サマセット・モーム作『月と六ペンス』(岩波文庫)読了。
最近、東京五輪の新国立競技場やエンブレムの問題で騒いでいたなかでこの小説を読んでいたのだが、読書中にも世間はおもしろがるように粗探しを続けていたこともあって、眉をひそめたあとで本を繰るといった読書であった。
『月と六ペンス』を読むと、アナクロニズムみたいなことをいうようだが、天才が死後に評価される時代こそが最良の時代ではないかという気さえしてくる。生きている間に人々に愛され評価され名声を得ることは誰にとっても大望だろうし、私も普段からそう考えていて、旅行で寺社や教会などを訪ねたら現世利益的な祈りばかりしているが、チャールズ・ストリックランドの人物像はそれとは正反対である。
この作品を読みながら世間のエスカレートする粗探しを目にすると、作中のチャールズ・ストリックランドやストルーヴがいくらモームの筆による豊かな誇張・脚色がなされているとはいえ、作中の語り手が最終的には憧れを抱く人々のようなキャラたちがエンブレムの制作者であればどれだけマシになったことだろうと思う(そこのところは小説のキャラではなくて今生きている人ならばお金や権利や名声は発生するとコロッと豹変するかもしれないが(笑))。
『月と六ペンス』のなかのイギリス女性たちの描かれかたは納得できる記述も多いものの、かなり辛らつで正直ここまで書くか、と思ってしまった。しかし訳者でもある行方昭夫氏の解説で、モームが日常生活において妻と上手くいっていないことの捌け口として作品に昇華したされたキャラの可能性があることを知ると、どこか腑に落ちるのである。『人間の絆』でもそうだったが、人間を矛盾したものの総体として容赦なくありのままに描いている『月と六ペンス』も不愉快になりつつもおもしろく読めるいい作品である。
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