デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



資善堂の基壇と礎









資善堂と目にしたとき某化粧品メーカーのことかと思ってしまったが、落ち着いて読んでみれば全く違った。
解説の通り資善堂は王世子と世子妃の居所だったので、この辺りは東宮の領域だった。
15世紀からあった建物ながら20世紀に入り朝鮮の国権が失われると日本の東京に移設され、美術館として使われたとは…。しかし関東大震災で建物は全焼し、基壇と礎だけが残された。上の画像の基壇と礎は1995年に再び韓国に搬入されたものだ。


香遠亭


左に興福殿と右に後宮領域


後宮領域の緝敬堂


この一帯は後宮と宮女たちのための後宮領域だ。寝殿として使われた幾多の殿閣と複雑な行閣は殆んど無くなり、現在は咸和堂と緝敬堂だけが残っている。
この建物が現存するのは日本が朝鮮総督府博物館を運営し、その事務室として使うために壊さなかったからだという。


興福殿

晴れてきた

つづく


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香遠池と香遠亭

もう一度神武門から入城した。


香遠池と香遠亭を少し見たあとその北側の建物に行ってみた。現地では気付かずに、また帰国してから潜在的に「見ておいてよかった所に、行ってたんだな」と思ってしまった建物だった。そこは乾清宮だったのだ。









乾清宮は1895年10月8日未明に三浦梧楼が日本守備隊や公使館警察などと糾合して実行部隊を王宮に侵入させ、閔妃(ミンピ)こと明成皇后を殺害した舞台となった建物である。2007年に復元された。
中も特別公開するときがあるらしく、こちらの動画で中の様子が分かる。










1895年閔妃(ミンピ)が殺害された事件は韓国では乙未事変(ウルミサビョン)といわれる。
日本側は事件を大院君派のクーデターに見せかけようとしたが、事件の一部始終はアメリカ人軍事教官やロシア人技師らに目撃されていた。事件の国際問題化は避けることができなくなり、日本側はやむなく事件の関連者を逮捕し裁判を行なった。しかし事件関係者らは翌年の1896年1月には証拠不十分ということで全員釈放されている。
閔妃殺害事件後、全国的な抗日義兵活動が起こった。親日派内閣がその対応に追われている中、親露派の政治家たちはロシア公使にはたらきかけ、高宗にも王宮からロシア公使館に移るよう勧めた。高宗は勧めに従った。独立門の記事で触れた露館播遷である。



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集玉斎のほうへ


集玉斎

集玉斎については、身も蓋もないがこちらをご覧いただいたほうが早いだろう。


神武門

門の向うに青瓦台が見えたので、つい門から出てしまった。


青瓦台(チョンワデ)



最近(2022年5月)まで韓国大統領府だった青瓦台。
人がたくさんいたこともあるし、自分の関心がなかったり勉強不足もあって入らなかったが、外国人旅行者でも見学できるようである。
今の大統領執務室は国防省庁舎に移っている。なお今の官邸はソウルの漢南洞(ハンナムドン)にある外交部長官公館が尹錫悦大統領の官邸に決まった。


神武門


イベントのスケジュール


見学希望の人が
行列をつくる

神武門からもう一度景福宮の中へ。チケットブースに係員がいない理由がようやく分かった。


なんという
パワーワード(笑)。

「本日は無料です」の標示を見てガイドブックを繰ってこの時にハッと思いあたった。日本でいう盆休みや正月休みのチュソク(2023年のチュソクは9/28からだった)なんじゃないか? 平日なのにやたら人が多かったし、チュソクであれば無条件で無料とは限らないものの、連休だからこそ景福宮のスタッフも休みの人が多くなるし無料にしていたのかも…。また可能性は低いとは思えど、光化門その他の工事が完了していない時期だったから無料だったのかもと考えた。


カササギ



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工事用フェンスの上にカササギがいた。

あとで知ったが韓国の国鳥だという。韓国の呼び名はカッチ。




殯殿(ひんでん、もがりどの)に来た。
ここは王や王妃が逝去すると棺が安置される場である。郊外(城外)の王陵に埋葬された後は、宮殿の魂殿に位牌が祀られる。そこで一定期間葬儀が行なわれ、位牌は宗廟に祀られることになる。


人の少ないところを
選んでの撮影のようだ













泰元殿は景福宮の殯殿として、交慶殿は魂殿として建てられた。周辺には恭黙斎、永思斎などの葬儀用建物もあって一郭をなしていたが、日帝時代に撤去されたこともあり、一時期は青瓦台の警護部隊が駐屯していたこともあった。
2006年にこの一帯の復元工事が完了し、本来の姿を取り戻した。



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勤政殿の北側

青空が徐々に現れ始めた。


思政殿への門だ







思政殿(サジョンジョン)








千秋殿(チョンチュジョン)

勤政殿の北には国王が執務や研究を行なった思政殿、千秋殿がある。
今となってはよく思い出せないが、なぜか王や王妃のための寝殿を後回しにして慶会楼の方に行った。


慶会楼(キョンフェル)



1階を石柱で、2階を吹きさらしの大規模空間となっている。宴会や外国施設の接待に使われた。










景福宮は日韓併合後の1915年に施政5年記念朝鮮物産共進会、1929年9月~10月に総督府主催の施政20周年記念行事として朝鮮博覧会が開催された歴史も持つ。
朝鮮博覧会では景福宮の北半分がその会場にあてがわれたが、宮内の住居部分のほとんどを撤去し、博覧会用の建物が新設された。慶会楼は博覧会会場の休憩所として使われた。



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勤政門(クンジョンムン)と左に北岳山

景福宮(キョンボックン)は李成桂により朝鮮王朝が建設された3年後の1395年、開城から今のソウルへの遷都の翌年に創建され、正宮として使われることになった。

勤政門

勤政殿は国家の重要な儀式や中国からの使節との接見が行なわれた朝鮮王朝の心臓部であるが、勤政殿の南に建つ勤政門はその門楼である。

光化門の方を振り返る。
景福宮の南には現代的な
ビルが建ち並んでいる。

この装飾の細かさ…


勤政殿(クンジョンジョン)

勤政門から朝廷へ。石畳を敷いた朝廷に入ると、一段上がった御道、王の道がある。その両端には文官武官が階級別に建つ位置を示す品階石が並び、奥に勤政殿が建っている。



くりかえすようだが勤政殿は国家行事を行なった場で、前面の石畳を敷いた朝廷とともに王の即位式や文官武官との朝会、外国使節との接見に利用された。二段の月台(基壇)の上に殿は建ち、屋根を二層に架けている。
韓国最大の木造建築であり、軒や梁は緑と紅を基調としてそこに芥子色と青を織り交ぜ、さらに斗栱(ときょう)屋根の先を支えるために柱上に組まれる木組み)の部分には、緑と紅で雲形をしたような絵板があしらわれている。
















遷都から約200年後には文禄の役(壬辰倭乱)に乗じた混乱で、景福宮も王が去ったら奴婢たちの略奪に遭い火が点けられ建物の大半が焼失、そのまま放置された。
宮殿は文禄の役から約270年後の1867年に興宣大院君(フンソンデウォングン)が再建した。その子・高宗(コジョン)が、1868年から景福宮を正宮として使い始めた。



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朝日に映るフードウェスタ
 in 益山(イクサン)横断幕

2025年になりました。本年もよろしくお願いいたします。


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景福宮を建てるにあたり、風水地理で
重要視された山の一つ仁王山が見える

工事のため光化門(クァンファムン)からは景福宮に入場できなかったゆえ、来た道を西に引き返した。

(たぶん)維和門が写る

西側の入口から入ったが入場券売り場が見当たらないので光化門の内側の方へ。そこでもチケットブースが見当たらなかった。でも、誰もチケットを手にしていなかったので私もそのまま入った。

光化門の内側で守門将交代式が行なわれていた。












号令の太鼓の音が「ドン」と響いていた。見学客が多かったのでこういう感じだったが、見れてラッキーだった。

ところで光化門は日韓併合を経て朝鮮総督府庁舎が建てられてから総督府により景福宮の東門である建春門(コンチュンムン)の北側に移転された歴史を持つ(1927年)。
再び元の位置に戻されたのは(たぶん)1968年で、その際コンクリートの土台で復元された。(「たぶん」などと書くのは書籍によって記述が異なるというのもあるし、私なりに光化門の昔の写真と自分が撮った画像を見比べて考えた結果である。)
1968年に復元された門に、(私が目にした門の土台の新しさからして)更なる復元や修復や補強を重ねた工事を2023年9月の時点(もしくはそれまでに)でやっていたようだ。
(後記:こちらによれば上の画像(2023年9月の時点)での光化門に至るまでには、紆余曲折があったようだ。)

興禮門(興礼門、フンネムン)

韓服を着た人たちでいっぱいだったので忘れそうになったが、1995年までここには旧朝鮮総督府庁舎(1916年着工、1926年竣工)が建っていたのだ。
知られているとおり、旧朝鮮総督府庁舎の解体は「景福宮の復元」の始まりを意味していた。ただ、旧朝鮮総督府庁舎の解体については韓国国内でも負の遺産としての保存論があり解体に反対の声もあった。しかし、景福宮復元事業を推進する論や声には多勢に無勢だった。
よって興礼門も新しく復元されたものである。



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韓服の若い娘らが日本語で
おしゃべりする声が響いていた


着替えを終えて店を
出てきたばかりのようだ


たしか午前10時くらいだったが
韓服を着た女性が一気に現れた
ように感じた。イベントか何か
あるのか?とすら思ってしまった。


韓服の男性もいる


韓服は幅広い年齢層で
人気があるようだ。

正面の門から景福宮に
入れるかどうか行ってみた


左に北岳山が写る

景福宮と風水地理の関係で北岳山が重要な山であることは事前に知ってはいた。実際に目にすると実感が湧いた。

光化門(クァンファムン)

景福宮の正門の光化門。私が行ったときには周辺が工事中だった。上の画像は工事用フェンスの上から撮ったものだ。この画像撮影時から1年以上経ったことだし、今では工事が終わっている可能性は高い。



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日本語の看板も見かける

社稷壇からチャハンムンロ1ギルを通って準備中のグルメ料理店を見ながら景福宮へ。


店が開くのは昼以降か?





休業日だったようだ


おや?


グルメの店の並びの
次には韓服のレンタル
店が軒を連ねていた。

韓服の横で写真を撮っている
婦人たちの前を、韓服を着た
娘さんたちが通りがかった。
正直、「何が目に飛び込んで
きたんだ!?」と思った。



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