安土城跡からほど近く
戦国時代に日本にやってきたポルトガルとスペインの宣教師たちのミッションは、戦国大名に武器を売り利益を上げ、キリシタン大名を足掛かりに日本をキリスト教国へと改宗・変心させ、日本の銀をヨーロッパに持ち帰ることだった。
既に天下布武の印を使用していた織田信長といえど南蛮文化の取り入れには宣教師の存在を無視することはできず、そのこともあって宣教師たちはキリスト教の庇護を得るのに成功した。
1580年、教会建設用地として信長から下附され、オルガンティーノ神父がキリシタン大名の高山右近の援助を受けて住院を建てた土地がここである。住院は間もなくカトリック小神学校(セミナリヨ)として使われる。
授業科目は、日本文学、キリスト教理、ラテン語、修辞学、音楽などで、音楽の授業で少年の奏でるオルガンを信長が聞きにきていたと伝わっているという。セミナリヨではのちに長崎で殉教した26聖人の一人三木パウロも学んでいた。
1582年本能寺の変で信長が死するや、セミナリヨの建物は明智軍によって廃墟になった。