかパロディの域を超えない」と現代美術を勝手に卑下?したものだった。実際のところ、この像は西洋の芸術家を感動させてきたわけで、少なからず影響を与えてきたようである。例を挙げればキリが無いだろうが、私などはジョルジョ・デ・キリコの作品に似たような頭部が少なくないと思っている。
いつもの偏屈だが、私が、現在活躍中の人気のある芸術家、前衛を自任する人たちの作品を金を払ってまで見に行きたくないのは、やっぱりこういった「キュクラデスの偶像」のような作品が存在しているからだと正直なところ思っている。現代の造形を決して軽んじているわけじゃないが、やはり「すべては形を変えるだけだ」という要素が現代美術でさえ見られ、誰もやっていないことをやったつもりでも、実際のところ「いつかどこかで見たことのある要素」が何かしらあるものだ。
人間は一人ひとり違うのは当たり前だけど、いくら社会システムやそれに影響を与えた思想が歴史を彩っても、人間のやることなすこと、物の見方や美的感覚はどこか懐かしいものを感じ取れる意味で大して変化していないと、こういった美術品を見ると考えてしまう。

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