デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



韓国の益山(イクサン)市に王宮里遺跡という百済時代の広大な遺跡がある。アクセス方法はいくつかあるのだが、三つ紹介させていただきたい。

(1)益山駅前から出るシティツアーバスを利用
のみ運行であることを注意する必要があるが、遺跡のみならず益山のほかの主要観光地へのアクセスにもシティツアーバスはかなり便利だ。
このバスは2,000ウォンの一日券で乗り降り自由。益山駅前から9:50始発、以降11:00の分から毎正時の発車。全ての停留所で降りて次のバスが来る1時間後までの観光を効率よく楽しむもよし、特定の停留所で降りて3時間後のバスが来るまで2時間以上じっくり観光するもよし。詳細は上記サイトを参照、日本語表記にしても内容は充分把握できる。


(2)タクシーを利用


(3)市内バスを乗り継ぐ、および郊外の금마버스터미널(クムマ・ポス・トミノル、金馬バスターミナル)から徒歩
土日の益山観光が叶わず、かつタクシーを使いたくない人向けの方法である。

(i)益山駅前の東側のバス停から、バス2100、2200、2300番のいずれかに乗車。40~50分かけて金馬バスターミナルまで行く
(ii)金馬バスターミナルでバス2650、2651番に乗り継ぎ、2駅先の왕궁유적전시관(왕궁:王宮)で降りる

※以下は金馬バスターミナルから30分かけて歩いて行く人を対象(ちなみにバスターミナル前にはタクシーも待機している)


金馬バスターミナル


赤丸の金馬バスターミナルから西に
歩き、Geumma-gil(地方道722)へ。


Geumma-gil(地方道722)を南へ。


200mほど歩いたら금마사고리
(金馬交差点)に着く。横断歩道を
南に渡り、Gungseong-roを南に
直進。どんどん南に歩いて行く。


観光地への案内標識がある。


漢字でも標記されているので
分かりやすい。残り1.5kmなら
心は折れず行ける気になる。

こんな感じの道


さらに歩いたらここにも
案内標識がある。国道の
下をくぐって更に南へ。


真ん中の木の右にポツリと


見えた


到着

ちなみに帰る時はバス2650番に乗って金馬バスターミナルに行き、そこからバス2200番で益山駅前まで戻った。

長くなったが、この記事では歩いて行く方法をメインに紹介したかった。
というのは金馬バスターミナルからのバス2650、2651番はタイミングが悪ければ1時間ほど待つ必要があるくらい、本数が少ないからなのだ。
そしてなにより、スマホアプリのGoogle MapとNAVER Mapのバスのデータが古く、2024年9月18日現在、もう運行していないバスがルート検索で表示され、現地で「バスが来ないどころか表示されてるバスそのものが無い!」と旅行者を翻弄させる状態になっているのも、この記事を書いた理由(さらに細かいこととはいえ、金馬バスターミナルが上記のアプリでは「金馬共用バスターミナル」と表示され続けているのも含めて)だ。また有名ガイドブックに載っているアクセス方法も、紙媒体の書籍のほうは仕方がないにしてもwebサイトの方で情報更新がなされていない。

この記事にあるバスでのアクセス方法は、鉄道の益山駅のインフォメーションで直接訊ね、そこのスタッフの方にメモを書いてもらって、それを手にして行動した結果そのものである。また王宮里遺跡の傍の百済王宮博物館のパンフレットに載っているアクセス方法と内容的に同じである。
もし、平日に節約志向でバスを乗り継いで王宮里遺跡に行きたい方の参考になれば望外の喜びである。


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宿のある通り。車一台通るのは
厳しい幅の狭い通りだった。


鐘路5街駅の方へ
奥に写っているコンビニCUを
この旅行で何度も利用した。


向かいに広蔵市場

市場に行けば朝食を摂ることができそうだったので、歩いて通称うまいもん市場ともいわれる広蔵市場に来た。


朝8時の広蔵市場。準備の
準備という感じだった。


こちらで朝食

多くの屋台や店で準備が始まろうとしているなか既に営業している屋台が3つほどあった。
屋台のおばちゃんは朝に現れる旅行者に慣れておられるようで、目が合ったら座るように促す感じがとても自然だった。メニューも日本語の分をスッと出してくれた。


キムパプとにゅう麺で7,000ウォン

前回の扶余と慶州と釜山では食事の四分の三以上がコンビニ飯かパンかサラダだったので、昨晩と朝一番の食事で韓国の代表的な料理を味わえて良かったように思う。
ソウルは市場もいろいろあるし、市場の傍には現地の人が利用する定食屋さんもあったりするので、時間があればそういった所を探して手頃な価格での美味しい店を見つけるのも旅の楽しみの一つだ。


鐘路5街駅


ビジネス街とは異なるので
朝の地下鉄は空いているのか
と思っていたら、あとで空い
ている理由がよく分かったと
いうか思い知らされることに。

つづく


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車道の向こう側にソウル広場、
すぐ横にソウル特別市庁がある

日が沈む


地下鉄のCity Hall駅へ

駅の改札までにフードコートがあったが、曜日もしくは時間的なものだろう、開いている所は無かった。(と現地では思っていたが、閉まっているのには根本的な理由があったことを後日気づかされた)

宿は東大門(トンデムン)の近くなので地下鉄1号線で鐘路5街駅に向かった。鐘路5街駅の3番出口を出て北を向き、コンビニCUを右に隘路に入り東へ宿に向かった。
宿泊費は日本で予約した時点での事前支払いだった。レセプションに人は居らず、チェックインは無人のレセプションのカウンターにチェックインする人に向けてのメモ用紙が置いてあるだけだった。「~様、あなたの部屋は103号ベッドは3番ベッドです」と青ボールペンで英語で記されていた。滞在の間、一度もレセプションの姿を見なかった。
ソウルであっても1泊16,000ウォン(私が居た頃で日本円で1811円)で泊まれる所だったが値段相応だ。部屋にもよるが私の予約した部屋は、狭い部屋に二段ベッドが三台もあるドミトリーといえば大体想像がつくと思う。ちなみに二段ベッドの上段で起き上がったら頭が天井についた…。

夕食をどうするか迷ったが、東大門のカムジャタン通りの食堂を適当に探した。



入りたいなと思った一軒目は「もう閉店」みたいな感じで断られ、もう一軒の食堂に入った。複数人で入る雰囲気だったが店のご主人が一人でも大丈夫と迎えてくれた。


画像がブレていた…。

9,000ウォンのビビンバを注文した。メニューの写真を見て左下の釜めしだけかなと思っていたら、まずはキムチや見た目はインゲン豆みたいだったのにやたら辛い緑の唐辛子?やナムル(モヤシとごま油で和えたもの)などが手際よく並べられたので「皿が多い!」と正直戸惑った。
あとで知ったが、韓食の食卓ではパンチャン(おかず)で客をもてなす食文化ゆえの皿の多さなのだ。去年はコンビニ飯やパン店でのパンやサラダやバイキング形式での韓食や市場でのチヂミなどを食したが、今回初めて韓食の食卓らしい体験ができた。とても美味しく感じた。ビビンバを出してくれた、女将は私を見てすぐに「日本人?」と分かったようだ(笑)。

夜の東大門

月がいい感じに出ていた
私同様、門と月にレンズを
向ける人たちがけっこういた



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皇穹宇の屋根上の厄除け

さて、大韓帝国や大韓民国の「大韓」が現れたのは、端的には、朝鮮国第26代国王・高宗が19世紀が終わろうとする頃に国号を「大韓」に改めたから、というのがその理由だ。
国号が「大韓」に改まったことと前回と今回で紹介する円丘壇の跡と皇穹宇(ファングンウ)とは深いかかわりがある。といっても難しい話ではなく、冊封(さくほう)体制の内容を念頭に置けば私も分かった。


冊封体制おいては一応中国の王朝の天子(皇帝)が一番偉いことになっているので、その時代の中国王朝の皇帝だけが天を祀る祭天儀礼を行なうことができた。中国皇帝が天に祈った施設が天壇だが、冊封体制下にある中国以外の国では天壇に相当するような施設は造らないし、造ったとしても中国皇帝に気を遣って使用しないのが常だった。
だが、天壇に相当するものが朝鮮国に造られた。それが円丘壇である。では朝鮮国はなぜ円丘壇を造ることができるようになったのか。それは日清戦争で清の権威が落ち、朝鮮国が清からの(冊封体制からの)独立を宣言したからであった。独立したからには自分で天を祀る祭天儀礼を行なう施設を造ったというわけである。








サルや犬かな?





1897年、高宗は朝鮮国の国号を「大韓」と改め、これまで中国のものを使用していた元号も光武と改めた。同年10月に高宗は円丘壇で光武皇帝として即位した。大韓帝国の「大韓」という国号と円丘壇の跡と皇穹宇とはこのような関連がある。

高宗の皇帝即位までには清とロシアと日本とが朝鮮国を巡って火花を散らしていたので、即位までの過程や背景を調べれば調べるほど円丘壇の跡と皇穹宇に対して複雑な思いが募った。
翌日の朝に独立門に行ったが、なおさら先に円丘壇の跡と皇穹宇に行っておいてよかったと思った。



ソウル広場が対面に



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乙支路に面した円丘壇への門。
右側に奥の階段への通路がある。

暗くなるまでもう少し時間がありそうだったので、圜丘壇(圓丘壇,円丘壇とも。以下、円丘壇と記す)に行っておこうと思って、清渓川路や乙支路を西に歩いた。

この概要でほぼ分かる


石でできた太鼓

円丘壇が解体された
跡はホテルが建てられた




皇穹宇(ファングンウ)


後ろのホテルは
ウェスティン朝鮮ホテル


皇穹宇は八角形




解体された円丘壇か?

この場所と深く関係する韓帝国や大韓民国の「大韓」って、いつ現れたのか、サッと答えられる人ってあまりいないと思うし、私も韓国の歴史の本に触れたりソウルへの旅行の下調べをするまで答えられない人のなかの一人だった。



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広通橋の上から

広通橋の石畳と現代のタイルの川岸の境目がくっきりしていた。

古代の海洋生物のカメロケラ
スの貝殻みたいなものが奥の
清渓広場に建てられていた。

広通橋の上にあがって清渓川を眺めた。事前に知ってはいたが、本当に人工親水河川になっている。
今の清渓川は21世紀に入ってから、李明博大統領がソウル市長時代に事業着手したもので、任期中に完成までこぎつけた。水は漢江(ハンガン)からポンプで持ってきているというから、それだけでもこの川へのこだわりが察せられよう。
第二次大戦前の清渓川の写真を見ると、清渓川がかつて朝鮮王朝時代の遷都の際に風水地理の判断に大きな影響を与えた、歴史上大事な由緒ある川だったことが分かる。
ただ、戦後の韓国の高度成長の時代、戦後の歴史意識ではそこに意を払われなかった。「清渓川復元事業」着手前の「清渓川の場所」は蓋をされて高架道路になっていたことはその典型だったといえる。とはいえ、今となってはそのことが話題にのぼることがほとんどないように思う。



つまり、今の清渓川は「清渓川復元事業」で高架道路を撤去して都心につくりあげられたものであり、「復元」された姿はかつての郷愁漂う流れとは全く異なる市民の憩いの場と化したものなのである。



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広通橋(クァントンギョ)

荷物を持ったままだったが機内でおおよその見当をつけた広通橋を見つけることができた。(帰国してから分かったのだが、事前に橋のことを調べるのに使った地図アプリだけで見当をつけようとしたのは早急だった。いつも使っているものとは別の地図アプリの使用でずばり「ここだ」と判明させる方法があったのだった)





十二神将の石像

十二神将の姿は手を合わせているように見える袖丈の長い服を着て雲に乗っているかのような人物。


この十二神将はひっくり返って
いるし、石像も欠損している。

1392年の朝鮮王朝建国は高麗の武官の李成桂(イ・ソンゲ、のちの李太祖。以下、李太祖と記す)が遠征中に起こしたクーデターが発端となり、李太祖が李氏朝鮮の初代国王に即位したことでなしとげられた。
李太祖には第一夫人がいて、彼は第一夫人との間に六男二女をもうけていた。第一夫人は建国前に死去したが、息子たちの中には朝鮮王朝建国にも多大な貢献をした者もいた。
さて、李太祖は建国の年に彼よりも20歳ほど年下の第二夫人となる康妃(カンピ、神徳王后康氏)と結婚し、康妃との間にも二男一女をもうけた。
ややこしい話だが、康妃は第二夫人ではあるものの、建国の年に李太祖と結婚したので継妃でありつつ「初代王妃」であり「正后」になったわけである。
康妃は我が子を李太祖の後継者にしようとした。漢陽(いまのソウル)の遷都の際の宮殿の位置を決めたり、朝鮮を統治するうえで地域を8つに分けたり、『朝鮮経国典』を編纂するなどの重要な功績をあげ王朝建国後に絶大な権力を握った功臣であり腹心の鄭道伝(チョン・ドジョン)も康妃を後押しした。
そんなこともあって、李太祖は王位継承は長子が継ぐのが常であることを曲げてしまい、第一夫人の息子たちを差し置いて、康妃との間に生まれた幼い息子それも次男の芳碩(バンソク)を王世子(日本でいうところの皇太子)にしてしまった。
1396年に康妃が逝去した。残された李太祖は生前の康妃を溺愛していたので康妃の墓である貞陵(ジョンヌン,ていりょう)を景福宮の近くに築かせ、貞陵には十二神将の石像(上の2枚の画像)を封土させるほどだった。また、通常、廟や陵は城内に築くことはしないものだが、貞陵が築かれたのは城外ではなく城内だった。
ここまでの記述で、朝鮮王朝建国にも多大な貢献をした第一夫人の息子たちが、第二婦人の康妃死後にどういった行動を起こしたか、想像がつくだろうと思う。
第一夫人の五男で、のちに太宗となる李芳遠(イ・バンウォン)は、1398年部下に命じて後継者の芳碩、鄭道伝らを殺害させ、さらに父・太祖を退位させた。しかし、それでも芳遠の怒りは収まらなかった。
1400年に芳遠は第三代国王に即位したが、1409年に父・太祖が亡くなるやいなや自分の王位継承を妨げた康妃の眠る貞陵の破壊を指示した。遺体を掘り起こし貞陵もろとも城外に移転させ、城内に貞陵の跡形が残らないように土まで削る徹底振りだった。掘り起こされた十二神将の石像は、洪水で流れた清渓川の広通橋の補修用石材として使った。民衆がたくさん踏むように意図的にやったという話もある。





子どもが物珍しそうに
石材を見上げていた。



言葉は悪いが石材というよりは石垣の一部にしか見えないところが、このエピソードのすさまじさを物語っているように思う。













広通橋の石材の話しを知った時、日本の壬申の乱や、戦国時代の斎藤道三と息子の斎藤義龍のエピソードや、『史記』にある劉邦の後継で揉めた記述や、旧約聖書のヤコブの二人の妻と二人の女奴隷との間にできた息子たちなどのことが頭をよぎった。もちろん、これらは李太祖と康妃と第一夫人との子のエピソードとは異なるが、後継者をめぐる野望や争いはいつの時代も止むことは無い。









あと、なんだか切ないなと思いはすれど、広通橋に思いを馳せるうえで欠かせないエピソードも頭から離れなかった。

 李太祖と康妃の出会いにはエピソードがある。李太祖が虎狩りに出かけた際、のどが渇いて井戸を探した。ふと立ち寄った井戸端にある女がいた。李太祖が水をくれと頼むと、ひさごに水を汲んでから、柳の葉一握りを水の上に浮かべた。これに李太祖は何様のつもりかと叱る。女は、駆けつけた李太祖が急いで冷たい水を飲んだらお腹を痛めるかもしれない。柳を吹いてからゆっくり飲むほうが良いと思って、わざわざそうしたのです、と慎ましく答えた。この話を聞いて内心感心した李太祖は女を改めて見た。たいそうな美人だった。李太祖は女の知恵と美貌に我を忘れた。
砂本文彦著『図説ソウルの歴史(ふくろうの本)』(河出書房新社)p34

出来すぎなエピソードだとは思うが、この出会いの時点で、二人とも後の自分の運命や死後の扱われ方へのある種の不吉な予感を覚えることはできなかったのだろうか?などと分かるはずがないことを勝手に思ってしまった。後世の人間からすれば荒行で前後不覚に陥った釈尊にミルクを差し出したスジャータのエピソードとを対比する人もいるかもしれないな、とも。
ただ、李太祖にとって康妃はファムファタル(運命の女)だったろうし、李太祖は破滅したとはいえないのかもしれないが、『リア王』のような運命を辿ったと思う。



(広通橋を巡るエピソードに関心のある方、よりきちんと整理された形で詳しく知りたい方は「李太祖」「神徳王后」「康妃」「貞陵」「李芳遠」「太宗」などのワードで検索していただきたい。)

というわけで、朝鮮王朝史に見られる愛憎渦巻きまくっている象徴のような所にソウル初日に足を運んだわけである。後回しにしたらおそらく行かないだろうなと予感したのもあったし、景福宮を訪れる前に王朝の縁のエピソードをどれか一つでよいので自分の頭に印象付けておきたかったというのもあった。



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明洞聖堂から北に乙支路(ウルチロ)へ出た。


乙支路を西に

南大門路(ナムデムンロ)に右折し北へ歩いた。


熱々な二人が歩きながらキスをしていた(笑)

人にもよるとはいえ、韓国や中国では主に駅構内で人前でいちゃついたり愛情表現をはばからない若者たちをちらほら見かけるように思う。



郵政局路(ウジョングクロ)と清渓川路(チョンゲチョンロ)の交差点まで来た。
この記事を書いていてようやく分かったが、このまま真っ直ぐ行ったら後日に足を運んだ郵征総局(逓信記念館)、曹渓寺と普信閣に行けたのだ(笑)。


清渓川


ここの飛び石を渡って西に歩いた。


広通橋だ!



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明洞聖堂堂内

朝鮮王朝時代の天主教弾圧、1791年の辛亥迫害、1801年の辛酉迫害について触れようと思ったが、コンパクトにまとめようとするとかなり無理があるし、天主教弾圧の歴史についてはまた別の記事で記そうと思う。









明洞聖堂そのものより、天主教とその受容の内容になってしまった。聖堂については、こちらに詳しいので私からはあと少しだけ。
聖堂が建つ前、ベックというアメリカ人が1883年から土地の購入を始め、1892年に高宗参席のもとで施工式が行なわれた。
しかし、建設の中心人物であったフランス人司祭エウジェニー・コストの他界と、日清戦争の激化により、建設工事は遅れた。韓国最初の聖堂として、1898年に完成した。



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明洞聖堂まで来た。

韓国のキリスト教について、中山義幸・平井敏晴 著『韓国歴史散歩』(河出書房新社)によれば

 キリスト教は、18世紀頃から朝鮮半島に次第に入りはじめ、大韓帝国になって外国文化が一気に入ってくると、各地で教会が造られ始めた。カトリックは天主教(チョンジュギョ)であり、その寺院は聖堂(ソンダン)、プロテスタントは基督教(キドクキョ)であり、その寺院は教会(キョフェ)、と明確に区別している。

とのことだ。


打ち上げることが
できそうな形かも

水野俊平 著『韓国の歴史』(河出書房新社)を読むまで知らなかったのだが、朝鮮王朝のキリスト教受容は中国の明や清の時代の頃である。ただ、日本や中国みたいに宣教師がやってきて守護大名の庇護を受けて布教を始め許可を得て教会や学校を建て、いつしか布教が南蛮貿易の交換条件的なものでなされる、といったものではかったようだ。


聖堂内






朝鮮王朝は中国や日本に定期的に外交使節を派遣していた。日本へは教科書でも習う「通信使(トンシンサ)」、中国へは「赴京使(プギョンサ)」(「燕行使(ヨネンサ)」ともいう)といった具合だ。
赴京使には、清の先進文化に触れるために官吏や技術官吏が随行した。随行員の中にはヨーロッパから燕京(清の都、いまの北京)に来ていたイエズス会士と交流し視野を広める者もいて、彼らの活動によって西学(西欧の自然科学・西洋思想・天主教など)が朝鮮に紹介された。
17世紀には朝鮮の知識人の間で西学を研究する人が増え、天主教を探究する人も出始めた。その背景には両班層の学派の一部の朝鮮古来の伝統的価値観や朱子学に対する反発もあったが、天主教の受容という点だけでいえば知識人が天主教に傾倒し自ら天主信仰に目覚め、自主的に教会をつくったところに、日本や中国と違う特徴があるといえよう。



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