オルセー美術館内部
写真は撮ったが、誰の絵かをメモしてなかった。
アレクサンドル・カバネル「ヴィーナスの誕生」(1863)
オルセー美術館で目に付いたカバネルの作品は「フランチェスカ・ダ・リミニとパオロ・マラテスタの死」もあったが、やっぱり印象に残っているのは「ヴィーナスの誕生」である。
カバネルのことを調べてみると、頭の中でこらえながらでしか書けないようなテーマに、ぶちあたってしまう。伝統と革新の問題である。
芸術の世界も人が創作することで存在しているわけだから、常に変化しているのは分かるのだが、それでも私は時々ひどく偏屈で、ともすれば権威主義的な考え方に囚われることがある。たとえていうなら、『ドン・キホーテ』や『カラマーゾフの兄弟』をまったく読んでない作家が書いた小説を好きになれないという感じだ。
19世紀フランスの美術って混迷期で、アカデミズムもあればロマン主義もあり、自然主義もあれば写実主義もあり、レアリスムや印象派もあるという「乱立」という感じで、決して一言では語れない。ただ新古典主義を基とするアカデミズムがあったからこそ、のちのあらゆる近代絵画がある、つまり、伝統のないところには真の前衛は存在しえないことを、カバネルの作品を見ると考えさせられるのだ。
残存していた正統派アカデミズムの画家ともいえるカバネル(1823-1889)は、ナポレオン3世に愛された画家だった。1845年に22歳でローマ賞を獲得してイタリアに5年間留学する。帰国後は1855年にレジオン・ドヌール勲章を授与され、1863年には40歳の若さで美術アカデミーに入ると同時に、改変された国立美術学校の教授に彼はアカデミズムの世界での出世コースを理想的に歩んだ。
彼が獲得したローマ賞というのは、一位を獲得すると国費でローマに留学させてもらえた賞のなのだが、受験者はアカデミー会員の提出する課題に従って制作し、また試験は第三次選抜までおこなわれていた若い芸術家の登竜門でもある。
一次試験は古典文学や歴史から試験官が選んだ主題を一日のうちに油彩習作に描くというものであった。20名の合格者が挑戦する二次試験で科せられたのは、男性の裸体モデルをやはり一日のうちに油彩習作に仕上げることであった。最終審査にのこった10名は古典の歴史画や物語画を、大きなカンヴァスの油彩画として仕上げなければならず、最終審査の第一日目に受験者に下絵を描かせ、それに基づいて70日ほどかけて制作させたものが公開され、審査を受けるのだった。それで最終的に入選作が決定されるのである。ちなみに制作中は日曜以外、缶詰状態である。
ローマ賞はアカデミーが創立以来原則として保ち続けていた芸術観に沿って与えられ、またアカデミーは肖像画や風俗画や静物画や風景画を、物語画・歴史画よりも下に見ていたこともあって、乱暴な言い方をすると頭の固い権威主義の象徴みたいにとらえられることがある。しかし、ある社会が要求する美術を一定の水準で供給する芸術観は、組織的な教育なしには決して生まれえなかった。それもまた美術の重要な役目なのである。
いつだったか、市川猿之助が自ら行ってきた興行を踏まえて、「型があっての型破り」と言っていた。6年前に福岡で見て度肝を抜かれた、ピカソが13歳で描いた「年老いた漁師(サルメロンの肖像)」(1895)も、その言葉の重要さをなげかけていなかったか…。
人生は短いから自分のやりたいことをやった方がいい、という人生観は確かにそうなのだが、過去にあったさまざまな芸術の型を軽視どころか何も学ばずに、やりたいことを楽しいからおもしろいからというだけで弾けたとしても、後世に残るものはない気がする。アンシャン・レジームを学ばずして新進を纏(まと)うことはできないのだ。
もちろん、作品を見ての感想は各々異なるのは当然だし、上に書いたことはときどき私を襲う偏屈な一つの感情である。しかし、斬新なデザインのオルセー美術館は、見方によっては対立ともとれる、古典と革新の両方を展示しているのである。このことを思い出すと、古いものと新しいものを同時に受け入れるパリというかフランスの気質を感じる。カバネルの作品はオルセーの気質の代表的な何かを、作品自体で示してくれていると思った。